第160話

 持ち込んだ馬車の中に毛布を敷いてふたりを横たえると、十分程で顔色が元に戻り、脂汗も出なくなった。どうやら命に別状は無さそうでひと安心。念のため、しばらくそのまま安静にしていてもらう。

 その間、そこいらの石を組んで簡単な竈を作り、キッカの水魔法とルカの火魔法でお茶を淹れてもらう。馬車の近くに車座で座り、お茶の香りで心を落ち着かせる。人心地ついたら原因の究明だ。


体調不良の原因は、あの窪地のナニか・・・で間違いないだろう。しかし、いったい何が?


「細菌や微生物ではないと思うんだよね。発症するのが早すぎるし、窪地の外に出たらすぐ回復するみたいだし」

「わたくしの天秤魔法でも異物は検知されませんでしたわ。魔素が原因ということも考えられますけど、濃度で言えばダンジョンの中に居た時の方が高かったですし」

「魔物の攻撃やろか? 呪いやら魅了やらの魔法を使う魔物もおるやん? なんか精神的にやられるような魔法を喰らったとか」

「でも気配察知では何も感じられなかったんだよね。何かに反応出来たのはウーちゃんだけだったから、臭いのある何かだとは思うんだけど……」

「少なくとも音はしなかったみゃ。虫の鳴き声だけだったみゃ」


 ふむ、音か。セイレーンの魅了は歌に乗せてたし、虫系の魔物なら泣き声に乗せて魔法を使うこともあり得る。でも、変な魔力は感じなかったんだよなぁ。

 今も、窪地の方からはけたたましい程の虫の鳴き声が聞こえてくる。一番大きいのはセミの鳴き声で、大型だからか太くて低音が効いている。

 その次に大きく聞こえてくるギリギリという不快な音は、多分バッタかコオロギ系の虫だろう。翅を擦り合わせてるんだろうけど、まるで初心者のバイオリンみたいな怪音波をばら撒いてる。

 虫や鳥が鳴くのはメスへの求愛らしいけど、こんな騒音が好きっていう相手とは仲良くなれる自信がない。まぁ、俺は虫でもメスでもないから当たり前か。

 もし音に乗せて魔法を放ってるんだとしたら、今も俺たちは影響を受けてないとおかしい。音の魔法という線は薄いだろう。


「やっぱりガスかな? クリステラ、本当に分析で何か変わったものはなかった? 些細な事でもいいんだ」

「そうですわね。詳しい内訳は、魔素はこの辺りよりも若干多い二パーセント、多くなると酸欠になるという二酸化炭素は一パーセント以下、無いとやはり酸欠になるという酸素が少々多くて三十二パーセント……」

「っ! それだっ!!」

「えっ!? どれですの?」


 やられた! 異質なものが混じってるんじゃなくて、元々あるものの比率が変わってたのか!


「ふたりの体調不良の原因が分かったよ。やっぱりガス、それも普段僕たちが普通に吸っている『酸素』が原因だったんだ。多分間違いない」

「は? 酸素ですの?」

「いやいや、うちら酸素が無かったら死んでまうんやろ? いっぱいあるんなら、ええんちゃうのん? なんでそれが原因なん?」

「あらあら、酸素は草や木が吐きだすんですよね? 森の中なら多くて当たり前なのでは?」


 中学校レベルまでの理科知識は皆に教えてある。冒険者の活動では、意外に役立つ場面は多い。

 酸素や二酸化炭素と植物の関係も教えてある。その中で酸欠についても教えてあったんだけど、酸素過多については教え忘れてたみたいだ。

 いや、俺も中学校では教えてもらってないかもしれない。確か、ダイビングが趣味の同僚との話でボンベの話題になって、その時に教えてもらった雑学知識だった気がする。医療用の高濃度酸素ボンベを潜水で使うと酸素中毒になるって話。


「酸素が少ないと酸欠で死んじゃうんだけど、逆に多すぎても身体に良くないんだよ。その理由はよく覚えてないけど、大体三十パーセントが上限だったはず。今回はその上限を越えてたみたいだから、それが原因だったんだと思うよ」

「あらあら、お酒を飲み過ぎて倒れるようなものですか?」

「そうだね。適量なら問題なくても、摂りすぎると体調を崩したり最悪の場合は死んじゃったりするから、そういう意味ではお酒と似てるかも」

「なるほど、丁度ええ塩梅があるっちゅうわけか」


 この世界の大気中の酸素の比率は約二十三パーセント。前世の地球じゃ約二十パーセントだったはずだから、若干多い。これは、この世界がまだ発展してなくて酸素の消費が少ないのと、開発されていない森林面積が大きいのが原因じゃないかと思う。

 森林の真っただ中にあるこの窪地は、ある意味周囲から隔離された空間だ。風もほとんど通らない。洞窟内にガスが溜まる様に、時間を掛けて窪地の底に酸素が溜まっていったんだろう。酸素の分子量は、空気の主成分である窒素よりも僅かに大きいからな。


 思えば、巨大昆虫という時点で気付くべきだった。地球でも大昔には巨大な昆虫が闊歩していた時代があったらしいけど、巨大化の原因は当時高かった酸素濃度のせいという説が有力だったはずだ。

 異世界トンボが事前情報より巨大化していたのも、魔素だけじゃなくて酸素の影響があったからと考えれば説明がつく。

 それに、魚の養殖に高濃度酸素水を使って早期育成させるっていう話も聞いた事がある。あの沼の魚はそれほど大きくなかったみたいだけど、大きくなる前にヤゴに喰われてるのかも。念入りに探せば、捕食から生き延びた巨大魚がいるかもしれない。沼の主だな。浪漫だ!

