第十八話 罠と救いの手


 理杏に言われたとおり、理杏と別れた回廊を真っすぐ進んで、突きあたったらそこをまた右へ進んで、花音は誰もいない回廊を進んでいた。


「本当にこっちでよかったかな……?」

 理杏の説明を聞き間違えただろうか。


 行けども行けども、誰にも会わない。

清秋せいしゅう殿で迷子になったことを思い出しちゃうんだけど」

 磨き抜かれた広い回廊。続く庭院には大輪の芍薬とクチナシが見事に咲いている、同じ風景。どこをどう歩いたかわからなくなる、この感じ。

「同じじゃん……」


 ということは、迷子決定か。

 とたんに心細くなるが、ぐっと手を握りしめる。


「ここでくじけるわけにはいかないわ! まだ大量の本がこの辺りのどこかの部屋にあるはずなんだから!」


 夏妃がまだ見ていない、興味を持つかもしれない本がまだあるなら、それを処分させるわけにはいかない。


「それに、その本も華月堂の蔵書に加えていいなら、とっても幸運だし!「」


 本のためなら迷子もなんのその。

 花音は永遠に続くかと思われる回廊をひたすら進み――ついに部屋の扉が並ぶ場所に出てきた。


 薔薇の意匠の施された扉が三つ並んでいる。


「あれ……? なんか、清秋殿でも同じような場所を見たことがあるような……」


 清秋殿は銀杏の意匠だったが、今花音が目の前にしている扉と同じく、大きくて重厚な扉が三つ、並んでいた。

 そしてそこは、秋妃の私的区域だった。


「えっ、もしかしてここ、夏妃様の私室のある場所?!」

 それはまずい。

 誰かに見つかったら怒られること間違いなしだ。


「やだあたし、理杏さんが教えてくれたのにやっぱり道間違えたのかも……」

 普段はひた隠し、そ知らぬフリをしているが、こういう状況になると自分の方向音痴っぷりに泣きたくなる。


「だけど、もしかしたらこの扉のどこかが蔵書部屋なのかもしれないし」


 ここまで来て部屋の中を確認しないのも悔しい。

 迷った挙句、花音は端の扉を開けようとして――後ろから肩をつかまれた。




「白司書が?」

 尚玲が眉をひそめた。

「確かではございませんが、理杏が見かけたと申しております」

 範麗耀は傍らの理杏をちら、と振り返る。

「白司書が先ほど、尚玲様が禁じられた奥の回廊の先へ行くのを、確かに見ました」


 理杏が拱手して述べるのを尚玲はじっと聞いていたが、すぐにキッと顔を上げた。


「範次官、理杏殿、申しわけないが、席を外させていただく。少しお待ちを」

「ええ、あたくしはかまいませんわ」


 尚玲は侍女たちと夏妃を伴い、急ぎ足で退室していった。

 その後ろ姿を見送って、範麗耀は密かにほくそ笑んだ。





(ま、まずいかも!)

 と思ったときには遅かった。

 肩をつかまれ、強く身体を引かれ、花音は逃げる間もなかった。


 しかし。


「ここで何をしている?」


 問うてきたのは、長身の宦官。

――ではなかった。


「紅?!」

「やっぱり花音だ」

 整った顔がほころんだ。

「この前は馬來糕マーラーカオ、ごちそうさま」


 あの日の夜のことを思い出すと気まずいが、紅に会えたことで胸が高鳴り、思わず顔がゆるむ。なぜか恥ずかしくて、花音は顔を背けた。


「ど、どういたしまして」

「怒ってるのか?」


(紅こそ……もう怒ってないのかな)

 そう思った刹那、紅の顔がすぐ近くに覗きこんできた。


「おまえの夜食、食べ過ぎて悪かったな」

「そ、そんなことべつにいいからっ」

(近いっ、離れてほしい……)

 心臓の音が紅に聞こえてしまわないだろうか。花音は思わず後じさる。

「怒るなよ。知らなかったんだ」


 紅が花音の手首をつかんで引き寄せた。


「な、なにを……」

「おまえが、大食いだってこと」

 紅の双眸が意地悪く細められている。


「大食いじゃないわよっ!!」


 花音は思いきり紅の手を振り払う。楽しそうに紅は笑った。


「ていうか! あなたここで何してるの?!」

「……前にもこんなことがあったな」


 紫瞳が悪戯っぽく笑む。


「また厠に行って迷ったのか?」

「ち、ちがうわよ!」


 清秋殿ではお茶会が露台だったから冷えて、厠に行きたくなり、そして帰り道がわからなくなり迷った。そして、ばったり宦官姿の紅に会った。

 そして、爽夏殿に忍びこむハメになった。

 あのとき紅は、呪具をさがしていたっけ……。


「ってまさか今回も呪具を探してるの??」

「いや、今回は――」

 紅は言って、回廊の向こうに目をすがめた。話し声が聞こえる。やがて数人の集団の姿が回廊の角から現れた。

 その先頭の人影に花音はぎょっとする。


「尚玲様だ!」

 すると紅が花音の手を引いた。

「来い」

「えっ、ちょっと」


 紅は花音の手を引いたまま、一番奥の扉にすばやく身を滑り込ませた。


「ここって……」


 甘い、花の匂いの香が焚かれた部屋。窓から下がる布帛も、ゆったりとした紗の帳にも、ふんだんに飾り布が使われている。貴妃というより姫の寝室といった趣の、見覚えのある部屋。


