ホスピタルベッド・ディテクティブ

吹井賢(ふくいけん)

寝台探偵・御陵アルマ

 京都府警刑事部捜査一課の刑事、鴨土晴昭は憂鬱だった。

 激務によりくたびれたスーツを羽織る時も、愛車であるフィアット・チンクェチェントに乗り込む時も、ハンドルを操って府道を走らせている時も、常に釈然としない思いが心の中にあり、それは言葉にするなら、「本職の刑事である俺がなんであの小娘に頼らなければならないのだ」というものだった。

 “あの小娘”へ相談を持ち掛ける際、鴨土はいつもそのような心情であった。

 幼い頃に読んでいた推理小説の刑事達もこんな気持ちだったのだろう。シャーロック・ホームズ宅に赴くレストレードも、突如として現れたリュパンに事件の情報を伝えられたガニマールも、それ以外の、古今東西のミステリーにおいて探偵から――そして、読者から無能扱いされている刑事達も。「なんで俺がアイツなんぞに」と内心ではぶつぶつ言いつつ、『名探偵』の話を聞いていたのだ。鴨土がそうであるように。

 彼女の知識と洞察力が鴨土を大幅に上回っていることは歴然たる事実であって、また、鴨土は四十を過ぎた働く男として当然の、彼一流の自尊心を持っていたが、プライドを優先させ真相の究明をなおざりするようなことは、それこそ彼の刑事としての矜持が許さなかった。

 恐らく推理小説の刑事達もそうだったのだろう。

「自らのプライドよりも市民と事件解決を優先した」。そう表現すれば、この釈然としない思いも少しはましになるだろうか。




 病院に着いた鴨土は受付で面会の手続きを行い、少女のいる階層へと向かう。

 車椅子に乗った少年の横を擦り抜け、擦れ違う看護師に会釈をし、フロアの奥へ。“小娘”は自律神経失調症という病で、中学生の頃からこの精神科病院に入院していた。だが、最終学歴は中学中退ではない。それならばまだ可愛げがあったのだが、入院後、彼女は英語圏の大学院を修了している。オンラインかつ飛び級で修士号を取得したのだ。しかも複数。

「まったく、むかつく小娘だ」

 そう吐き捨て、鴨土は病室の扉を叩く。

 返事はない。いつものことだ。社会性というものが欠落している“あの小娘”は、ノックに対して返答をするという当たり前の行為をしない。彼はいつものようにドアの前で一言断ると、そのまま部屋へと入ることにした。

 ベッド、机と椅子、それから収納棚しかない殺風景な個室。そこに彼女はいた。

 タブレットで海外の大学の講義を視聴していた少女は、一瞥すらせず、「お掛けください」とだけ告げる。

 挨拶はない。映像を止める気配もない。社会性がない。

 来客用の長椅子に腰掛けた鴨土は“小娘”を見る。

 一言で表せば、「ぞっとするほどに美しい少女」だった。

 肩まで伸びたダークブラウンの髪。灰色に近い、ダークブルーの瞳。透き通る白い肌に、長い四肢とすらりと伸びた指。見た目だけは御伽噺のお姫様のようだと思う。

 見た目だけだ。性格は意地の悪い魔女といったところか。

 年齢はいくつだったか。二十歳にはなっていないと思うが、厳密な年を把握するほど彼女に興味はなかった。二十以上年下の少女に好意を抱くわけがないし、仮に同年代だったとしても、自分より背の高い女子など願い下げだった。

