落日の嵯峨野 第3話

「ひっ!」

 思わず小さな悲鳴が口からこぼれ、掴まれた腕を振り払おうとしたがビクともしない。それよりも余計強く引かれ、焦った男の声がかけられる。

「こっちへ、早く!」

 有無を言わさない声音と力で引き摺られるように壊れた玄関の中へ引き込まれた。背後では唸り声と金属が何かにぶつかる甲高い音が聞こえる。

「放して!」

 那智は再度力一杯腕を振り払おうとしたが離れない。事態を把握するよりもここから離れることを優先した頭ではうまく状況を認識できなかった。なんとか腕を掴む手を引き剥がそうと自由なもう片方の手で掴もうとした時だ。

 ふと、掴まれた右腕から手が離れたかと思えば、胸倉を掴まれぐいっと引き寄せられた。間近に迫った深い蒼色の瞳と視線が絡み合う。思わず息を呑むと、相手は少し苛立った口調で言った。

「死にたくなかったらついて来い」

 呆気に取られていると、男は再度那智の右腕を掴み、母屋に上がり奥を目指して足早に廊下を進んだ。床板の軋む音が時折盛大に響き、那智は男が踏んだ板を避けながらなんとか後をついていった。

 何度か廊下を曲がり、障子が開け放たれたままの部屋に連れ込まれると、男は後ろ手で障子を閉じて深い息を吐いた。

 那智はすぐさま男から距離を取り、警戒するように身構えた。

 男と思っていたが、外見の年齢は二十代前半ぐらいの青年だった。汚れた小豆色の着物を着、裾がほつれ破けた黒の羽織を羽織っている。黒髪には銀色と紅が所々混じっており、目元には朱で化粧を施している。パッチリとした目が印象的で愛らしいが、蒼い双眸は力強く、幼さを感じさせない力があった。風体的に人ではない感じがし、那智はできるだけ青年から距離を取った。

「あなたは何? あの化け物の仲間?」

 青年は疲れた様子で障子に凭れるように座ると、小さく笑った。

「化け物、ではあるかな。ただ、あれの仲間じゃない」

 きっぱりと青年は言い切ると、不思議そうに那智を見た。

「貴女こそどうやってこの屋敷の敷地に入ったんですか? ここは封鎖されて侵入できないようにしていたのに、突然気配が増えてさすがに焦りました」

 しかも丸腰の一般人だ、と困り気味に青年は言葉を続けた。

 その様子に那智は顔を顰めた。まるでこちらが何かしでかしたような物言いに、若干腹が立った。こっちは明らかに巻き込まれたのに迷惑がられても困る。那智はむっとした口調で言った。

「それはこっちが聞きたいんだけど。大覚寺の門を潜ったらここにいたんだから」

 青年は那智の言葉に意外そうに目を瞬いた。

「大覚寺? あそこは近所ですが、ここと繋がるような道はなかったはず。門が開いた感じもしないとなると、別の何かが影響したのか……」

 ぶつぶつと一人で考え始めた青年に、那智は腕組みをして見下ろした。

「考える前に私をここから出してもらえないかな。帰りたいんだけど」

「えっと……、残念ですが無理です」

「なんで?」

「外の術士がこの敷地からあの化け物が外に出ないように結界を張っているので、出られません」

 その返答に、那智は頭を抱え盛大にため息を吐いた。

「つまり、私は原因不明でここに迷い込んで、どっかの術士の結界で外に出られないってこと」

「理解が早いですね」

 感心した様子で青年は言うと、首を傾げた。

「あまり取り乱した様子でもないですし、術士か怪異に会ったことがあるんですか?」

「……身内に術士いるだけ」

 自分の物言いに失敗した、と那智は内心で嘆息した。

 怪異と呼ばれる害をなす化け物が存在し、それを討伐する術士がいる、と言うことは知っている。だが、具体的なことはあまり知らないし、知る機会も多くはなかった。もっとも、人ではないものを子ども頃から見えているが、実害を受けた数は少ない。

 青年はなるほど、と一つ頷くと微笑を浮かべた。

「外の術士も異常が起きたことは気づいているだろうから、迎えが来るまでここで待っていていいですよ」

 じっと那智は青年を見詰め、言葉の真意を探った。助けてくれたことも、迎えが来るまでここにいるように勧めたのも善意だろう。

 だが、安全な場所を確保できたと安堵できるほど物事を単純に考えられなかった。

「外の化け物をどうにかしないと、私は帰れないんじゃないの?」

「何故?」

「術士はここから化け物が外に出ないために結界を張った。術士にとってあれはそれなりの脅威で対処に困ってるから閉じ込めてるんじゃないの? 結界を解いた隙に外に出られたら不味いし、助けるにしても化け物の存在が邪魔する。そうなると、脅威を取り除いて双方の安全を確保するのが妥当じゃない」

 青年は驚いた表情を浮かべたが、すぐに感心した様子で那智を見て先を促した。

「それで?」

「あの化け物は何? 私が知ってる怪異とは違う。初めて見る」

 那智が知っている怪異は黒い靄だったり影が起き上がったような存在だ。人の肉体を持ったり、はっきりとした実体を保ったものに遭遇したことがなかった。

 那智の言葉に青年は、どこか物悲しげな表情を浮かべて言った。

「彼は太刀の付喪神でした。もう一方は、侵入してきた能面の式神です。両者とも今では一つの怪異になってしまいましたが、元は物に宿る化生の存在です」

「そう言う存在を、術士はどう対処するの?」

「本体を破壊するか封印します。ほとんどが破壊です」

「破壊……」

 那智は顔を曇らせた。

 単純な方法だが一番難しい。あの手の化け物––怪異の本体は簡単には壊せないだろう。壊せていたら、封じ込める必要はない。

「貴女には無理ですから、大人しく迎えが来るまで待っていてください」

「……そうする」

 言って、那智は部屋の隅に移動して腰を下ろした。

 青年が言うように、那智には怪異と戦う術を持ち合わせていない。変に首を突っ込んで事態を悪化させるよりも、大人しく救助がくるのを待つのが一番良い方法だ。

 そう頭で理解しているが、那智の胸の中には何かが引っかかりすっきりしなかった。何か見落としているような、取りこぼしているような感じがするのだ。それが何なのか、いくら思い返してもわからず、まるで霧の中に潜む人影を見ているようだ。

 那智はゆっくりと息を吐き、壁に寄りかかった。極度の緊張状態からくる疲れに、体と頭が重い。少し休もうと、ぼんやりと明るい障子を見詰めた。

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