白と黒

 羽毛に覆われた白い獣が帝都郊外の東部上空を駆ける。その背に乗っているのは、白の王だ。

 中央突破部隊の救護に回っているはずの彼女が、何故こんな場所にいるのか。それは、四大国の王たちの戦闘が始まる前、ちょうど白の王が黄の王の傷を治癒した直後にまで遡る。

 黄の王を見送り、救護部隊の指揮に戻った白の王の元へ、金の王が血相を変えて走ってきたのだ。

 何事かと驚く白の王に、金の王は今にも泣き出しそうな顔をして叫んだ。

「今すぐグランデル王の元へ向かってください!」

 その言葉を聞くや否や、白の王は迷いなく騎獣に跳び乗り空へと走り出した。そのため彼女は、自分が赤の王の元へ行かねばならない理由を正確には知らない。

 ただ、赤の王の元へと向かう背中に投げかけられた、未来視が、という金の王の叫びから、この先に待っているだろう事態を察することは容易だった。

 未来を視た金の王が、赤の王の元へ向かうよう白の王に要請する。それにどういう意味があり、どれほど重いことなのかを、彼女はよく理解している。

 そして先程、白の王は自身が向かう先の空が大きく割れるのを確認した。あれが味方によるものなのか敵によるものなのかは判別できなかったが、どちらにせよあの規模の戦闘が起こっているというならば、先を急いだ方が良い。

 可能な限り騎獣を飛ばし、戦地だろう場所へなんとか辿り着いた白の王は、その惨状を見て絶句した。

 元の状態が判らないほどに大地はめちゃくちゃで、繁茂していただろう植生は、その面影すらない。

 およそ街ひとつ分の範囲が等しくそんな有り様で、その範囲から外れた場所では大した被害が見られないことがまた、戦地の中心で激しい戦闘が繰り広げられたことを物語っている。

 高く隆起したり深く抉られたりと、最早歩くことすら困難なほどに荒らされた大地を見下ろし、白の王は懸命に求めている姿を探した。

 と、そんな彼女の元へ、緑の獣が走ってやってくる。白の王がそれに気づいて視線をやれば、獣はすぐさま反転して何処かへ走り出した。

 あれは緑の王の騎獣で、自分を案内しようとしているのだ、と察した白の王が、すぐさま獣に追従する。

 そうして連れて行かれたのは、荒れ果てた戦地のちょうど中心にあたる場所だった。

 一層激しく荒れた大地が広がるなか、まず白の王の目に入ったのは、大柄な地属性の騎獣と、その傍らに転がる橙の王だった。思わずそちらへ向かいそうになった白の王は、しかしはっと思い直してその場に踏みとどまる。

 ぱっと見で橙の王に外傷がないこと。傍らで彼を守るように立つ騎獣に、あまり焦った様子がないこと。そして何より、緑の騎獣がそちらに向かおうとはしなかったことが、白の王の行動に待ったをかけた。

(……ならば、グランデル王は……!?)

 金の王の言葉を思い返した白の王が、視線を巡らせる。そして、ようやく見つけたその姿に、彼女は大きく目を見開いた。

 雷の毛並みの獣、ライデンが、ぐちゃぐちゃになった大地に伏せている。そして、まるでそれに守られるようにして、彼はいた。

「っ!」

 声なき声を漏らした白の王が、騎獣を走らせてそこへ向かう。半ば飛び降りるようにして地面に足をつけた彼女は、白い衣の裾を揺らして、ライデンのいる場所へと駆け寄った。

「……グランデル、王」

 呼び掛けに、しかし赤の王は応えない。代わりに、ライデンが縋るようなか細い鳴き声を上げた。

(……ああ、なんてこと……)

 間近にまで歩み寄った白の王が、その場に膝をつく。その目が見つめるのは、ライデンが身を寄せているそれだ。

 四肢が消し飛び、それどころかその腹も半分が抉り取られ、それでもか細く呼吸をしている、赤の王である。

 生きてはいる。かろうじてまだ、その命は繋がれている。だが、半分ほど開いた虚ろな目は何も捉えておらず、薄く開いた唇は動きもしない。ただ、まるで死に抗うように繰り返される呼吸と、浅く上下する胸だけが、彼が死んでいないことを示している。

 だが、こんなものは生きているとは言わない、と白の王は思った。

(……これは、もう……)

