龍虎、東アジアを駆ける

川野遥

第一章 日本乞師

第1話

 慶安二年(1649年)師走。


 江戸は平穏な年の瀬を迎えていた。商人・町人達は慌ただしく走り回っており、農民達もようやく寛永の飢饉から立ち直りつつあった。町には活気が漲り、程なくやってくる次の年への期待が満ち満ちていた。



 しかし、一方では、時代に取り残された澱が、次第、次第に不満となって溜まりつつある時代でもあり、どこか息苦しさも感じさせる。そんな空気も微かに、隅の方に漂っている。



 十六日の早朝、南町奉行神尾元勝かみお もとかつとその与力・同心六名が神田連雀町かんだれんじゃくちょうの長屋へと向かっていた。


 長屋の前では、起床した者から先に目の前の通りを清掃している。物陰から、神尾は長屋の様子を窺った。


「あいつだ…」

 

 と視線を送る先には、見張られていることなど気づいていない様子の長髪の男がいた。年のころは40半ばであるが、体格は細身で俊敏そうな様子がある。


「行くぞ」


 神尾は部下に呼びかけると、通りへと入った。堂々とした様子で目指す男に近づく。相手の男も神尾達に気づくが、同時にその人数の多さに面食らった顔をした。


「南町奉行、神尾元勝である。その方、由井正雪ゆい しょうせつに間違いないな?」


 問いかけに、正雪と呼ばれた男は不満そうな顔をしながらも、頷く。


「はい。いかにも由井でございますが」


「公儀の件で話がある。来てもらいたい」


「これからで、ございますか?」


「うむ。これからである」


 奉行の要請に、正雪は明らかに納得していない顔を浮かべたが、自分を取り囲むようにしている数人の同心を見て、観念したかのように溜息をついた。


「ご主人様、どうかなさいましたか?」


 異変を察知したのであろう、隣の長屋から少年が顔を覗かせてきた。同心達の姿を見てびっくりした少年は、すぐに外に出ようとした。あるいは誰か友人に知らせにいくのかもしれない。


「案ずるな。公儀の件とはいえども、尋問などではない」


 奉行が少年を制止するように鋭い声をかけた。少年は恐る恐る振り返り、奉行の顔を見る。半信半疑といった様子であった。


「文成、やめい」


 正雪が押しとどめた。


「…恐らく、仕官の話であろう。しばらく待っているがよい」


 念を押すようにとどめると、奉行に向き直る。


「それでは参りましょう」


 正雪が素直に従ったことに、奉行は安堵の表情になった。



 正雪は、奉行のすぐ後ろをついて歩いていた。町ゆく数人が、物々しい行列に好奇心に満ちた視線を向けるが、正雪や同心らが視線を向けるとすぐに逸らす。気持ちのいい扱いではないが、やむを得ない。


「…むっ?」


 だが、しばらく歩いているうち、正雪は異変を感じた。奉行達の向かう先が南町奉行所でないことに気づいたのである。


 あるいは騙されたのか?


 そう考えて、奉行の顔を見たが、その表情には特に何か企んでいる様子はない。


「…城に向かっておる」


「城に?」


 正雪は首を捻った。


 彼が幕府から誘いを受けたことは二度や三度ではないが、城にまで招かれたことはない。奉行本人がやってきたうえ、城にまで案内されることというのは仕官させるためとしては信じがたいことである。


(これはいかん。誰かがしくじって、幕閣が直々に詰問してくるのかもしれん)


 正雪が一瞬考えたことは、それであった。



 由井正雪が神田連雀町で、張孔堂ちょうこうどうを開き、門下の者に軍学術を教えるようになって、はや二十年になる。門下は拡大の一途をたどり、現在は三千人近くまで増えている。門下生には武士や町人が多くいるが、近年になって浪人の数が非常に増えてきている。


 そう、浪人である。


 元和偃武げんなえんぶにより、日ノ本から戦闘はなくなった。その後、島原で切支丹による反乱は発生したが、この三十年、戦はその一度だけである。世は既に、武士が必要とされる時代ではない。


 それでいて徳川家の方針は厳しい。ついていけない大名家が年に一、二家改易されている。その下にいた者達は当然仕官の道を断たれて、浪人として放たれることになる。


 しかし、彼らに再起の機会はほとんどない。武士を必要としないからである。


 当然のように生活苦となっていく浪人達の不満は高まる一方であり、しかもその人数も増える一方であった。


 正雪の塾は、次第にそうした不満をぶちまける場所となっていた。


 正雪はそうした浪人を一応宥めてはいたが、一方では自身も幕府の限界を感じていた。


 今はまだ無理であるが、もう少しすれば、倒幕は不可能ではない。


 そう考えていたのである。



 仮にそうした不満などを幕閣が深刻に捉えているとなれば、事態はかなり厄介になる。楽観的な見通しは立てられない。


(下手をすれば、もう戻ることはできぬかもしれない…)


 正雪は覚悟を決めざるを得なかった。


「…一体どのようなことでありましょうか?」


 今更逃げることはできないが、せめて反論の仕方は考えたい。何とか奉行から引き出すことはできないかと、問いかけてみる。


「正直に言うが、わしも分からん。お主を必ず連れてこいと命じられておるだけだ。ただ、少なくとも詮議や何かということではないと思う」


「過去に三度ほど仕官の誘いを受けましたが、このような形ではなかっただけに、何らかのお咎めがあるのではないかとも思ったのですが…」


「うむ…。前例のないことであるだけに、わしにも何とも言えない」


 となると、余程のことのようである。これは参った。奉行は詰問の類ではないと思っているようであるが、それ以外にこれだけ物々しい連れ方はしないであろう。どうやら、待つのは切腹か斬首のようである。正雪は頭を抱えたくなった。



 気づいた時には江戸城の中に入っていた。


 考え事を必死に巡らせていたせいか、時間の感覚が全く分からない。そのまま中に入る。


(万一生きて出られた場合には、江戸城を攻めあがる参考にはなる、な)


 そう考えながら、引き続き奉行に案内されるが、長い廊下をかなり歩く。どうやらかなり上の方の幕閣と会えるらしい。


 ようやくたどり着いたところで、奉行が丁寧に頭を下げる。


「由井正雪を連れて参りました」


「ご苦労」


 奥にいる初老の男が答えた。


 ここまで来たからには仕方がない。何が待つか知らないが、逃げも隠れもせず堂々と当たるべきである。正雪は覚悟を決めて、中に入って座った。


「由井正雪にございます」


「朝からわざわざ済まぬな」


 奥の男は、思ったよりは柔らかい雰囲気である。もっとも、詰問などにおいても当初は親しく話しておいて、相手の警戒を解いてから核心に迫ることは多い。


 雰囲気だけで信用すると痛い目を見る。


 とはいえ、そうした考えがあるにしても、目の前の男は友好的な雰囲気である。


「まあまあ、楽にしてくれ。あ、申し遅れてしまった。わしは松平信綱まつだいら のぶつなと申す」

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