大いなるもの

 突如上空に現れた巨大な存在に、戦火の最中さなかにいた誰もが空を見上げた。それこそ、円卓の征伐部隊も帝国軍も関係なく、騎獣や魔物を含めた全ての生き物が、空を仰いで戦いの手を止める。中には武器を取り落とす者や、立っていることすらできず、その場に膝をつく者までいた。

 実力者であろうとなかろうと、空を支配するその両翼を前に、ちっぽけな戦いに身を投じることなどできなかったのだ。そしてそれは円卓の王とて例外ではなく、彼らですら、目の前の戦場を忘れて、ただ食い入るようにして空を見つめた。

 だが、ただ一人、竜が放つ圧倒的な気配に屈しなかった人間がいる。

「っ、奔る閃光 轟く咆哮 願いは大地へ 誓いは空へ 終に至る絶望の名の元に 呪いは今、クソッ! 詠唱時間が惜しい! 今回は大目に見て発動させてくれよ! ――“八矢の雷霆よ悉く打ち砕けトル・イルディラ・アルゲーズ”!」

 魔法の名を叫んだその声は、黄の王のものだった。

 そう、彼だけは、竜の存在に囚われることなく、その場における最善の行動を取ることに成功した。何故なら、彼は既にその辛酸を舐めている。動くべき瞬間に気圧され、取るべき一手を考えることすらできなかった過去がある。

(ドラゴンは確かにやべぇ生き物だが、あのウロとかいう訳判んねー野郎より万倍マシだ!)

 少なくともドラゴンには、ウロが滲ませていたような悪性は感じられない。ならば、あの悪意の塊のような生き物を直視したことがある黄の王が怯むはずがなかった。

 詠唱が放棄された魔法はしかし、黄の王の気迫に押されるようにして発動の兆しを見せ始めた。王の全身がばちばちと激しい音を立てる雷に覆われ、その髪がふわりと逆立つ。自らをも傷つけかねない雷の流れをその身に受けながら、しかし王は苦痛をもろともせずに竜を見上げた。

 その右手の指先が、ついと竜に向けられ、そして、

「一閃!」

 王の叫びと共に、王の指先から爆発的な雷が放たれる。そして、一瞬で奔ったそれは、竜の左翼の被膜へと到達した。

「二豪! 三灼!」

 王が叫ぶ度、次々とその指から雷が迸る。その威力は、二、三、と続くごとに、徐々に強くなっていった。

 八矢の雷霆よ悉く打ち砕けトル・イルディラ・アルゲーズ。当代の黄の王が生み出した、個に対する雷魔法としては最高の威力を誇る魔法である。王は、魔法師として己が許容できる以上の雷を内包することで、本来上限とされてきた雷魔法の威力を底上げすることに成功したのだ。単純な破壊力だけで言うのならば、この魔法は四大国の王が扱う極限魔法にも匹敵する。ただし、それは飽くまでも攻撃箇所を一点にのみ集中させるからこそ出せる威力であり、広範囲にその破壊をもたらす極限魔法に並ぶとは言い難い。いわば、超広範囲に中威力の雷魔法を発動させる轟雷は我が手に在りてトル・マネハーレ・ケラヴノスの対となる魔法と言えるだろう。

(っ、痛ってぇなぁ!)

 早くも高圧の雷が黄の王の内側の細胞を焼き始め、王は盛大に顔を顰めた。だが、ここで彼が魔法を放棄する訳にはいかない。

 彼の初撃を以て、他の王も目が覚めたことだろう。それを証拠に、風の乙女たちが黄の王へと囁きかける。赤、青、緑の三王が、魔法の詠唱を始めた、と。ならば彼が行うべきは、少しでも竜の意識を自分に向け、魔法を完遂することだ。

 残弾は五発。そのひとつひとつに全魔力を注ぐつもりで、王は魔法を行使し続ける。

 雷撃は確実に被弾しているはずだが、それで竜がどれだけのダメージを受けたかは判らない。攻撃が残した爪痕を確認するよりも早く、間髪いれずに次弾を叩き込んでいるからだ。

 そしてついに、黄の王が最後の一撃を放った。

「八夷!」

 これまでの七弾分を全て乗せたかのような、最大威力の雷撃が、竜に襲い掛かる。それと同時に、黄の王は頽れるようにしてその場に膝をついた。

(っ、さすがに、魔力がもう無ぇ……!)

 中央突破部隊を率い、誰よりも前線で戦い続けた黄の王の魔力は、今の魔法によってほとんど使い果たされてしまった。こうなった以上、彼にできることはもうないと言って良い。

 荒い呼吸を繰り返しながら、黄の王が空を見上げ、そして彼は、苦々し気に顔を歪めた。

(……予想はしてたが、ほんとに生き物かよ……)

 黄の王が見上げた先、そこには、まるで無傷の竜が泰然と佇んでいた。

 雷魔法としては間違いなく最大威力の攻撃を食らい、それでも無傷とは、あまりに格が違い過ぎる。

(掠り傷くらいはつくもんかと思ってたけど、考えが甘すぎたか……)

 だが、最低限果たすべき役目は果たせたはずだ。そんな黄の王の考えを肯定するように、今度は三方からほとんど同じタイミングで、ドラゴンに向かって魔法が放たれた。

 距離が離れているせいで、詠唱は勿論のこと、魔法の名前すら黄の王には聞こえなかった。けれど、その圧倒的な威圧感のような感覚が、魔法の発動を明確に示唆してくる。

 そう、その魔法たちの前では、黄の王の魔法など所詮ただの時間稼ぎにすぎない。まるで竜に通用しなかった結果を見ると、果たして本当に時間稼ぎになったのかどうかも判らないが、少なくとも魔法が発動している間、竜は何もしてこなかった。もしかすると、人間の攻撃に対して防御や反撃の素振りを見せることすら、その誇りに背く行為だっただけかもしれない。

