第2話 職場

「中道、お前昨日も遅くまで残業していたのか?」


お昼時、会社のデスクで鶏五目おにぎりを頬張っていた火月に声をかけてきたのは

同期の北大路きたおおじだった。

ペットボトルの水を手に取り、食べかけのおにぎりを一気に胃の中に流し込む。


「ああ。いつものことだから気にしないでくれ」


「そりゃあ、お前が毎日残業しているのは昨日今日に限った話じゃないけどさ。

 今抱えている案件もそこまで忙しくないだろ。

 むしろ落ち着いている方だ。たまには早く帰って身体を休めるとか、

 自分の好きなことを楽しんでみたらどうだ?」


「そうしたいのは山々なんだが、何事も準備しておくに越したことはない。

 問題が起きてから動き出すんじゃ何もかも遅い。

 それは俺たちが一番よくわかっているはずだろ?」


数年前、炎上案件を共に経験した北大路に一番効果がありそうな言葉を選ぶ。


「お前はいつも正論を真正面からぶつけてくるよな」


苦笑しながら北大路が話を続ける。


「準備はもちろん大事だ。だが、身体を壊したら元も子もない。

 お前が今まで病気で会社を休んだことがないのは知ってる。

 だからといって、これからも大丈夫とは限らないぞ」


「忠告痛み入る、善処するよ」


リーダーとしてメンバーの残業時間についても管理しなければならない

北大路の言うことは理解できる。

あまり目を付けられるのも面倒だと考えた火月は短く返事をした。


「それじゃあ今日から定時退社な。

 家に帰ってもやることがないなら今夜は俺に付き合えよ」


「どうせ断っても無理やり連れて行くんだろ」


「当然だ。お前に拒否権はない」


「……わかった」


何を言っても断れない状況にあると判断した火月は、

不承不承ふしょうぶしょうながら誘いを受けることにした。


返答に満足したのか、口元を緩めた北大路は「勝手に帰るなよ」と言い残し、

自席へ戻っていった。


北大路とは今の会社に入ってから、ずっと一緒に仕事をしている。


彼の人懐っこく、誰にでも分け隔てなく接する姿勢は社内でも評判がいい。

だから、同じ案件のリーダーに彼が抜擢された時もさほど驚きはしなかった。


対人コミュニケーションが苦手な火月にとって、

社内で唯一気が置けない存在であり、

こうやってたまに声を掛けてくれる不即不離ふそくふりな距離感が、

関係を長続きさせている理由の一つなのかもしれない。


それにしても、仕事終わりに誰かと飲みに行くのは本当に久しぶりだ。

新入社員の頃は、ある程度飲みの席には参加していたが、

回数を重ねる内に金と時間の無駄という結論に至った。


まして下戸げこである火月にとって、飲み放題イベントは苦痛でしかなかった。

腹の足しにもならないを食べ、

烏龍茶を二杯飲んだだけで三千円近く要求された時の衝撃は今でも忘れられない。


何か有益な情報でも得られればと思ったが、

実際は興味のない上司の昔話を皮切りに、

愚痴や子供の成長過程についてみっちり聞かされる。

さながら研修を受けているかのような気分だった。


以降、会社の飲み会には参加していないが、

北大路なら腹も満たせる良い感じの店をチョイスしてくれるだろう。


デスクの引き出しから紅葉色の懐中時計を取り出す。


まだ休憩時間が三十分以上あることに安堵した火月は、

日頃の睡眠不足を補うため静かに目を閉じた。


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