第26話 その扉の先に待つモノ③
「……デ、デカイ」
間近で見た母山羊の巨体は、前に立つだけで押し潰されそうなほどの存在感だった。
大体、二十メートル弱……七階建てのマンションほどはあるだろうか。それもノッポに長いわけではなく、カブの様にズングリと太って、まさしくマンションに匹敵する質量を持っていそうだった。
その巨体の分、子ヤギのような俊敏さは失っていそうだったが、体格差の分実際の速さはそう変わらないとみるべきだろう。ゆっくりに見えても、こちらもそれを避けるためには何倍も大きく動かなければならない。大きい、というのはそれだけで脅威なのだ。
加えて、毛無しの子ヤギと違い母山羊は、全身を如何にも頑丈そうな体毛が覆っていた。巨体と体毛……防御力と生命力は子ヤギの比ではないだろう。
「ヨミヨミ、眷属召喚だ」
織部が、ヨモツシコメに眷属召喚を命じる。すると、ヨモツシコメの足元からみるみる黒い沼が広がっていった。
その沼の中から、ズルリと無数の腕が生え、次々と古代の戦装束を身に纏った死人が現れる。
これがヨモツシコメをDランク最強たらしめている固有の眷属召喚・招来黄泉軍(ヨモツイクサ)だ。
通常の眷属召喚は、一体ずつ無限に召喚し続けるか、数に限りある眷属を一気に召喚するかの二択だが、黄泉軍は一度に十数体の眷属を無限に呼び出すことができる。
さらには呼び出される黄泉軍は武術の先天スキルを持つDランクモンスターであり、ヨモツシコメは場のすべてのアンデッドを強化するスキルを持っていた。
これほどの有能さでありながら、手に入れた冒険者のほぼすべてが手放すと言われるナンバーワン不人気カード、それがヨモツシコメであった。
『雄雄雄怨怨怨怨怨……!』
呼び出された黄泉軍たちが、不気味な声を上げながら七匹の子ヤギたちへと襲い掛かる。
その動きは、武術スキルによるものか、自我の無い下級アンデッドとは思えぬほど機敏かつ連携の取れたもので、そんじょそこらのグールなどよりもよほど強そうに見えた。
……が、所詮はDランクモンスターの、しかもトークン。Cランククラスの戦闘力を持つ七匹の子ヤギには太刀打ちできるものではなかった。
黄泉軍たちは、腕を切り落とされようが、胴体を貫かれようが恐れを知らぬ様子で果敢に立ち向かっていくが、その攻撃は子ヤギたちに当たることはなく、一方的にやられていく。
子ヤギたちの殲滅力と黄泉軍の召喚スピードでは、明らかに殲滅力の方が上回っているようだった。
このままでは、大本のヨモツシコメがロストするまでそう時間はかからないだろう。
——だが、そこに師匠のカードたちの援護が入れば話は違ってくる。
一体一体と集中して攻撃していくことにより子ヤギたちを確実に仕留めてく師匠のカードたち。
倒された子ヤギは、すぐさま母山羊の腹部に生えた七つの大口から這い出してくるが、戦列に復帰するまでにはタイムラグがある。
そうしているうちに黄泉軍の召喚スピードの方が殲滅力を上回り、少しずつだが黄泉軍の数が増えつつあった。
どうやら子ヤギたちの方は師匠たちに任せても大丈夫そうだった。
一方の母山羊の方であるが、こちらはあまり進展がなかった。
『ユウキはインファイトで敵の気を引いてくれ! 回避を最優先にして絶対に一撃も喰らうなよ! イライザはユウキのフォローを! もしユウキがミスったら献身の盾でカバーしてくれ! メアはとにかくダークネスとミラージュで目くらましを! 状態異常はたぶん通らないが抵抗されるまでの一瞬は稼げる! 攻撃魔法組も極力顔を狙え! 視界をつぶせる!』
ドラゴネットに跨り上空から戦場を俯瞰しつつ、矢継ぎ早にリンクで指示を飛ばしていく。
眼下では、爆炎や雷の槍、雨のような弓矢が母山羊へと絶え間なく降り注ぎ、華やかですらあったが……。
「……チッ、効いているのか効いてないのかさっぱりわからんな」
Dランク迷宮の主ならばとっくに沈んでいてもおかしくない総攻撃を受けてなお、母山羊は堪えた様子がなかった。
相手の身体が大きすぎて、大木をカッターでチクチク突いているような気分だった。
相手の身体が大きい分、動きもわかりやすいため今のところはこちらも大した損害は受けていないが、その分一撃の威力もとんでもないことは容易に予想がついた。