 低身長は鴨土の長年のコンプレックスだった。目の前の少女は百七十を優に超えるモデル体型。それもまた、腹立たしい。

「その英語の講義はいつ終わるのだ、御陵アルマさんよ」

 数分待った後、痺れを切らして刑事は問い掛けた。

 “小娘”――御陵アルマは、馬鹿にするように口の端を歪め、鼻で笑った。

「もう終わります。そして、これはフランス語です。あなたは英語とフランス語の区別も付かないのですか?」

 馬鹿にするような、ではない。妖しい微笑は完全に人を馬鹿にしたものだった。

 やがてタブレット端末の電源を切り、御陵アルマは訊いた。

「それで? 何か御用ですか、京都府警の鴨土刑事?」

「用がなければ来ないよ」

「そうですか」

 ようやくこちらを向いたアルマに対し、鴨土は言う。

「事件の話だ」

「わざわざ仰っていただかなくとも、あなたがいらっしゃる時はいつもそうでしょう」

 いちいち癇に障る物言いだった。

「正確に言うならば、事件かもしれない、と俺は睨んでいる話だ」

「事件かどうか自身で判断できないから私に聞きに来たのですか? ご苦労様ですね」

 クリアファイルに収められた資料を受け取りつつ、少女はまた笑う。嘲るように。

 ただでさえ後退してきている生え際が更に酷くなりそうだ。

 皮肉を込めて言い返す。

「ああ、そうだ。御陵アルマ様にご相談に来た。車で行ける範囲に安楽椅子探偵がいるのだから使わない手はないだろう? ああ、病院のベッドにいるわけだから、“アームチェア・ディテクティブ”じゃなく、“ホスピタルベッド・ディテクティブ”になるのか?」

「無理して英語を使わなくても結構ですよ。病床で謎を解く探偵については『ベッド・ディテクティヴ』という単語が既にありますから」

 鴨土の皮肉に皮肉を返した後、アルマは、それに私は探偵ではありません、と冷たく続けた。

 少女の言う通り、御陵アルマは探偵ではない。しかしながら、それは「職業としての探偵ではない」「探偵と標榜していない」というだけであって、これまで数々の事件を解いている実績を考えれば、彼女は紛れもなく『探偵』だった。鴨土だけではなく、他の刑事にも知恵を貸しているのだから、これが探偵でなくて何であるのだろう?

 だが、そんな定義論をして時間を無駄にしたくはなかったので、刑事は折れることにした。

「探偵じゃなくてもいいから、話を聞いてくれ」

「別に構いませんよ。どうせ至極有り触れたものでしょうから。どうして当事者の方々が真実に気付かなかったのか不思議なほどに」

 お前は一度口を開くと一回嫌味を言わないと気が済まないのか、と文句を言いたくなる気持ちをぐっと堪える。

 これも市民のため、事件解決のためだ。そう自身に言い聞かせる。

 レストレードやガニマールもこんな心情だったのだろうか。探偵に馬鹿にされる刑事の気持ちを思い知ることになるなど、幼い頃は予想もしていなかった。




 鴨土晴昭が相談しようとしていた内容は、確かに御陵アルマが言うように、「有り触れたもの」であった。

 ただ、事件――刑事事件としては有り触れてはいない。

 まず事件かどうかが分からない。それが鴨土の頭を悩ます一番の要因だった。

「嵐山の北、有栖川の辺りに大岡っていう大金持ちの家があることは知っているか? 純和風の豪邸なのだが」

「はい。さるホテルグループの創始者の一族の邸宅でしょう?」

 なんでそんなことを知っているのだ、と言い掛け、口を噤む。脇道に逸れるのはもう沢山だ。

 引き取って、アルマは怜悧さの伺える蒼い瞳を細め、続けた。

「有名なのは大岡冷泉でしょう。三十代の頃より、急逝した夫に代わって経営をこなしてきた一流の企業家。高齢を理由に経営者の座を息子へと譲りましたが、女傑、と言って良い人物です。新聞記事によれば、先月、行方不明になられたそうですが」

「そこまで把握しているのなら話が早いな。お前の知る通り、大岡冷泉は行方不明になっていて、家族が捜索願を出している」

「それで? 捜索願が出されたのならば、探してあげれば良いでしょう。そしてそれは強盗や殺人を担当する捜査一課の仕事ではない。つまり、あなたの職務ではない」

 少女は応じ、次いで折り紙を取り出して、ベッドテーブルで鶴を折り始めた。

 考え事をする際の御陵アルマの癖であった。曰く、手は突き出た大脳と呼ばれており、指先を動かすことで脳を活性化させているらしい。分かるような、分からないような理屈であったが、社会性がないことだけは間違いがない。仮に思索に役立つとしても普通の人間は他人の話を聞きながら手遊びはしない。

「逆説的に考えれば、」

 と、アルマは言った。

「あなたが私に相談しに来ているということは、鴨土刑事、あなたは、大岡冷泉は行方不明になったのではなく、殺害されたと考えている。あるいは殺害されたのではないにせよ、何かしらの事件性があると予測している。そういうことですか?」

