かなしい蝶と煌炎の獅子4 〜伝説の最果てで蝶が舞う〜
倉橋玲
プロローグ
赤の国、グランデル王国の一室。国王専用の特別医務室では、ベッドに横たわる赤の王と、彼を見下ろす宰相レクシリアの姿があった。
赤の王が倒れた直後、黄の王はすぐさま王獣を使い、赤の王の身をグランデルまで運び出した。さすがに意識不明の他国の王を、そのまま黄の国に置いておくわけにはいかないと判断してのことである。
無論、赤の王の昏睡の原因がウロから受けた傷によるものならば、このような対応にはならなかった。黄の国内で即座に治療体制を整えただろう。だが驚いたことに、赤の王の身体には傷らしい傷が存在しなかった。確かにウロの手は赤の王の胸を深々と貫いていたというのに、その痕跡の欠片すらなかったのだ。
目立った怪我がある訳ではない。毒や呪いの類による内側からの浸食も見受けられない。それなのに、どんなに覚醒を促しても、決して目覚めることがない。
そんな赤の王の症状に、黄の王の判断は迅速だった。これは自国の医療で解決できる事態ではないと判断した彼は、赤の王の身柄をグランデル王国へと搬送し、同時に集中治療に当たるようにと白の国へ伝令を出した。
(……白じゃなくて
そして同時に、そこまで絶望的なんだな、とレクシリアは思う。
黄の国からならば、赤よりも白の国の方が近い。もし赤の王を治療する手立てがあるのならば、円卓の王たるクラリオ王は、間違いなく赤の王を白の国へ送っていただろう。だが、彼はそうしなかった。それはつまり、白に送ったところで赤の王を治療することはできない可能性が高い、という判断が下されたことを意味している。
(正しく、同時に慈悲に溢れた判断だ。王の遺体を他国に放置することを喜ぶ民など、少なくともうちにはいない。そして、主人の死体を前に取り乱す愚昧な臣下も、うちにはいない)
ロステアール・クレウ・グランダは死んではいない。ただ眠っているだけだ。だが、王としては遺体だ。国家の危機に何の指示も下せない王など、死んだも同然である。
一度瞬いたレクシリアは、視線を手元に落とした。
レクシリアの両手には、赤を基調とした飾り箱が抱えられている。細かな装飾が施された、重厚な箱だ。だが、レクシリアにはそれを開けることができない。この箱は特殊な構造をしており、鍵穴の存在しない錠で厳重に封印されているのだ。
少しの間箱を見つめていたレクシリアは、眠り続ける王へと視線を移した。
国とは民そのものであり、唯一民でない王はその定義から外れるのだ、と。故に、王がなくても国は在り続けるのだ、と。幼馴染であるこの王は、そう言った。レクシリアも、その考えを理解し、正答であると思っている。だが、民が国ならば、王とはまさに太陽だ。陽の光なくして、果たして人は生きられるのだろうか。
「……何よりも優先されるべきは国民だと、お前なら迷いなくそう言うんだろうな、ロスト」
目覚めぬ友人を前に、レクシリアはぽつりと呟く。
「お前は感情を発露することができないから、いつだって俯瞰した立ち位置で物事を判断できる。だから、お前が今までやってきたことには、一分の無駄さえない筈だ」
王は何の言葉も返さない。それでも、レクシリアは言葉を止めなかった。
「知っているさ。俺は誰よりもお前のことを見てきた。感情が欠落しているせいで忌避されてきたお前も、立ち回りの仕方を覚えた途端に味方を増やしていったお前も。全部、誰よりも近くで見続けてきた。少しでもお前に近づければと、少しでもお前の力になれればと、自分の右腕だと言ってくれるお前に応えられればと。そう思って、ここまで研鑽を積んできた」
唇から零れる言葉たちは、驚くほどに起伏がない。レクシリアの声は、感情が籠っていないような、それでいて溢れ出すものを抑え込むような、不思議な音を奏でていた。
「…………お前が、」
そこで言い淀んだ彼は、初めて僅かに表情を崩した。
「……お前が、俺のことを右腕だなんて欠片も思っていないことも、親友だと思っていないことも、全部、知ってるのにな」