一撃でもまともに攻撃を受けてしまえば、Cランクカードであっても致命傷に近い大ダメージを負ってしまうことだろう。
しかも、動きがわかりやすいとは言っても巨体の分リーチの差がある。少しでも動き出しが遅ければ回避が間に合わない。
いくら攻撃しても効いているようには見えず、逆に相手の攻撃は一撃も受けてはならない。
俺たちは精神的に徐々に追い詰められつつあった。
『……フッフッフ、ついにアレを使う時が来たようッスね』
どうしたものか……と俺が頭を捻っていたその時、ふいに胸元のバッジからアンナの意味深なセリフが聞こえてきた。
あからさまなフリに、一瞬問いかけたくない気持ちが湧いてきたが、一応聞いてやることにした。
地上で立つアンナの元に舞い降り、問いかける。
「……なにか策があるのか?」
「こんなこともあろうかと……! 強敵相手のコンビネーションを特訓してたんです!」
目をキラキラとさせて言うアンナ。
お前……こんなこともあろうかとって言いたかっただけだろ、とツッコミたい気持ちをグッと抑え、確認する。
「勝算があるんだな?」
「もちろん! 駄目だったら部長の座をお譲りしますよ」
よし、そこまで言うなら!
『蓮華、霊格再帰! 総員総攻撃し、母山羊の気を引け!』
蓮華が吉祥天へと変身し、カードたちの攻撃が一層苛烈なモノとなる。その隙を見て、アンナのカードたちが戦線から離脱。一か所に集まった。
「さあ、我が精鋭たちよ! オペレーションαを実行せよ!」
号令と共に、彼女のカードたちが動き出す。
エルフがペガサスに跨ったかと思うと、デュラハンがエルフの身を包む。あっという間に三枚のカードは三位一体の女騎士へとその姿を変えた。
さらには残りの五枚のDランクカードたちも様々な支援をペガサスナイトへと飛ばし始める。
「これは……!」
目を見張る俺の前で、ペガサスナイトが母山羊へと突撃する。
速い! 俺の目では支援スキルの残光による線しか見えないほどの速さで、女騎士が母山羊の周囲を飛び回ってはその手に持つランスで穿っていく。
その光景は、まさに流星。
瞬く間にその巨体が血に染まっていく、母山羊が絶叫を上げた。
「メエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛!!」
おお、効いてるぞ! これはイケるか!? ……いやッ、マズイ!
ギロリ! と母山羊がこちらを睨む。何か、来る……!
「アンナッ!」「キャッ!」
考えるよりも先に彼女の腕を掴んで引っ張り上げ、一気に上空へと舞い上がる。
同時に、凄まじい勢いと轟音を立てて母山羊が俺たちの直前まで居たところを通過した。
その勢いはまさに特急列車。その風圧だけで、俺たちは木の葉のように空中で翻弄されるほどであった。
腕の中のアンナを全力で抱きしめながら、ドラゴネットに鞍と安全ベルトを付けていて良かった、と俺は場違いなことを考えていた。
やがて、態勢を整えて眼下を見下ろすと、俺たちの立っていた丘が丸ごと吹き飛んで、母山羊の通った後に茶色の道ができていた。
なんて威力だ……。
「せ、先輩助かりました……」
「あぁ……間一髪だったな。そうだ、師匠たちは……」
無事、か。師匠たちのいた場所とは方向違いだったのが幸いしたか。
突進を終えた母山羊は身動き一つしない。大技の後にはインターバルがあるタイプか。
無防備な姿をさらす母山羊に、最後ペガサスナイトが攻撃を仕掛ける。
マスターを狙われた怒りからか、ペガサスナイトの攻撃はさらに苛烈なモノで、あるいはこのまま師匠たちの援軍を待たずして勝てるのでは思うほどであった。
「ど……どうッスか、ウチの自慢の必殺技は!」
先ほどの恐怖を誤魔化すためか、そう言って歳の割に大きな胸を張るアンナに、俺は苦笑して「ああ、大したもんだ」と答えようとして——。
「メェェェェエエエエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛!!」
再びの母山羊の絶叫がそれをかき消した。
俺の脳裏に、先ほどの突進の直前の光景が脳裏に蘇る。
……まさか!
