第36話

 目を覚ましたときそこがどこだかわからなかった。結婚する前はここで寝起きしていたのに、理玖さんと一緒に眠るベッドに慣れたせいかすごく狭く感じる。

 理玖さんは呆れてしまったのかもしれない。わたしは心のどこかで彼が迎えにきてくれると思っていたようだ。祖父江伯爵のことをまだ疑っているのかもしれない。あんな風に感情的にならずに弁解すればよかった。

 起き上がると違和感に気が付いた。服を着替えている。確か服は着替えずに寝たはずなのに寝巻きになっている。カーサに迷惑をかけてしまった。癇癪持ちの母様を世話していたメイドを気の毒に思っていたけど、自分まで侍女に迷惑をかけるようになるなんて。彼女たちの仕事を増やしてはいけない。ずっとそう思っていたのに。

 理玖さんは仕事に行かれたのかしら。昨日は予定より早く帰っていらしたから仕事を置いて帰ってきたのだろう。わたしの噂のせいで彼にまで恥をかかせてしまった。

 祖父江伯爵があんな所で変なことを言うから誤解されたのだ。文句の一つも言いたいけど祖父江伯爵の家に乗り込むわけには行かない。これ以上噂を広げたら本当に離縁されるかもしれない。

 結婚前は理玖さんから逃げることばかり考えていたのに、今は離縁されると思うと悲しくて涙が溢れてくる。理玖さんは愛莉のことが好きで婚約したのだからわたしのことは好きになってもらえないってずっと思っていた。あの頃のわたしには理玖さんは遠い存在で憧れの対象でしかなかった。今のわたしは理玖さんの優しさや温かさを知っている。彼の元から離れたくない。

 でもどうやって誤解をとけばいいのかわからない。祖父江伯爵が理玖さんに本当のことを話してくれるとは思えない。それにしても誰に見られていたのだろうか。あのときそばにいたのは祖父江伯爵の連れの女性だけだけど、彼女は結構離れていたから会話までは聞こえなかったと思うのに。 

 侍女のカーサがわたしが起きたことに気付いたのか紅茶を持ってきてくれた。カーサは昨日のことには触れなかったのでホッとした。理玖さんのことを尋ねると、やっぱり仕事に行っていた。

 理玖さんが帰宅したらもう一度冷静に話をしよう。昨日は理玖さんがとても怒っていたから、わたしまで感情的になってしまった。今日は祖父江伯爵のことをすごく嫌っていることも話そう。そしてクリスタル植物園での会話も全て話した方がいい。隠したからこんなことになったのだ。


「奥様、奥様のお母様がお見えになっていますがいかがいたしますか?」


 昼ごはんが終わってソファに座っていると執事のバンに声をかけられた。母様がわたしに会いに来た? カーサも驚いたようにわたしを見る。


「母様だけなの?」


 もしかして兄様も一緒かと思った。わたしが訪ねて行かないから連れて来たのかと思ったのだ。


「はい、お一人です」


 正直、今日は会いたくない。でもわたしには母様を追い返すこともできない。身分からいえば急に訪ねて来た子爵夫人と会わないこともできるだろうけど、わたしには無理だ。


「わかりました。会います」


「かしこまりました」


 カーサが母様の紅茶を用意するために下がる。

 カーサはわたしと母様だけにするつもりはなかったらしく母様が通される前にもどってきてくれた。わたしはカーサを見てホッとした。会うと決めたけれど、一人で会うのは怖かったのだ。また何か言われるかもしれない。この間会ったときは伯母さんに似ているわたしが憎いとまで言われたのだ。

 入って来た母様はやつれていた。愛莉が亡くなってから食欲もなくなっていたから無理もない。どこか静養に行かれた方がいいのではないかしら。


「まさか母様が訪ねて来てくれるとは思ってませんでした」


「私が来ても嬉しくないでしょうね」


 うっ、確かに嬉しくはないけど、それは母様がわたしを嫌っていることを知っているからでわたしが母様を嫌っているわけではない。


「いえ、そんなことはありません。いつでもいらしてください」


「信じないかもしれないけど、貴女が三千院伯爵と結婚できてホッとしてるのよ。この間はおかしなことを言って悪かったわ」


 おかしい。母様が謝るなんてどう考えてもおかしい。この人は本当は母様ではないのではないか。わたしが母様をじっと見つめていると母様が眉をあげた。


「そうしたの? わたしがこんなことを言うのが信じられないの? あなたはやっぱり……ってまた怒るとこだったわ。癖みたいなものね。茉里にはどうしても辛い言葉しか出ないみたい。これも呪いの後遺症なのかしら」


「呪い?」


「いえ、いいのよ。気にしないで。それより今日は大事な話をしにきたの。祖父江伯爵のことよ。あの男と貴女の噂が流れてるの。三千院伯爵の耳に入る前になんとかした方がいいわ」


 なんと、母様はあの噂を聞いて尋ねてきてくれたようだ。でも一日遅かった。昨日聞いていればもっとなんとかできたかもしれない。


「遅かったわ。もう理玖さんにも知られたわ」


「まあ、それで大丈夫なの? あの男は執念深いの。ずっと茉里を狙ってたわ。貴女を初めて見たときから貴女を手に入れようとしていた。貴女が夜会に出ないから愛莉に近付いて貴女の情報を手に入れていた。愛莉も可哀想な娘だったわ。あんな男に騙されて死んでしまうなんて」


「母様、それではまるで祖父江伯爵が愛莉を殺したような言い方ではありませんか。それにわたしを手に入れるために祖父江伯爵が愛莉を利用していたみたいだわ」


「でもそれが真実なのよ。愛莉はあの男に会うために馬車に乗っていたの。事故だったけれど原因はあの男なの」


 愛莉が馬車で向かっていたのは祖父江伯爵のところだったのは賢一さんに聞いて知っていた。賢一さんと理玖さんで馬車を細工した犯人を探しているはずだ。でも母様にはまだ話さない方がいい。


「でも母様、愛莉はとても可愛かったわ。祖父江伯爵が愛莉よりわたしを選ぶとは思えないわ。そのために愛莉を利用していたなんて考え過ぎよ」


「祖父江伯爵から結婚の申し込みは何度もあったの。でもそれは全部、茉里にだった。愛莉とは身体の関係もあったようなのに結婚するつもりはなかったのよ」


「ど、どうしてわたしなの? 祖父江伯爵とは数回しか会っていないのに」


 母様はわたしを見ると息を吐いた。


「この間、私の姉の話をしたでしょ。祖父江伯爵は姉の恋人の一人だった。ものすごく姉に執着していたの。姉はそれを利用して彼を奴隷のように扱っていたわ。祖父江伯爵が見ているのは貴女ではなく姉なのよ」

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