第30話

 理玖さんはどうしてわたしにこんなに優しくしてくれるのだろう。

 嫌味ばかり言われていた頃は、彼の顔を見ると逃げ出したい時もあった。でもあの頃からわたしは理玖さんを意識していた。絶対に好きになってはいけない人だってわかっていたから逃げていただけだ。

 公爵家の図書室で会話した時から、理玖さんの優しさには気付いていた。

 突然愛莉が亡くなってもう会うこともなくなると思うと寂しいなって思っていたのに、今ではわたしの旦那様になっている。わたしは家族には見捨てられたけど理玖さんには見捨てられないようにしたい。少しでも役に立てるように、伯爵家に来る手紙の返事はわたしが書くようにしている。少しずつだけど理玖さんの仕事を減らしてあげれば、理玖さんも楽になるだろう。



 兄の桜庭小太郎がわたしを訪ねて来たのは、ちょうど理玖さんが留守の時だった。


「なかなかいい暮らしをしているようだな」


 少しばかり嫌味を効かせた感じで話すのは兄様の癖のようなものだ。

 

「はい。とても良くしていただいてます」


「まあ、それはそうだろう。彼は初めからお前と結婚したがっていたのだからな」


「は?」


 兄様がなにを言っているのかわからない。理玖さんは愛梨を見初めて婚約を申し込んだと聞いているのに。


「あいつから何も聞いていいないのか? 三千院伯爵が『庭で出会った時に今日誕生日だと言っていた妹の愛莉さんと婚約したい』と言って来た時、すぐに愛莉ではなく茉里のことだと気付いたよ。あの日愛莉は庭には出なかったからな。両親もわかっていた。だが愛莉をなるべく早く結婚させたかったからあえて伯爵が茉里のことを言ってることには気付かないふりで話を進めたんだ」


「そんなはずはありません。それが本当ならもっと早く破談にしたはずです」


「理由もなく破談にすれば茉里との婚約ができなくなると考えて、愛莉の方から破談にするように仕向けていただろう。愛莉は勉強が何より嫌いだからあと少しで根を上げていたはずだ。だがその前に死んでしまったが」


「そ、そんな…」


「事故のことを聞いた時は、始めは三千院伯爵を疑ったよ。愛莉のことが邪魔になったから殺したのではないかと」


 理玖さんから聞いた車輪が壊されていたことを思い出した。でも彼が犯人ならわたしにそんな話をするとは思えない。


「理玖さんは愛莉を殺してないわ」


「そうだな。あれは事故だった」


 わたしは事故でないことを知っているけど、兄様には話すことができなかった。兄様は単純だから話せば理玖さんを疑うに決まっている。


「今日は茉里に話があって来たんだ」


 それはわかっている。それほど仲がいいわけでもないのに尋ねて来たのは話があるに決まっている。


「兄様がわたしに話があるなんて何事かしら」


「母様と仲直りをしないか? もう許してやって欲しいんだ」


「な、何を言ってるの? わたしが許さないとかそういう話ではないでしょ。母様がわたしを嫌っているのだから」


 つい最近も叩かれたのだ。思い出すとまた頬が痛くなる。


「母様は罪の意識でおかしくなってただけなんだ。母様は茉里を愛している」


「兄様が一番知っているのに、どうしてそんなことを言うの? わたしは母様に抱きしめてもらったことすらないのよ」


「そんなことはない。茉里が忘れているだけだ。昔は一緒に抱きしめていただろう?」


 兄様の言葉で二歳くらいの時に三人で抱きしめあってたことを思い出す。あれは現実にあったことなの?


「でも愛莉が……」


「そうだな。愛莉が生まれてからというか、愛莉がわがままを言うようになってから母様は変わってしまった。愛莉の一番の標的はお前だった。茉里は小さかったから覚えてないかもしれないが、茉里のおもちゃは全部愛莉のものになった。愛莉が微笑むだけでみんなが愛莉の言いなりになった。私は愛莉が怖かったよ。小さいのにみんなを操っていたから」


「母様も操られてたというの?」


「母様はあえて愛莉の言われるままに行動していたんだと思う。前は気付くことができなかったけど今はよくわかる。茉里のものを特に欲しがってた愛莉をけん制するために、茉里には何も与えなかったんじゃないかな。与えなければ奪われることはない」


 確かに奪われることはないけど、全く与えられないっていうのは奪われるよりも寂しい気がする。たとえ後で愛莉に奪われるにしても私だけの人形やドレスが欲しかった。


「小さい頃、茉里は階段から転げ落ちたことがある。あれは愛莉のしたことだと思う。あの日から母様は愛莉にべったりになったから間違いない」


「そんなことないよ。あれはメイドの誰かだった。あの頃はまだ愛莉は小さかったからわたしを階段から落とすなんて無理よ」


「メイドにやらせたんだ。あのメイドは茉里をとても可愛がっていたのに、愛莉と一緒にいていつの間にか茉里の背中を押していたと言ったんだ。その間の記憶がないと言った。母様はそれを聞いてからおかしくなった。私は母様なりに茉里をかばっていたと思うんだ。茉里に優しくすれば愛莉を怒らせ、茉里が死んでしまうかもしれないことが怖かったんだと思う」


 わたしは階段から落ちた時、骨折こそしなかったけれど打撲がひどくて熱を出した。痛みと不安から母様を何度も呼んだ。でも母様は一度も顔を見せてくれなかった。仲が良かったメイドもいなくて、怪我が治るまでずっとベッドでひとりぼっちだった。

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