「マズイ! 下がらせろ!」
「……えっ!?」
俺がそう忠告した瞬間、母山羊を中心として黒いヴェールが舞い降りた。
やはり! あの母山羊の叫びは痛みから来る悲鳴ではなく、大技の前の怒りの咆哮だったのだ。
そして突然カードたちを襲う異常。
『グッ!?』
『ドラゴネット!? どうした!?』
『これは……! 身体が、重い!?』
グラグラと安定性を失ったドラゴネットを慌てて着陸させる。異変が起こっているのはドラゴネットだけでなく俺のカードすべてが同様だった。
……いやユウキだけは例外か。
それはアンナたちのカードも例外ではなく、ペガサスナイトは墜落することはなかったが明らかにその精彩を欠く。
その隙を母山羊が見逃すわけもなく、その巨大な鍵爪が振り下ろされた。
「ターニャ!」
アンナの叫びを受け、エルフがペガサスから身を乗り出した。それで何とか直撃は避けたが、エルフとデュラハンは地面に落下。ペガサスはその体を深々と切り裂かれ、それを見たアンナが悲鳴を上げる。
「イアヤァァ!? ダンジョンテイオー!」
一拍遅れて、アンナの胸元からロストの音が鳴り響いた。
「そん、な……こんなスキル、データに……」
「切り替えろ! 無事なカードを下げるんだ!」
「ッ! ターニャ!」
俺の一喝を受け、慌ててアンナがエルフを下げようとする。だが、落下の際に足が折れたのだろうか、その動きが鈍い。
そこへ母山羊の追撃が襲い掛かる。巨木のような前足が振り降ろされ——。
「ターニャァァァァアアア!」
アンナの悲鳴のような絶叫。
そんな彼女に俺は……。
「大丈夫だ、間一髪、間に合った」
俺の視線の先には、ユウキに抱えられたエルフの姿があった。
ギリギリで空蝉の術が間に合ったのだ。
「あ……」
それで安心したのか、アンナがホッとへたり込む。
リンクを使えばカードの無事はわかったはずだが……それもわからないくらい焦っていたらしい。
「しかし……」
この重力は一体なんだ? カードから伝わってくる感覚は、まるで身体が石になったように重くなる、というものだった。しかも徐々にだが体力が吸い取られていっているようだ。
ユウキのみ影響を免れているのは、おそらく小さな勇者の効果によるものだろうが……。
……石と吸収。そうか、これは狼の腹の中に石を詰めた逸話の再現か!
俺がカードを襲う状態異常の正体に思い至ったその時、母山羊に新たな動きがあった。
なんと七匹の子ヤギの一体を掴むと、それをボリボリと喰らい始めたのだ。
我が子を喰らうという母山羊の行動に唖然としていると、みるみるうちに母山羊の体中の傷が跡形もなく癒えていった。
「マジ、かよ……」
思わず呟く。
幸い食われた子ヤギが復活することはないようだが、子ヤギは後六匹残っている。つまり、あと六回は大ダメージを与えなくてはいけないということか?