 地面に染み込んでいるのは、夥しい量の血液だ。間違いなく赤の王のものだろうそれは、一目で判るほどに致命的な量で、こうしてまだ息をしているのが不思議なほどである。

 救えない、と、白の王が胸の内で呟く。回復魔法が癒せる範囲は、限られている。確かに、白の王ほどの力があれば、他の人間では手の施しようがないような重症でもたちまち治癒することができるが、それにも限度というものがある。

 赤の王の状態は、すでに手遅れだ。彼は死の淵に立っているのではない。もうほとんど死んでいるようなものなのだ。いくら白の王でも、死んだ命を蘇らせることはできない。

 赤の王を見つめたまま動かない白の王に、ライデンがまた、救いを求めるような鳴き声を上げた。だが、白の王はただ黙したまま、赤の王を見つめ続ける。

(…………私は、)

 どうすべきなのか、という問いを、白の王が自身へと投げ掛ける。

 赤の王の心臓は、もう間もなくしてその動きを止めるだろう。今こうして生きていること自体が、奇跡のようなものなのだ。

(……傷の位置や状態から察するに、命に直結する心臓と頭だけはなんとか守り抜いたのでしょう。けれど、その他の場所を庇う余裕はなかった……)

 つまり、赤の王に死ぬ気はなかった。きっと、だからこそこんな状態でもまだ呼吸を続けている。続けようと抗っている。生き物の生存にとって、生きる意志というものがどれだけ大切か。白の王は、それをよく理解している。

 赤の王を見つめる白の王が、両の手を握り締めた。

 彼女がここに居るのは、金の王に促されたからだ。未来を視ることができる彼が、赤の王を救うべく進言したのだ。では、それは誰の意思なのか。

 白の王が、握る拳に一層の力を込めた。

 銀の王が言っていた。公式に記録が残されていないだけで、過去視も未来視も神性魔法の一種なのだろうと。

 ならば、金の王に未来を視せたのは神だ。それを視た金の王が白の王に助けを乞うことを見越して。天秤が傾く危険を犯してまで。神が、赤の王を救うべく動いたのだ。

 そして彼女は知る。己がこの場所に呼ばれた、その意味を。

 果たして、そこに神の意思が在るのならば、罰せられるべき罪をも赦されるのだろうか。

 その答えを、白の王は知らない。だが、目を閉じた彼女は胸の内で呟く。それが神の願いならば、自分こそがその罪を背負うべきなのだろう、と。

 地面に膝をついたまま、白の王がまるで祈りを捧げるように、両手を胸の前で組む。

「……光は朝を照らし 闇は夜を覆う 輪廻を巡る命の輝きはそらへ 落ち行く命の受け皿は奈落へ」

 それは歴史にすら残らない、いつの時代もただ二人のみが識ることを赦された音の羅列だ。

「白と黒の狭間を我が手に 光と闇の切れ間をここに 祝福と怨嗟の境界を足元に」

 白の王の影から、無機物とも動物とも知れぬ存在が姿を現す。喜怒哀楽を象る四の顔を持ったそれは、白の国の王獣だ。黒の王獣に並ぶ不自然さを持ち合わせた、生を司る獣である。

「私は祈りを以て願いを叶えるもの 私は呪いを以て望みを満たすもの ならばこの手は理を握り この足は理を踏み越える」

 白の王を中心に、彼女が膝をつく大地から白い光が溢れ出す。そして、渦のように柔らかく舞う光たちに包まれた彼女の両肩に、白の王獣が両の手を置いた。

「祈り 願い 呪い 嘆き 奇跡を満たす強き陽射しよ 奇跡を運ぶ柔らかな月光よ すべての命を御するただ一人の名において 彼の者の歩むその先を遮らせたまえ」

 詠唱を重ねるごとに、王獣の身体が溶けるようにしてほどけていく。そして、ほどけた粒子たちは、まるで王と一体化するように、王の身体に吸い込まれていった。

「……主よ、どうかこの大罪をお赦しください」

 そう頭を垂れたのは、果たして王だったのか王獣だったのか。

 詠唱を終えた彼女が、顔を空へと持ち上げ、その目を開く。

「――“私はその未来を否定するレ・シェルファス”」

 涼やかな陽光にも暖かな月光にも似た音を奏でて、溢れた光が赤の王を包み込む。突然の輝きに驚くライデンが見守るなか、きらきらと輝く粒子たちが赤の王に触れると、まるで時間が遡るようにして、骨や肉、臓器が再生されていった。