 

「でも、なんでアタイとデイジーだけ倒れちまったんだ? みんなはピンピンしてるっていうのによ」

「……不覚」


 中で話を聞いていたんだろう。サマンサとデイジーが毛布を肩に掛けたまま馬車から下りてくる。

 ちょっと声がかすれてる気はするけど、顔色はもういつもと変わらない。ひと安心だ。ルカがふたりにもお茶を淹れる。


「いや、時間の問題だったと思うよ。遅かれ早かれ、皆倒れてたと思う。たまたま、ふたりが先に倒れただけだよ」


 おそらくは『基礎の身体能力』と『身体強化の熟練度』が理由だろう。まだ身体が成長しきってないデイジーと、身体強化の練度が高くないサマンサ。たまたまこのふたりに先に症状が出ただけで、ちょっと状況が違っていたら、症状が出ていたのはデイジーと同じくまだ身体が出来上がっていない俺だったかもしれない。危なかった。

 いち早く異常に気が付いたウーちゃんには感謝感謝だ。お茶を飲み終えて空になった平面製のカップを消し、俺の右側で寝転がっているウーちゃんの背中を撫でる。うん、今日もいい毛並みだ。


「よし、それじゃ大事をとって今日はもう休もう。トンボは僕が明日の朝にちょっと行って捕まえてくるよ」


 原因が分かれば対処の方法なんていくらでもある。猛毒のフグだって、どこに毒があるか分かれば、取り除いて美味しく食べることができるのだ。



 久しぶりの野営をして翌朝。朝食の後だから、もう陽はそこそこ高い。

 俺は沼の上空百メートルほどの空中に浮かんでいる。窪地の外縁よりも上空だ。酸素は窪地の底に溜まってるから、この高さなら中毒になる心配はない。底に有害なものが溜まってるなら、そこ・・に行かなければいい。簡単な話だ。ここから平面を操作してトンボを捕まえようというわけだ。

 ゲーム的で現実感に乏しい感じがするから、あまり平面魔法を遠隔操作で使いたくはないんだけど、安全のためであれば仕方がない。個人の感傷と安全、どちらを取るかなんて秤に掛けるまでもない。冒険はしても危険は極力回避する。それが冒険者だ。

 ちなみに、他の皆には薬草採取をお願いしている。地味な仕事だけど、冒険者ギルドの常時依頼だけあって需要は大きいからな。調達のポイント稼ぎには悪くない。

 ウーちゃんには特に何も言ってないんだけど、珍しく俺ではなく皆について行った。群れの仲間を見守ってあげようって感じかな? 面倒見のいい子だ。


 沼の上の同じルートを行ったり来たりするトンボは、各都市の空港間を往復する旅客機を彷彿させる。余計な荷物(旅客)を乗せない分、トンボの方が身軽で自由だとは思うけど。航路を外れて寄り道しても問題にならないし。

 同じルートを飛ぶなら捕まえるのは簡単だと思ったら、意外にも平面を機敏に避ける。透明で見えないはずなんだけどな。大きく平面で囲んで、後から縮めるのでもいいんだけど、それでは作業的過ぎてつまらない。仕事にも遊びは必要だ。ここはトンボの性質を利用して捕まえよう。

 そのルートの途中に、平面で一本の柱を立てる。トンボの大きさに合わせた、直径五十センチ、高さ五メートルほどの円柱だ。

 突然現れた円柱を警戒したのか、トンボはUターンして去っていく。と思ったら、すぐにまた戻って来る。そして円柱の先に停まる。やっぱ虫だな。動かないものに対する警戒心が恐ろしく低い。

 停まった瞬間に翅を平面で固定しておしまい。簡単なものだ。飛べなくなったトンボの首をチョンと切り取って、ついでに魔石がある胸部分も切り取る。腹と翅、足は刻んで沼にポイだ。すぐに小魚が集まってきて、あっという間にひとかけらも残らず消えてしまった。食欲旺盛だな。

 もう一匹、トンボを同じように捕まえたら、今度はカマキリだ。他の虫はあまり目が大きくなく、眼鏡の材料に出来そうなのはこの二種類だけだったから。

 大抵のカマキリは待ち伏せ型だけど、それは巨大化しても同じらしい。木や草に紛れてジッと獲物を待っている。動かないから、捕まえるのはトンボほど難しくない。平面で囲むまでもなくクビチョンパして終わりだ。あっけない。これももう一匹だけ狩って終わりにする。

 タマラさんからは『出来るだけ多くの素材を』とお願いされてるけど、あまり狩りすぎて生態系を崩したくない。ここが巨大トンボの最後の生息地かもしれないし。素材は大きな水晶でもいいって話だったから、嵩増し分はジョンに頼んで作ってもらおう。

 ジョンの内部に同じ環境を作れたら養殖もできるんだけど、いかんせん、酸素を供給する手段がない。

 簡単なのは塩水を電気分解する方法だけど、その際に出る塩素と水酸化ナトリウム水溶液の処理に困る。どっちも劇物だからな。養殖については保留だ。


 目的を果たしたら早々に撤収してジョンのところへ寄り、大き目の水晶柱をふたつほど作ってもらってからドルトンへと帰投する。


 これにて林間合宿と昆虫採集は終了。

 でも今年の夏はまだ始まったばかりだ。さて、次は何をしようかな?

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