マズイぞ。カードの魔力や体力だって無限ではない。長期戦になれば不利なのはこちらだった。
冷や汗が顎を伝う。
これが、Bランクのイレギュラーエンカウントが持つ力、か……。
『……おい、歌麿』
その時、蓮華がリンクで呼びかけてきた。
『なんだ?』
『……………………』
俺の問いかけに、蓮華は彼女にしては珍しく躊躇うように言い淀み……。
『お前は、一片の曇りもなく、アタシを信じることができるか?』
『どういう、意味だ?』
『………………』
蓮華は答えない。俺たちの問答を、鈴鹿とユウキがじっと伺う気配を感じた。
一体どういうつもりなのかはわからないが……。
『ああ、お前のことを信じている』
俺はそう、本心から答えた。
『そうか……』
蓮華は小さく、しかし嬉しそうに呟き……。
『シンクロだ、歌麿。アタシと、100%完全にシンクロしろ』
『シンクロを? だが……』
俺の今の実力では、最高に調子が良い時でも80%後半が限界だった。
それに、シンクロはどれほどの熟練者であっても、99%がMAXだと言われている。完全に、マスターを守るバリアをゼロにすることはできないのだ。
蓮華が振り返り、俺の眼をまっすぐ見つめて言う。
『今のアタシたちなら大丈夫だ。——信じろ』
『わかった』
俺は頷くと、目を瞑り蓮華と静かにシンクロしていった。
70、80、90……。
今までが何だったのかと思うほどに、すんなりとシンクロ率が上がっていく。
だが、99%……最後の最後で俺たちは薄く、頑丈な壁へとぶち当たった。
「これは……」
それを無理やり視覚化して表現するならば、鎖で雁字搦めにされた扉だった。
試しにそれに触れてみると、開けるべきではないと本能が訴えかけてくる。
これは俺を阻むものではなく、この扉の先にいる存在から俺を守るためのモノなのだと。
しかし……、と俺は小さく苦笑した。
今日は、扉とやたら縁がある日だった。夢の中での死者が訪れる扉、現実の洋館の中での狼を呼び込むための扉。そして最後はリンクの先にある扉か。
ならばこれも罠なのだろうか。
今日の出来事が、いや猟犬使いに襲われてからのすべての出来事がこの扉を俺に開けさせるためにお膳立てされていたとすれば、この扉の先にあるモノは……。
「——それでも俺は蓮華を信じている」
俺がそう言った瞬間、鎖は粉々に砕け散り、俺は99%の壁を越え————完全に蓮華とシンクロした。
再び眼を開けた時、その視界は一変していた。
俺の眼に映るのは、ありとあらゆる可能性への道。低い可能性の道は遠く、高い可能性の道は近い。可能性は常に変動し続けており、俺はその道を幸運と不幸を天秤に載せることで、近づけたり遠ざけたりすることができた。
もっとも、人ひとりが持つ幸運の量などたかが知れており、世界の大きな運命など変えようもないが……。
俺は母山羊を視た。
そこには、母山羊を倒すための可能性の道がはっきりと見えていた。
倒すための道が見えるということは、その弱点も攻略法も見えるということだ。
母山羊を倒す最短最善の方法は、弱点である子宮を最大火力でぶち抜くことであった。
だが、その道は遠く、か細いものであった。
理由は、こちらの火力不足である。今のこちらの手札では、母山羊の腹を穿つことができないのだ。
結果、もっとも確実な方法は子ヤギのストックを削っていくことであったが、低くない確率でこの場の誰かが死ぬ可能性があった。
————ズキン。
「アグッ……!」
そこで、酷い頭痛と共に蓮華とのシンクロが解けてしまった。
……どうやら、今の俺では可能性の道を見るのは極めて短時間が限界のようだった。
同じく頭を抑えた蓮華が問いかけてくる。
『ぐ……見えたか?』
『ああ……』
『どうやら……一発で仕留める必要があるみてーだな』
『ああ、だが……』
火力が足りない……。
俺のカードのすべての戦力で一斉攻撃をしても母山羊の防御を抜くことはできず、師匠やアンナたちのカードの力も合わせればイケるかもしれなかったが、その際はこちらの防御が手薄となり、マスターのうち誰かが死ぬ可能性が高かった。