 だが、黄の王の見込み通り、これは時遡じそ魔法ではない。それよりもずっと禁忌に近い、理性と倫理で封じられた魔法だ。

 この魔法の存在は、白の王と黒の王しか知らない。たとえ何かで知る機会があったとしても、二人の王の記憶にしか残らない。王となった瞬間に知識として刷り込まれ、王を退いた瞬間に記憶から脱落する。そうやって、この禁忌の魔法は守られてきた。だから、かつてこの魔法が使われることがあったのかどうかすら、白の王は知らない。

 肉体の再生に伴い、赤の王の呼吸が落ち着いていく。更に、再生した肉の内側では失われた血液が取り戻されはじめ、そしてとうとう、彼は一部の欠損もない元の姿になった。

 そう、回復魔法とは、自己治癒力を高める魔法でもなく、時を遡る魔法でもない。


 生を損なうあらゆる事象を、否定する魔法である。


 故に、対象が死んでさえいなければ、理論上は回復魔法による治癒は万能であり、治せぬ傷や病気は存在しない。ただし、回復魔法を扱える人間は少なく、肉体の欠損を否定できるほどの高度な魔法となると、使えるのはほんの一握りの魔法師のみだ。更に、事象の否定の際に支払う魔力量は他の魔法とは比較にならないほど多く、いかに白の王と言えど、物理的に失った身体の一部を復元するのが関の山である。

 故に、たとえ回復魔法の使用者として最高峰である白の国の王の手を以てしても、赤の王のような死の間際にある生き物を救うことはできない。そして、回復魔法の原理を知っている者も知らない者も、それが回復魔法の限界であり、生き物の理であると理解している。

 だが、その理を踏み越える魔法が、たったひとつだけ存在するのだ。そしてその存在を、白の王と黒の王だけが知っている。

 徐々に光が消えていく様を見つめながら、白の王が小さく息を吐いた。

 魔法を発動するために支払うのは、いつだって魔力である。だが、この魔法は違う。理を越えることでしか成せないこの魔法による奇跡を呼ぶためには、魔力程度では到底足り得ない。

 死んでさえいなければ、対象がどんな状態であろうとも、必ず完治させる。そんな魔法に求められるのは、それに見合うだけの代償だ。

(……そう。生を繋ぐためには、同じ生を差し出すしかありません)

 胸の内で、白の王が呟く。その重みに、彼女はぎゅっと唇を噛み締め、空を仰いだ。

 喪われる命を繋ぎ止めるために、魔力に加えて彼女が支払った代償。それは、輪廻の流れに揺蕩うはずだった魂だ。

 黒と白は表裏一体。黒の王が殺し、生を否定した魂は、黒の王獣へと蓄積され、白の王獣へと繋がる。そうしてずっと保存されてきた魂を、代償として差し出したのだ。

 一人を救うために犠牲になった魂の数は、白の王には判らない。けれど、これだけの傷を癒す力となれば、恐らく十数のそれでは済まなかっただろう。

 だが、それを知ることができるのは黒の王だけで、そして彼はきっと教えてはくれない。そうやって、白と黒が半分ずつ罪を背負うことで、この魔法は成り立っている。

 白の王が見つめる先で、赤の王を覆っていた光が消え去る。同時に、白の王の身体から光とは別の粒子が溢れて流れだし、集まったそれらは再び王獣の形を取った。

 多大なる魔力を消耗することにはなったが、これで大きな転機は越えた。あとは、恐らく神性魔法を発動させたのだろう橙の王の状態を確認し、中央部隊と合流するだけである。

 失った手足も、耳も、腹も、何もかもが元の通りになり、意識はないものの呼吸も顔色も安定した赤の王の姿を見て、白の王は背後に佇む王獣を振り返った。

 王の視線に、だが王獣は何も言わない。赦しを与えない代わりに、責めることもしない。表情の変わらぬ四つの顔は、ただその罪に寄り添っている。

 そんな獣を見つめ、王は顔を歪めた。

(…………なんて罪深い)

 忌憚すべきその魔法は、決して使われることがあってはならない魔法だ。忘れ去られるべき禁忌そのものだ。

 だが、それが神の意思ならば、彼女はその罪を背負おう。命を救い、命を屠るものとして、その罪科と向き合おう。

 尊ぶべきと定められた生を救うべく消滅していった魂たちを想い、白の王が再び目を閉じる。そして紡がれた祈りは、乾いた空気に溶けていった。

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