(いや、そんなことはどうだって良い。結果的に、時間は作られたんだ)

 竜を睨む黄の王の視線の先、遥けき上空で、雲が割れ、空が割れる。そして、虚空の彼方から、三色の魔法が舞い降りた。

 ひとつは緑。降り注いだそれは、竜へと纏わりつき、光の内側に存在する気体中の全ての物質を、瞬く間に消滅させた。

 ひとつは青。降り注いだそれは、竜の内部へと潜りこみ、その身の液体という液体を逆流させ、あらゆる空洞に水を満たした。

 そしてひとつは赤。降り注いだそれは、竜を覆い、白一色の業火を噴き上げた。

 そのどれもが、精霊魔法では到底至ることのできない境地だ。

 風霊魔法には風を操る力しかなく、気体中の物質を操作するようなことはできない。すなわち、指定空間を絶対真空にしてみせたあれは、風神ストールムの力である。

 水霊魔法は自然の中に存在する水そのものを操る力しか持たず、生物中の液体を操作することや、体内に水を溢れさせることもできない。すなわち、水ではない液体をも操作し、生物体内に新たな水を生み出してみせたあれは、水神ワルテールの力である。

 火霊魔法で生み出せる炎は、例外なく赤を主体とした炎であり、純粋な白炎を生じさせることはできない。すなわち、精霊の炎の限界を越え、地上に存在しえない混じりけのない白の炎を生んでみせたあれは、炎神フラメスの力である。

 これらはすべて、あらゆる生き物が抗うことすら許さない、逃れようのない絶対的な死をもたらす魔法だ。そしてこの三つの神の力は、互いに相殺されることなく竜に襲い掛かった。

 どうすれば、絶対真空において水を溢れさせ、炎を燃え上がらせられるのか。どうすれば、水に満たされた場所で炎を躍らせ、真空を成せるのか。どうすれば、炎が燃ゆる場所を真空空間にし、水を保ち続けられるのか。

 その原理は判らない。いや、もしかすると、そもそも原理など存在しないのかもしれない。それぞれがそれぞれに神の力であり、全てが独立して行使されるものであるが故に、互いに不可侵であると、ただそれだけの話なのかもしれない。

 ただひとつ、魔法を目にした者たちに判るのは、三つの神性魔法はこの世界において等しく最強の力であり、それが避けられることなく竜にぶつかった、という事実のみである。

 神性魔法を放った三人の王は既にその場に倒れ込んでおり、朦朧とする意識を必死に繋ぎ止めて、魔法の行く末を見守った。

 果たして、神の力が地上に降り注いだのは、どれほどの時間だったのか。

 あまりに規格外の現象を前に、時間の経過を正確に感じ取れた者はいない。ただ、一瞬とも永遠とも感じられる時が過ぎたのち、猛威を振るっていた三種の力が唐突に消滅して、辺りは静寂に満たされた。

 風と水と火の名残が薄れる中、誰もが空を見上げる。そしてその無数の視線の先で、無傷の竜が・・・・・地上を見下ろした。

 そんな、と。誰かの口から、ぽつりと言葉が漏れた。その誰かのように声は零さなかったものの、王たちも皆同じ心地だった。

 神性魔法を以てしても、僅かな傷すらつけることができないのか。そんな絶望が、ひたひたと胸の内を埋めていく。

 人の力では及ばないと、聞いてはいた。だが、今のは人の力ではない。まさに神の力の一端を借りた、神の力そのものだ。それでは、神すらも竜には及ばないというのか。

 そんな思いが人々の心を占めていくなか、竜は神性魔法を放った張本人である、緑、青、赤の王を順に見やってから、ゆるりと目を細めた。

『勘違いをしているようだが、神性魔法は人の領域の力だ。人が扱える力である以上、それは人の域を逸脱しているとは言えない。確かに神の力を借りてはいるのだろうが、所詮爪先程度のもの。それでは俺に傷をつけることなど叶わない。竜に傷をつけられるのは、同じ竜かそれに勝る生き物だけだ』

 そう言った竜の声は、何の感情も伺わせない平坦な音をしている。自らを害そうとした人間の不遜さに対する怒りも、望まぬ次元に連れてこられたことに対する憤りも、何も感じられない。ただ、雄大な自然がそこに存在するかのような不変さで、人を見下ろしている。

『さて、恨みはないが、だからといって現状に甘んじる訳にもいかん。絶対に成し得ないとは言え、この世界の生き物の傲慢が俺の誇りを損ねようとしたのは事実だ。ならば、俺は俺の誇りのために、この世界を滅ぼそう』

 この世界の生き物の咎は、同じ世界の生き物すべてが背負え、と。竜はそう言っているのだ。帝国も円卓も、人もそうでないものも、何も関係なく、区別することなく、押し並べて竜に及ばぬ等価の命として、そのすべての命で償え、と。

 竜の意思に、きっと余計な感情は一切入っていない。ただ、それが当然の報いだとして、この世界そのものを滅ぼそうというのだ。そして、この世界の生き物では、それを止めることができない。

 世界が背負ってしまった大罪を清算するときは、今まさに訪れようとしていた。

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