クライアント 遠山金魚 2
その少女、金魚は僕の机に対面して置かれた黒いレザーの椅子に座って、手にした湯呑のお茶を一口すすった。
——ここに至るまで一時間ほども時間を費やして金魚を説得した僕。まずは話を聞きましょうと、やっとのことで刀を収めさせることに成功したのだった。
「しかし、これでは僕もどうしてよいか分かりませんね——」金魚のあまりの無口ぶりに困り果ててしまった。いま思えばいちごの通訳がなければ、わけも分からずに勝負させられてスポーツマンシップとかフェアプレイの名のもとに、我が血の沼に身を沈めていたかもしれないのだ。
かたくなに口を割らない金魚。困り果てる僕を冷たい目でジッと見つめる。
「あ、そうだ——」僕は立ち上がって一冊のファイルを壁際の棚から引き出すと、中から一枚の紙を取り出した。その際、それをちょっと眺めてから金魚に渡して言う。
「えっと、まずはこのアンケートに答えていただけますか?」
僕は事務所を開いた当初に暇を持てあまして作った、クライアント向けのアンケートを思い出したのだ。いま見るとそれは必要もないことを根掘り葉掘り質問している感はあったが、ここで修正している暇はない。いままで使ったことは一度もなかったが、いまこれを使わずして、いつ使うのだ?
金魚はところどころ悩む様子をみせながら、そのアンケートの根掘り葉掘りにも疑問を持たず、異議も唱えず、素直に答えてくれた。
金魚が住んでいるのはかなりの遠方で、山奥の小さな農村だった。道理で、名札に学年しか書いてなかったのだ。なぜなら、教室はいろんな学年の生徒でシェアされていて、中学一年生から高校三年生まで一つのクラスで一人の先生から一緒に学んでいるからだ。
アンケートの内容を抜粋すると——
氏名
好きな物 日本的なもの全般、おまつり、金魚すくい、線香花火、ゆかた、お風呂、蚊取り線香の匂い、ふんどしの男、相撲、座頭市シリーズの映画、ネット通販、痛がる人を見ること、今年九十になるひい爺ちゃん。
好きな本 ドグラ・マグラ、家畜人ヤプー。
好きな食べ物 お餅、刺し身、お寿司、焼き肉。
得意なこと 居合い切り。
苦手なこと 人と接すること。
解決したいお悩み 空欄。
ここも肝心なお悩みは空欄だった。他の質問と一緒にどさくさ紛れにお悩みを書かせようと思った僕の作戦は失敗だった。
困りきってアンケートから目を上げた僕。金魚を見て驚いた。
無表情なままの金魚が真っ赤になって頭から湯気を上げている。急にどうしちゃったのだ?
「悩み事の一番の難所は超えたって言ってるよ」金魚の発する「な……」と言う声を翻訳していちごが言う。
「難所を超えた?」つぶやく僕をじっと見つめる金魚。さっきより目線に熱がこもっているようにも見えるのは気のせいか?
なぜか突然、あれだけ抵抗していた金魚が饒舌に(いちごを通じてだけど)語り始めた。驚きだ。
「じい……」金魚が言う。いちごが続ける。
「今年九十歳になる大好きなひい爺ちゃんがもう死にそうで、多分来年までもたない。ひい爺ちゃんは自分の居合い切りの師匠でもある」
「ふむふむ、ひいお爺さんが——」僕がいちごの翻訳を黒い革表紙の大きな本に声を出して書き込んでいく。
「——居合い切りの師匠でもある……と」書き終わる僕が言う。
金魚の目線がさらに熱を帯びる。
「おま……」金魚が言う。
「来月は年に一度の村祭りだって」いちごが翻訳する。
「——に一度の村祭りっと——」僕が書き留めながら、その内容を声に出して言う。
金魚はよほど恥ずかしいのか、真っ赤なままだ。まるで金魚だった。
「んあ……」と金魚。
「ひい爺ちゃんはいつも自分のことを心配してくれる。彼氏は出来ないのか? 大切なひ孫の相手は相応の人物でなければならない」——いちごが翻訳する。
「なるほど、えっと、ひいお爺さんは——」またも声にして内容を書き込む僕。
「うぐ……」金魚が言う。いちごが後を追う。
「今年の村祭りまでに、ひい爺ちゃんが安心するような彼氏を作らなきゃってことなんだ。ひい爺ちゃんは来年の祭りまでもたないんだから」 いちごは訳しながら金魚に同情的な感じだった。
「はん……」金魚は頬を赤く染めたまま言う。
「マジどうしようって思ったよ。自分は口下手だから自分を分かってくれる男なんかいないと思ってたし、好きな男もいなかったし、でも、その一番の難所は超えられたよ」——通訳しながらいちごはちょっと不安な表情を見せる。このとき、僕はまだ何も気づいていなかった。声に出しながらそれを本に書き込んでいく。
「んあ……」金魚の言葉にいちごの顔がこわばる。しかし、いちごは職務に忠実で、その金魚の言ったことをそのまま訳す。
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