第二十話 夏妃の素顔



 蔵書部屋に戻ってきた花音を見て、範麗耀はんれいよう理杏りあんは幽鬼でも見たような顔をした。


「あ、あら白司書、別室の本はあったのかしら?」

「申し訳ございません!」


 花音は膝に付くくらい頭を下げた。


「お恥ずかしい話なんですが……理杏さんが場所を教えてくれたのに、あたし、その……迷ってしまったようで、あの、本の部屋ではなく、夏妃様の私室の周辺に行ってしまったようで」


 範麗耀と理杏が視線を交わし合ったが、花音は気付かない。


「それで、結局、見つけられなかったんです。本の部屋」

 本当に申し訳ございません、と花音はひたすら頭を下げる。


「も、もういいわよっ、べつにっ」

 そう言ったきり、範麗耀は自分の仕事に戻っていった。


「あの……?」

「麗耀様がいいって言ってるから。もうこの件は忘れて」

「は、はあ」


 いいんだろうか、さらにたくさんの本があれば、夏妃様の心も動くかもしれないのに。

 気になりながらも、花音は選書に入る。


 整理された本を見ながら、花音はふと、夏妃の部屋に転がっていた人形たちを思い出した。

(人形の写し絵がたくさん載っている美術書があったような……)

 すでに分類した棚にそれはあった。古から現在まで、人形の形の変遷にについて書かれた冊子、龍昇国とその周辺四国の美しい人形が描かれた巻子が三巻。


(紅は、夏妃様は本を読まないだろうと予想していたわ。絵だったら見るかもしれない。人形もあんなにお好きなら、少しは目を向けてくださるかしら)


 皇子殿下との話題に人形の話というのもいささか幼い気もするが、人形の変遷の歴史や周辺諸国の文化の一つとして話題にするなら、じゅうぶん教養あるネタになる。


(藍悠様も紅も、夏妃様の御年齢も考慮して話を合わせてくれると思うし)

 それらを持って、花音は大広間へ向かった。







 花音が行くと、大広間には誰もいなかった。

(そりゃそうよね、さっき尚玲様も私室の方にいたんだもの)


 それにしても、と花音は思う。


「夏妃様も一緒に戻られたのかしら……?」

 さっきは慌てていたので尚玲しか確認できなかったが、ここにいらっしゃらないということは夏妃も尚玲と一緒だったのだろう。


「ここで待ってればいいのに、なんでかしら」


 花音だったら、芍薬や薔薇の咲き誇るこの気持ちのいい庭院にわを眺めながら待っているだろう。

 しかしそれは花音のこと、上流階級の姫は一人で部屋にいたりしないのかも、などと思っていると、数人の衣擦れの音がしたので花音はあわてて床に平伏する。


「面を上げよ」


 おそるおそる顔を上げる。夏妃はやはり、尚玲と共にやってきた。

 その美しいかんばせを見て、花音は思わず眉をひそめる。

 いつにも増して夏妃はぼんやりしている。目の焦点が合っていない。


(お体の具合が悪いのかしら)

 花音が密かに心配したとき、尚玲の硬い声が問うた。


「白司書、そなた、行ってはいけないと申した奥の回廊へ行ったのか?」

(ま、まずいわ)


 冷や汗が出るが、行ってしまったものは仕方がない。


「も、申しわけございません」

 本のことを言えば理杏や範次官も叱責される。花音はとっさに言った。


「その……厠へ行こうとして迷ってしまいました」


 一瞬沈黙があったが、すぐに尚玲が言った。


「正直でよろしい。だが、以後気を付けてもらいたい。厠の場所がわからぬなら、侍女に共を頼んでもよい。決して奥へは行かぬように」

「は、はい」

「して、今日の本はいかがか」

「あ、あのこちらに」


 花音は用意してきた本を差し出した。


「こ、これは……!」

 それらを侍女から受け取った途端、尚玲の顔色が変わった。




 刹那、夏妃の大きな黒曜石のような双眸に生の光がともった。

 そして――素早く尚玲の手から冊子と巻子が奪われた。




「華憐様!」

 巻子かんすひもが解けて床に大きく美しい人形の絵が広がる。それを見て、夏妃が幼子おさなごのような歓声を上げた。


「かわいい! 華憐のおにんぎょう!」


 その貴妃らしく着飾った姿からは想像もつかないほど、夏妃は巻子を布のように大きく広げる。その姿は無邪気な女童のようだ。


「夏妃様、いけません、巻子が破けてしまいます」

 侍女たちがあわてて巻子を巻き取ろうとするが、夏妃は無邪気に笑って巻子を次々に広げていく。

 そして、唖然と見ていた花音に、夏妃は冊子を広げて言った。


「ねえ、これはなんて書いてあるの?」



 それは描かれた人形の横に書かれた簡単な解説で、読み書きを習いたてのこどもでも読める程度の文章だ。



「夏妃様……」

「ねえ、読んで?」


 それはまるで、幼子が知らないことを大人に無邪気に聞くようで。

 大きな瞳には、純粋な好奇心がきらきらと輝いていた。


(――そうか、そういうことなのね)


 花音は、夏妃の後ろに立っていた尚玲を見上げた。


「尚玲様。夏妃様は、字がお読みになれないのでは?」



 夏妃は、本や勉学が嫌いなのではない。

 字が読めないから、読書や勉学が苦痛なのかもしれない。


(だったら夏妃様が苦痛でない方法で本に親しんでもらえればいいのよ。そうしたら、本を見てくださるかもしれない)


 そう思った花音は、続けて尚玲に言った。


「それでしたら、他の方法を考えて――」

「ええい、無礼者!!」


 尚玲の鋭い声に、花音は思わずびくっと言葉を飲み込んだ。


「畏れ多くも貴妃たる夏妃様に字が読めないと申すとは、なんたる侮辱!!」

「も、申し訳ございません。そんなつもりでは」

「黙れ!もうよい!下がれ!!」


 尚玲は立ち上がって花音を睨み下ろし、凄味の効いた低い声で言った。

「よいか。今ここで見たこと聞いたことは、一切口外はならぬ。わかったか」

「は、はい!」

 花音は訳がわからず、とりあえず勢いに呑まれて頷く。

「決して誰にも言わぬと誓え。さすれば、死罪にあたいする夏妃様への侮辱も聞かなったことにしてやろう。よいな?」

「は、はい。仰せの通りに」

「そなたは今、何も見なかったし聞かなかった。わかったな? 後宮で生きていきたければ、言われた通りにいたせ」


 耳元で呪言のごとく囁かれ、恐ろしさで花音は平伏した。



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