「……まあ、そうだ。事件性がある、と認められる明白な根拠があれば、警察として本腰を入れて調査ができる」

「その口振りから察するに、事件性云々は京都府警の見解ではなく、あなたの予想なのですね? あるいは、刑事の勘、というやつでしょうか」

「ああ。根拠は俺の勘だ。笑うなら笑ってくれていい」

「笑いませんよ」

 意外にもそう返すアルマ。

「『ファーストチェス理論』をご存知ですか?」

「さあ、知らないね」

「プロのチェスプレイヤーの場合、五秒で考えた手と三十分の時間を使って考えた手が八割以上の確率で一致する、という研究です。将棋の世界でも、迷った時は直感に従うという棋士は少なくはない。待ち時間を使って考えるのは、閃いた手に穴がないかどうか。直感とは蓄積された経験が生み出すもの。一流の人間であるならば、その勘は信用に値します」

 尤もらしい物言いだが、ふと気になることがあり、鴨土は訊ねた。

「なあ」

「なんでしょうか」

「お前の言葉、『二流の人間の直感は間違っている』と言っているように聞こえるのは、俺が捻くれているからか?」

「いえ、そういう意味で言いました」

 御陵アルマは平然とそう告げて、何事もなかったかのように、「何故、事件性があると考えるのですか?」と問い掛けてくる。

 嘆息を一つ挟み、中年刑事は口を開く。

「……何処から話そうか。大岡冷泉はここ二年ほど、有栖川の自宅に籠もりっきりだったらしい。認知機能が相当に低下していたそうで、誰にも会いたがらず、医者にすら行かない偏屈ぶりを見せていたという」

「続けてください」

「失踪したのは先月のことだ。ある日の朝、女中が大岡冷泉の自室、邸宅内の離れに赴くと、奥様の姿がない。しかも、よくよく見れば、庭には足跡がある。その跡は邸宅の裏山に続いている。大岡家は大騒ぎになり、家族と手伝い二人が私有地の森林からその向こうの嵯峨天皇の墓周辺まで探したが、奥様の姿は影も形もない。そうして、捜索願が出されることとなった」

「別に、有り触れた事件じゃないですか。認知症を患った高齢者が、ある日突然、いなくなってしまう……。認知症を原因とする行方不明者は2012年に統計を取り始めてから右肩上がりです。毎年、一万人を軽く超える人数が行方不明となっている。それが現代の日本です」

 尤もその内の七割は一週間以内に発見されますが、と付け加える。

 同じような内容を鴨土の同僚も話していた。これは決して特異な事件ではなく、現代社会においては有り触れた事柄なのだと。

「大岡冷泉はこの二年で足腰もかなり悪くなっており、車椅子生活だったと聞いているぞ。車椅子がなければ家の中も満足に移動できなかったと。そんな奴が歩いて何処かに行けると思うか? 山道をだぞ?」

「家族が想定していたよりも身体機能は低下していなかったのでしょう。医師が診ていない以上、残存能力がどの程度だったかは分かりません。他に気になることは?」

 如何にも退屈そうに、少女は折り終えた鶴をベッド脇のビニール袋へと落とし、視線を鴨土へと向ける。

「俺が気になっているのは二点だ。一点目は、大岡冷泉がこの二年間、誰にも会っていないということだ。彼女の姿を見たのは家族と女中二人、そして、豪邸に出入りしている庭師だけだ。さっきも言ったように、病院にすら行っていない。しかも、家族にとって都合の良いことに、大岡冷泉が人前に姿を見せなくなった二年間で、土地や建物が買われまくってる」

「不動産転化は最もメジャーな相続税対策の一つ……。現金や預金は十割で評価されるが、土地や物件に変えておけば、評価額は八割、六割と下がる……。賃貸住宅にしてしまえば、更に」

「話が早くて助かるよ。おかしくないか? 大岡冷泉が姿を見せなくなった二年間で相続税対策が行われ、節税の手続きが済むや否や失踪したと捜索願が出された」

「つまり、大岡冷泉は二年前に逝去しており、家族は膨大な相続税が掛かることを嫌って死亡した事実を隠蔽し、相続税対策が終わった後、『徘徊していなくなった』ということにした、と。そう考えているわけですね?」

 クリアファイルの資料を眺める少女に対し、そうだと首肯する。

「家族は口裏を合わせればいい。問題は女中二人と庭師だ」

「証言は得てきたのですか? 彼等はなんと?」

「女中は、人とは会わなくなったが元気だった、部屋に閉じこもりきりというわけではなく、物忘れは随分と多くなり、車椅子がなければ移動も難しくなっていたが、お茶を点てることはあったし、茶室に向かう彼女と廊下ですれ違うことも多かった、と言っていた。庭師も同様だ。元気だった、縁側から庭木の剪定の指示を出された、だとよ」

「なるほど」

「金でも握らされたか。大岡冷泉の資産とそれに掛かる相続税を考えれば、一千万をぽんと渡しても惜しくはないだろうぜ」

「それで? 気になっている二点目はなんですか?」

「……実は、冷泉のバアさんは古い知り合いでね。駆け出しの頃に何度か世話になった。いくら年を取ったとは言え、あんなしっかりした人がボケて失踪するなんて、俺には思えない」

 鴨土の思いを、主観ですね、と端的に否定し、少女は言う。

「マーガレット・サッチャーはご存知でしょう?」

「馬鹿にするな、それくらいは知っているぞ。イギリスの政治家だろ」

 見栄を張ってそう返したが、「それしか知らない」というのが本当のところだった。

 政治に疎い鴨土はサッチャリズムという単語を思い出すのがやっとで、それがどういった内容の政策だったのか、寡聞にして知らなかった。

「では、そのサッチャーが晩年、認知症を患っていたことは?」

「そうなのか?」

「はい。『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』という題名で映画にもなっていますが、ご覧になっていませんか? フィリダ・ロイド監督の作品です」

「その、なんちゃら・ロイドさんがどれほど高名なイギリス紳士なのかは知らないが、俺は娯楽映画しか見ない」

「フィリダ・ロイドは女性です。そして代表作は『マンマ・ミーア!』なので、映画監督としては相当に大衆向けの方だと思います」

「もういい、分かった。で、それがどうかしたのか?」

 これ以上話していても恥をかくだけなので先を促すと、アルマは至って冷静に話を本筋に戻した。

「サッチャーの政治思想や政策の評価は置いておきますが、彼女が認知症になったことにより、イギリス人がはっきりと理解できた真理があります。それは『認知症は愚か者が罹る病気ではない』ということです。頭を使わない仕事をしていたから認知症になるわけではない。サッチャーほどの政治家であっても、認知機能の低下は起こり得る……。それが真実です」

「だから、大岡冷泉が失踪したとしても、不自然ではないってことか?」

「そういうことです。実感がなければ納得し難いことかもしれませんが」

 結局、全ては偶然であって、鴨土の考えは邪推に過ぎないのかもしれない。「あの聡明な婦人が認知症になり失踪するなんて信じたくない」という自分勝手な思いが無根拠な夢想を生み出しているだけなのかもしれない。

 そう思い始め、鴨土は病室を後にしようとした。

 その時、ふと御陵アルマが言った。

「ああ、そうそう。大岡冷泉氏の失踪は偽装されたものなので、あなたの勘は当たっていると思いますよ」

 ゾッとするほど美しい寝台探偵は、その口の端を愉しそうに歪め、笑った。




 大岡冷泉の失踪は偽装されたものだ。

 そう告げられた鴨土晴昭は当然、寝台で寛ぐ探偵を問い詰めたが、とうの少女は「次回来られた際に話しますよ」と言うばかりで、仔細は何も話してくれなかった。

 代わりに与えられたのは二つの宿題だ。一つ目は、「女中や庭師にここ二年間の大岡冷泉の様子を聞いてくること」。二つ目は、「邸宅の図面を手に入れてくること」。なお、二つ目に関しては、難しい場合は、大岡冷泉の自室と廊下の写真のみでも良いとのことだった。

 鴨土はすぐさま仕事に取り掛かり、三日後には再び、御陵アルマが入院する精神科病院に向かっていた。

「早かったですね」

 御伽噺のお姫様のような美貌を持つ少女は、扉を開けた鴨土を見ると、あの性悪な笑みを浮かべた。

 代わり映えのしない病室だが、三日前と明らかに違う点が一つあった。ベッド脇に自走用の車椅子が置いてあったのだ。青いそれは貸し出し用らしく、フレーム部分にナンバーが書かれたシールが貼ってあった。

「……病状が悪化したのか?」

 鴨土がそう問うと、アルマは首を振り、鼻で笑った。

「まさか。これは持ってきてもらったものです。事件の推理に役立つと思ったので。しかし、その前にあなたの情報を頂きましょうか」

「調べはしたが、大した内容はないぞ。二人の女中にせよ、庭師にせよ、言っている内容は変わらない。『物忘れは増えていたが元気だった』。それだけだ」

「そうですか。それは重畳。図面の方は?」

「図面は難しかったから、理由を付けて、部屋とその周辺の写真を撮ってきた」

 渡された写真をアルマは暫し眺め、次いで定規を取り出すと、写っている何かを測り始める。どうした?と鴨土が問うよりも早く、少女は作業を終え、もう結構ですと写真を返した。

 どうやら必要な情報は全て集まったようだった。

「鴨土刑事。私は探偵ではありませんので、事件の真実を解き明かすことはできません。ですが、恐らくこのような話だろう、という予測はできました」

「本当か?」

「仮に私の推理が全くの的外れでも、あなたは構わないはずです。あなたが探しているのは、事件性がある、と認められる明白な根拠なのですから」

 笑ってしまうほどにおかしな点がありましたよ、と。

 御陵アルマは、また笑った。




 ところで、と少女は口を開く。

「この車椅子なのですが、お見舞いに来てくれた専門家の方に頼んで、持ってきていただいたものです」

「専門家?」

「はい。あなたは現職の刑事、刑事事件の専門家ですが、車椅子を借りてきてくださったのは社会福祉の専門家です。その方はすぐに気付かれましたよ、今回の事件のおかしな点に」

「……俺の察しの悪さについてはいいだろう。早く教えてくれ、そのおかしな点とやらを」

 アルマは口の端を歪めて応じた。

「有効幅員です」

「有効幅員ってあれか、道路のやつか?」

 有効幅員とは、道路の内、実際に通行可能な部分を意味する用語だ。道路敷と呼ばれる道路の道幅から側溝を抜いた長さを指すことが多い。定義上、問題となるのは「通行可能かどうか」であるため、側溝に蓋があるなどし、車両が通行可能な場合は、側溝も有効幅員に含まれる。

 少女は口元に手を当て、今度はくすくすと笑う。

「そうですよね。警察の方ならば、まず公道の有効幅員を連想する。しかし、これが医療や福祉の関係者ならば異なります。彼等の場合、有効幅員と言われて考えるのは、施設内の廊下の広さなのです。もっと言うならば、車椅子が通れるかどうか」

「だから、車椅子を借りてきたってわけか?」

「はい。そして、これも彼等の中では常識ですが、車椅子が直進するために必要な有効幅員は80センチと言われています。少なめに見ても78センチです」

「そう言われても、この車椅子の横幅は60センチくらいじゃないか? 80センチも幅が必要か?」

「必要です。ハンドリムを操作するためのゆとり、手を動かすスペースが要りますから。あまり狭いと腕が壁にぶつかります」

「そうなのか……。考えたこともなかったな」

「実感がなければ納得し難い事柄というのは世界に有り触れているものです」

 大岡邸は純和風の造りだった。車椅子と和風の家と聞けば、社会福祉の専門家ならばまず考える。「廊下には車椅子が通れるだけの幅があるか?」と。

 アルマは続ける。

「日本の木造住宅は尺貫法で造られています。一寸は約3.03センチ、一尺はその十倍、一間は一尺の六倍です。一般的な廊下幅は三尺、約91センチ。そして、三尺の廊下の有効幅員は80センチ程度……。もうお分かりでしょう? 三尺の廊下で車椅子に乗った大岡氏と歩いている女中がすれ違うことは不可能なのです」

 女中は「茶室に向かう大岡冷泉とすれ違うことも多かった」と語ったという。だが、それは物理的に有り得ない。

 ならば何故、そのような嘘を吐いたのか? 虚偽の証言を行ったのか?

 それこそがおかしな点であり、事件性がある、と認められる明白な根拠だ。

「でも、すれ違う、は言葉の綾だと言われたらどうする? 向こうはお手伝いだ。主人が前から来たら脇に避けるのが普通だろうし、そういう意味ですれ違う、と言ったと誤魔化されたら?」

「幅80センチの廊下ならば脇に避けたところで当たりますよ。車椅子の方が普通に通るだけでギリギリなのですから。あまり文句を言うようなら、その女中でも家族でもいいですから、実際に車椅子に乗せてみれば良いでしょう。仮に廊下は通れたとしても、写真を見る限り、曲がり角での方向転換は不可能です。車と同じで、曲がり角は更にスペースが必要になります」

 以上です、と御陵アルマは纏めた。

 何かご質問は?と問われ、鴨土は訊ねた。

「お前、いつ頃からおかしいと思っていた?」

「最初からですよ。女中の証言を聞いた時点で、です。私も長く入院していて、このバリアフリーでユニバーサルデザインな世界に慣れ切っていますが、外がそうではないことは知っていますから」

 普通に暮らしていた頃の実感としてね、と続け、病床の探偵は笑ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る