『いや、イケるはずだ。おいッ、鈴鹿!』
蓮華は力強く断言すると、鈴鹿へと向けて呼びかけた。
『いつまでも拗ねてないで、いい加減力を貸せ! ホントは仲間に入りたいのはわかってんだよ! この陰キャが!』
『んなッ!?』
鈴鹿の顔が耳まで真っ赤に染まる。
『だ、誰が……!』
『うるせえ! 傍から見ててバレバレなんだよ! 外からチクチクちょっかい出してねーで、素直に自分も仲間に入れてって言え!』
『あ〜ぁ、言っちゃった……』
メアが呆れたように小さく呟く。
……鈴鹿が、本当はみんなの輪の中に入りたくて、しかし素直になれずにちょっかいを出していたことは、全員が気づいていた。
そのくせ、こちら側から誘うと気難しい猫のようにスッと離れて行ってしまうので、扱い辛いったらこの上なかった。
それでも鈴鹿がこちらに慣れるのも待とうとみんなで待っていたのだが……ついに蓮華がしびれを切らしてしまったようだ。
『お前も歌麿のことは気に入ってんだろーが!』
『……ああ、もう! わかりましたよ! これだから陽キャは……!』
鈴鹿がぐしゃぐしゃと髪をかき乱して吠える。
その瞬間、鈴鹿のカードが光を放った。取り出してみると、そこには予想通りのスキルの名が刻まれていた。——友情連携。
ニヤリと笑う。ようやく、素直になったか。
蓮華が吉祥天から黒闇天へと変身する。
しわがれた声で蓮華が言った。
『行くぞ……!』『はいはい……』
友情連携——『世界終末の夜』×『可愛さ余って憎さ百倍』
黒い雨が降り注ぐ。それを浴びた母山羊は————しかし、何の異常も表れない。
当然だ。なぜならこれは、直接害をもたらすものではなく、ただ母山羊のありとあらゆる防御力を下げると言った類の呪いなのだから。
そこへ一撃を叩きこむのは……。
『ユウキ!』
『はい……!』
シンクロ。先ほどのフルシンクロにより、何かを掴んだのだろうか。さすがに99%——フルシンクロまでは無理だったが、90%後半まで簡単に上昇させることができた。
さあ、行くぞ。
——狼に衣。その身を可憐な少女の姿から、人狼へと変えていく。
——月満つれば則ち虧く。月の満ち欠けによってその戦闘力が上昇していくライカンスロープにとって、満月の今日は最高潮に力を発揮できる日だ。
——限界突破。ユウキの身体が通常のサイズを超え、膨張し続ける。
彼女が変身を終えた時、そこには身の丈7〜8メートルほどもある人狼の巨人の姿があった。
「ガアアアアァァァァァッ!!!!」
——本能の覚醒。落雷を連想させるような咆哮と共に、筋肉のリミッターが外れ、その体がさらに一回り膨れ上がる。
全潜在能力を解放したユウキが、弓を引き絞るようにその身を屈めた。
「メエエエェェェェェェエエッ!!」
そこでさすがの母山羊も焦りを感じたか、大きく息を吸い込み——まるでレーザービームのような灼熱のブレスを吐き出した。一撃にのみすべてを傾けた今のユウキの体勢では、回避もままならない——だが。
『させません』
俺たちには、頼りになるパーティーの盾役がいた。ユウキと母山羊の間に入ったイライザが、白色の盾を生み出しブレスを受け止める。
献身の盾は、敵の攻撃を防ぐスキルではない。そのダメージを軽減しつつ、自分が肩代わりするスキルだ。
イライザの全身が焼け爛れ、白い蒸気が上がる。その下から新しい皮膚が再生されるが、それもまたすぐに蒸発していく。
母山羊のブレスが押し切るか、彼女が蓄えた血のストックで耐えきれるかの勝負。
回復役の蓮華も、世界終末の夜を解除するわけにはいかないため、動けない。
祈るような気持ちで仲間たちが見守る中、勝負を制したのは——母山羊の方だった。
クッ……ここまでか。血のストックがもう尽きる。賭けは失敗だ。
俺がイライザを下げようとしたその時。
「——アムド」
その声と共に、イライザの身体を鎧が包み込み、様々な支援効果が彼女へと降り注いだ。
「アンナ……!」
「アハハ……部長として、ちょっとくらい良いところを見せないと、ね」
そう言ってアンナは弱弱しく笑った。さらに、イライザの足元へと魔法陣が現れたかと思うと、彼女の傷がみるみるうちに癒え始める。