ロステアール・クレウ・グランダには感情がない。だから、彼が発する言葉は全てが空虚だ。
「俺がいなくたってお前は平気だ。微塵も困らないだろう。だから俺は、お前の右腕にはなれない。お前は、お前一人で完璧な王だ」
人の心を持たない孤独な王の本質を、レクシリアだけが知っていた。王が心から愛するあの少年が現れるまで、それはもうずっと長いこと、レクシリアだけが抱えていた秘密だった。
そんなレクシリアだから、判ることがある。ロステアール・クレウ・グランダは感情を持たないからこそ、最高にして最良の王足り得たのだ。ならば、彼の行動には全て意味がある。本当の意味では遊び心すらも持たないこの男が、無駄なことをする筈がない。ロステアールが行ってきた友達ごっこも、信頼ごっこも、全てが必要なものであり、彼が王として在るための術だった筈だ。
レクシリアは例外にはなれない。それは、この偉大な王が初めて恋をしたあの少年にだけ与えられた栄誉だ。そしてその栄誉は、レクシリアが求めるものとは全く違う。だから、レクシリアは求めない。いや、求めることはとうに止めた。彼がこの王に求めて得られたものなど、何ひとつなかったのだから。
だが、それが一方的なものだと判っていて、それでもレクシリアは自分の感情を疑おうとはしなかった。レクシリアだけはずっと、ロステアール・クレウ・グランダのことを心から親友だと思っていた。
「俺のお前への絶対的な信頼すら、お前に仕組まれたものだったとしても、……それでもお前は、俺の親友だ」
迷いのない目でそう言ったレクシリアが、ベッドの傍にある机の上に、抱えていた箱を置く。そこで一呼吸した彼は、次いで部屋の窓を大きく開け放った。
「グレン!」
名を叫べば、空から鮮やかな炎の王獣が駆けてくる。レクシリアの呼び声に
「開けろ。お前の仕事だ」
敬意の一切を排した声に、王獣はレクシリアを見つめ続ける。だが、レクシリアが決して目を逸らそうとしないことが判ると、王獣は一度だけ目を伏せた。それを合図に、箱がひとりでに、かちゃりと音を立てて開く。
そこに収まっていたのは、炎でできた王冠だった。金属と宝石でできた儀礼用の王冠とは全く違う、炎のみで形作られたこの王冠は、王位継承の際にのみ用いられる特別なものだ。普段はこの特殊な箱に封印され、王獣の意思がなければその箱を開けることすらできない。
レクシリアは、そんな炎の王冠に手を伸ばして無造作に掴み上げた。
「どうせこいつは、最初からここまで考えてたんだ。こういう形でその時が訪れると思ってたかどうかまでは知らねぇけど、概ね想定通りなんだろうよ。だから、ようは順番の問題なんだろうな。この順番の方が、俺にとってはより正解だった。そりゃそうだ。こいつはくすんだ赤だが、俺は赤ですらない」
レクシリアの右手が、王冠を握りしめる。握りしめた炎は、暖かくも冷たくも感じられた。
「ロストの行動に無駄はない。あいつは俺を右腕だと言い、親友だと言った。なら俺は、あいつの右腕として、親友として、最も正しい判断をする」
そう言ったレクシリアが、しかしそこでふっと表情を緩め、少しだけおどけるように王獣に笑いかけた。
「でも、ちょっとくらい意趣返ししたって罰は当たらねぇよな?」
そんな彼に、王獣はやはり何も言わない。だがレクシリアには、王獣の目が慈しむような光を映したような気がした。
それに目を細めたレクシリアが、一呼吸の後、握った王冠を頭に被る。そして彼は王獣を見つめ、高らかに宣言した。
「我が名はレクシリア・グラ・ロンター! 第一位の王位継承権を以て、王位を簒奪する者なり!」
瞬間、頭上の王冠が大きく炎を噴き上げた。そのまま見る見るうちに己を包み込んだ炎の内側で、レクシリアが叫ぶ。
「俺を認めろグレン! 今この瞬間より、俺がグランデル王国の国王だ!」
簒奪者たる男の叫びに、王獣は炎を躍らせて咆哮した。
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