「夏妃様の寝室じゃない!」

「おまえ、まさかとは思ったが……ここが夏妃の寝室だってこと覚えてなくて偶然にここにいたのか?」

「当たり前でしょ! 覚えてたら来てないわよ!」

「てことは、やっぱり迷ってたのか。相変わらずの方向音痴だな」

「う、うるさいわねっ、あたしは――」

 本を探して、という言葉を花音は飲みこんだ。



 部屋の中央に、何かがたくさん転がっている。

「な、何あれ」



 思わずそっと近付くと、それはたくさんの人形だった。



 何体もの人形や人形道具が、小さいこどもが遊んだ後のように雑然と広い床に散らかっている。


「あの時は不意を突かれて回廊から脱出したが、この部屋の奥から裏庭院うらにわへ抜けられるんだ。行くぞ」

 紅は部屋を横切り、続きになっている小部屋から外へ出た。







「誰かいるのか!」

 尚玲は夏妃の寝室の扉を大きく開けた。

 人の気配がしたような気がしたのだ。


 夏妃の好きな香の匂い。整えられた部屋には誰もいない。


「……これらのせいかのう」


 整った部屋に違和感をかもしだす、出しっぱなしの人形たちを見下ろして、尚玲は溜息をついた。

 今朝、夏妃が遊んでいたものだ。

「あっ、いけません夏妃様!」

 そのとき侍女の声とともに、夏妃が部屋へ入ってきた。

「何をしているそなたら! 華憐様を部屋へ入れてはならぬと言うたであろう!」

「も、申しわけございません!」

 そうこうしている間にも夏妃は大喜びで人形に駆け寄ってきた。

「いかん、大広間へ戻らねばならぬのに……ええい、薬じゃ! 薬を持て!」


 ばたばたと慌ただしく動く侍女たちは、裏庭院うらにわを駆け抜ける二つの影にはまったく気付かなかった。





 新緑の木々が奥までずっと続く裏庭院には、人影がない。 

 しばらく小走りに駆け抜けると、紅は速度をゆるめて花音と並んで歩き出した。


「ここまでくれば大丈夫だ」

「あ、ありがとう」


 迷ったとはいえ、貴妃の私室の近くをうろうろしているのを見つかるのはまずい。今回も、紅に偶然会ったことで図らずも助かった。


「見たか? さっきの」

 何を、と問うまでもない。あの人形のことだろう。

「あれって……夏妃様の玩具おもちゃかしら」

「まあ、そうだろうな。夏妃はどうやら、人形遊びが好きなようだ。一つ話題ができたな?」


 花音は横を歩く紅を見上げた。


「話題って」

「夏妃に予習用の本を探せとでも言われているんだろう? 七夕の宴での話題作りのために」


 花音はどきりとする。


「な、なんでそのことを」

「おまえがややこしい言い方するから」




 紅はちょっと花音を睨んで、そっと花音と手をつないだ。


「最初からちゃんと言えよ。頼るなら正面から頼れ。まったく」


 ぶつぶつ言うが、花音の手を握る手は優しくて、その温かさにまたもや心臓が高鳴ってしまう。




「だって……」

「で、見つかったのか? 本」


 花音は首を振った。


「だろうな」

「夏妃様はたくさん本をお持ちだけど、あまり目を通されたことがないみたいで。その蔵書の中から夏妃様が興味を持てる本を選んでほしいって言われたのだけど……」

「夏妃は、本を見るか?」

「えっ」

「見ないんじゃないか?」

 花音は紅を見上げた。

「なんでそのことを知ってるの?」

「知っているというか、予想しているというか。そのことを調べに来ていたんだ、オレは」

「調べる、って」

「花音が押しつけられた面倒事の核心部分をな」

「面倒事って……やっぱり気のせいじゃなかったんだ……」


 最初から自分などにお鉢が回ってきたことが不思議だったが、やはりこの件には裏があるようだ。


「尚玲様が、夏妃様は勉学が嫌いとおっしゃっていたけど、それだけじゃない気がするの。夏妃様の御様子も、本とか勉学が嫌い、っていうのとも少し違うような気がして」

「さすが花音。よく見てるな」

 紅が花音の頭にいい子いい子、とするようにぽんぽんと手を乗せた。

「ちゃんとわかったら花音にも報告するから」

「う、ん……」

(やだな、あたしなんでこんなにドキドキしてるんだろう)


 ふいに、紅が立ち止まった。


「ここから右に折れて真っすぐいけば蔵書部屋のある棟がある。真っ直ぐにしか行けないから、迷わないと思うが大丈夫か? 宦官のフリして付いていこうか?」

 半ば冗談、半ば本気で心配している紅を花音は睨む。

「迷いませんてばっ。失礼ねっ」

「そうか? なんせ一度来た場所で迷子になっているから――」

「うるさいっ」


 花音は怒って踵を返す。背中からくすくす笑い声が追ってきた。

「そっちは左だぞ。蔵書部屋へは右に真っすぐ」

「もうバカバカっ、紅の意地悪っ!!!」


 いろんな意味で恥ずかしくて、花音は振り返らずに走った。













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