『——援護が遅くなってすまない。アラディアだけでもそっちへと送るよ』
バッヂを通して師匠が言う。
デュラハンの装備化による防御力の底上げと、魔女の守護者たるアラディアの加護により、イライザが完全に持ち直す。
もはや、どれほどブレスが続こうとも彼女を崩すことはできないだろう。
やがてブレスが徐々に細くなっていき……終わった。
母山羊は、ブレスによる硬直か身動きひとつできない。
無防備に、その腹を晒していた。
そこへ、ユウキという名の弾丸が放たれる。
必殺の弾丸は母山羊の腹部へと大きな風穴を開け——その子宮に納まっていた猟犬使いを掠め取った。
「メエエェェェ……!」
核(・)を奪われたイレギュラーエンカウント『狼と七匹の子ヤギ』がボロボロと自壊していく。
同時に塗り替えられていた世界が、徐々に元の迷宮へと戻っていった。
アンナや織部が力なくへたり込む中、用心深く周囲を見渡し不意打ちがないことを確認すると、俺はそこでようやくホッと息を吐いた。
……終わった、か。かつてない、強敵……だった。達成感すらなく、ただただ虚脱感だけがあった。
『……マスター』
そこへ、猟犬使いを抱えたユウキが戻ってきた。意識を失っているのか、身じろぎ一つせず、緩やかに胸元が上下している。
「先輩、この人が、猟犬使い……なんスか?」
アンナが半信半疑と言った様子で問いかけてくる。
初めて見る猟犬使いの本当の姿は、星母の会の聖女とは似ても似つかぬ平々凡々とした若い女性だった。その安らかな寝顔は、とても百人以上を殺した怪物とは思えないあどけなさであった。
「先輩、アンナ、見てくれ」
織部の声に振り向くと、その手には一枚のカードが。差し出されたそれを受け取って見てみると、それは狼と七匹の子ヤギのカードだった。
絵本のようなイラストだけが描かれた異質な感じを受けるカード。
これが、イレギュラーエンカウントのカード……なのだろうか?
と、その時。
「おお〜い、何があった!?」
上への階段から、晶さんや警察官たちが次々と降りてきた。
狼と七匹の子ヤギが倒されたことで、空間の隔離が解かれて入ってこられるようになったのだろう。
通常のイレギュラーエンカウントならば、出ることができないだけで入ることは可能なはずなのだが、今回は入ることも出ることもできなかったらしい。
「……遅いよ、姉さん」
そうため息を吐くように呟いた師匠に、俺たちは苦笑した。
こうして、長いようで短かった猟犬使いとの戦いは、終わりを告げたのだった。
【Tips】狼と七匹の子ヤギ その2
第三フェーズでは、第二フェーズで選択した敵との決戦となる。
扉を開けた場合、童話の通り狼によって子ヤギが食われた後、狼は母山羊によって殺されて死ぬ。この段階で、狼の腹の中に閉じ込められていたマスターたちの精神は目覚めるが、母山羊と不死身の七匹の子ヤギが襲来してくる。母山羊は、極めて生命力が高く頑丈な上、子ヤギを喰らうことで全回復してくるため、長期戦は必定。喰らった子ヤギが復活しなくなることだけが救い。
柱時計を壊した場合、七匹目の子ヤギが殺されることで母山羊は狼の襲来を知ることができず、子ヤギたちは狼の腹におさまったまま出てくることはない。冒険者は狼とのラストバトルとなる。狼は喰らった子ヤギの分やはり全回復してくるが、取り巻きの七匹の子ヤギがいない分戦いやすい。しかも母山羊よりも生命力が低く、最初のうちは喰らった子ヤギが重いせいで動きが鈍い。ただし倒すうちにどんどん身軽になるため、徐々に手ごわくなっていく。
第一フェーズで冒険者全員がリドルスキルに失敗した場合、この両方の敵が襲来してくる。母山羊は不死身の子ヤギ引き連れ、狼は最初から身軽。地獄。
なお、同ランク帯においては【狼と七匹の子ヤギ】よりも【ハーメルンの笛吹き男】の方が強い。【狼と七匹の子ヤギ】のイレギュラーエンカウントとしての強さは中の下から中の中程度。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます