ヤイクスとナスト 2
アパート入り口の石造りのアーチをくぐると、奥の壁には郵便受けが並んでいる。僕は白大理石に黒みかげ石をあしらった円形の玄関ホールの床を横切って自分の郵便受けをチェックした。蓋を持ち上げて覗き込むと、中には一通の封筒が入っていた。何やら
「なんだろう?」その妙に気になる封筒を手に自分の部屋に入り、ネクタイを緩めながらカウチに座る。封筒の中にはこんな手紙が入っていた。
——辞令——
悪魔ヤイクス殿
汝に天界への移動を命ずる。
「? 天界に移動?」
僕は何か大きな感情が自分の中でフツフツとするのを感じながら、あえてそこから意識をはずして冷静になろうと努力した。手紙の言っていることがよく理解出来なかった。何かの間違いとか勘違いではないかと疑う気持ちと、あまりにも夢みたいな内容なので、期待しすぎるとあてが外れてしまったときそれは体に毒だと思ったからだ。
★
その夜、寝付けない僕はベッドの上から蝋燭の火に揺れる薄暗い天井を見つめて例の辞令のことを考えていた。天井の隅に
「天界に移動と言うことは、つまり……つまり……」
「いや、それはないだろう。聞いたことがない」——落ち着け自分。
「しかし、やはり……」
「悪魔でいるままで天界に移動って……」
「やはり無理だよな。そんなのは——」
そう——
太古の昔、元は天使族の
手足のウズウズが止まらない。我慢できない! おもわずガバッとベッドからはね起きて僕は叫んだ。
「これは大変なことになったかもしれない!」
翌日、僕は巨大な石を積んで作られたゴシック・グロテスク様式の建物に入っていった。空には時折雷光が差す灰色の分厚い雲が垂れ込め、空気は湿って冷たかった。ここ魔界の空が晴れることは決してないのだ。
そのひんやりした建物の中で、僕は十三階まで石造りの螺旋階段を登り、擦り切れたラグを踏んで、手紙に印された666号室の扉に備えられたゴブリンのノッカーを打った。
「入り給え——」部屋の中から低く、太い声が響いた。
部屋に入るとグレーのスーツを着た巨大な紳士が巨大な机の向こうに座っていた。その頭部は大きな角を生やしたヤギだった。
「ヤイクスか?」ヤギの紳士は僕に一瞥もなく、手にした書類に目を落としたまま、雷鳴のような声でそう訊いた。
「はい。ヤイクスです」僕は少し緊張して答えた。
「今回、貴殿は非常に珍しい人事に該当した」ヤギ紳士が唸るように言った。
「はい……」やはりそうなのだ。やはりこれは滅多にないことなのだ。
「これの意味する所が分かるか? うん?」ヤギ紳士はようやく書類から僕に目線を移してこう言った。
「はい、なんとなく——。ただ、本当にそんなことが起きるのかとも思いますが」
「……」ヤギ紳士はその横長の光彩で僕を見つめながらしばらく黙ってヒゲを引っ張っていた。何か考えている様子だった。僕は次第にこの空気に耐えられなくなって来た。早く帰りたい。このヤギは何を考えているのだろう?
しばしの沈黙の後、
「つまり、貴殿は属性を悪魔から天使に変更する必要があるのだ——」おもむろにヤギが口を開いて言う。
「ははぁー」僕はそう言って深々とお辞儀をした。してから自分を責めた。ありがたき幸せと時代劇風なセリフが続いて出てきそうだったので、あわてて自分を戒めた。
悪魔の世界、この魔界において、天使になるのが幸せとかいったら、それはもう、非国民ならぬ
「わしは、この係をもう七百年近くやってきたが……」ヤギの紳士が言う。「前例はない」
そういってからヤギの紳士は背後の本棚から一冊の古い古い革表紙の大きな本を取り出し、長く尖った爪が生えた指でページを繰った。
恐ろしく古そうなその本の外見は、同時に恐ろしく値段が高いことも意味していた。魔界や天界で出回っているこういった本は、アカシックレコードの記録の切り売りなのだ。古い時代の記録は古い本になる。そして需要も低いので値が高い。こうした役所的な公的機関か、一部の研究家くらいしか買う者がいないのだ。
「ただ、歴史には僅かながら前例も残っておる」本には、黄色い付箋紙がいくつかページに貼り付けてある。事前に調べたのだ。このヤギ紳士は——。
「貴殿と逆の人事であれば、悪魔の元祖とも言えるルシファー様の天界から魔界への移動を初め、細かい者も含めれば過去には幾多と前例をあげることができる。これは知らぬ者がいない程、有名な話である」ヤギ紳士は爪の先でカチ、カチと机の表面を叩きながら言う。
「しかし、魔界に棲む者が天界に移動すると言う例は、世界が魔界と天界と人間界の形になったときからおよそ一万年に一度程の頻度でしか
一万年に一度! そんな低い確率の幸運が自分に降ってきたとは! いや、幸運などと言ってはいけないのだった——そして今度は不安になった。一体何故? なぜ僕が?
突然、色々な情景が頭をよぎり初める。天界で天使達にイジメられたりはしないだろうか? いったい、いくらくらいの魂を要求されるのだろうか? まさか改造手術とかされてそれがめちゃくちゃ痛いとか、リスキーだとか? 第一、天使の仕事に馴染めるのだろうか? うまくいかなかったらまた
「あの……係様」僕はおずおずと訊いてみた。
「これはどうしても、そうしなければならないのですか?」
「当たり前だ!」目の前に雷が落ちたような衝撃が空気を震わせて、天井から下がった重量級のシャンデリアは数センチ跳ね上がったのち、ゆっくりと揺れてその数百本の蝋燭は火をほとんど消しそうに弱弱しく瞬き、巨石を積んだ石壁の継ぎ目からはホコリがパラパラと落ちて来た。
「人事の決定をなんだと思っている!」
「従えないのなら貴殿の存在は消える。魔界一の痛みを味わいながらな」ヤギ紳士の声は一段と太く、低く、恐ろしげになった。
僕は自分の小ささを嫌と言うほど実感した。どちらに転んでもただでは済まされない。
「申し訳ありませんでした」こう言う他に選択肢はない。
「うむ。では手続きに入る。こちらへ来なさい」僕はヤギ紳士の前の大きな机に歩み寄った。その天板の表面は僕の頭より高かった。
「この書類にサインを」次から次へと差し出される書類に僕は必死に腕を机の上まで伸ばしてサインをしていった。何が書いてあるのかなんて全く見えないし、聞くのも恐ろしかった。
「では、説明に移る」ヤギ紳士は
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