第3話
歳月は流れ、エルは15歳になっていた。
弟のジルも両親とエルの愛情を受けてすくすくと育ち、今では立派に畑仕事を手伝う親孝行な子供に育っていた。
家のことはジルに任せ、エルはセレナから聞いた魔術都市ドリンへ行くための準備を着々と進めていた。
10歳を過ぎる頃には魔力もセレナを上回り、重傷者はエルが受け持つくらいに治癒魔術も覚え、他の属性の魔術も基礎を土台に独自に鍛練を積み、ドリンにあると言うシェルザールといういわゆる魔術学校への進学も視野に入っていた。
もちろんそのためには資金が必要だが、セレナは立派に治療院の仕事をこなすエルを一人前として扱い、治療費から給金をくれるようになっていたので、そのお金をコツコツと貯めてドリンへの進学費に充てるつもりでいた。
シェルザールは魔術師を志す者ならば一度は入ってみたいと思うほど有名らしく、セレナも魔術師を志したときにはシェルザールへの進学を夢見ていたと言う。
しかし、セレナはさほど魔力が伸びず、ドリンへは行ったもののシェルザールに入ることはできず、ドリンにある別の魔術学校へ行って魔術の基礎を学び、2年間学問に明け暮れた後、様々な町や村の治療院を転々として今のこの村に落ち着いたと言うことだった。
セレナからは村の治療院を継いでほしいというオーラをひしひしと感じていたが、すでにセレナの魔力を上回っているエルにシェルザールへの進学は不可能なことではなく、シェルザールのことを聞きたがるエルにセレナも半ば諦め気味に話をしてくれるようになっていた。
セレナから教わったこと、そしてそれを応用して培った魔術。
このふたつをもってすればシェルザールへの進学も夢ではない。
シェルザールでは多種多様な、そして高度な魔術を教わることができるとあって、エルの夢は膨らむ一方だった。
もうこの歳にしてセレナを上回る魔力、構造さえ掴めばいくらでもプログラムの知識が役に立つ魔術、きっとあるはずのチート能力。
三拍子揃っているのだから、シェルザールでもっと腕を磨けば可能性はいくらでも広がっている。
両親にそのことを話すと、最初はさすがに驚かれたが、ジルという孝行息子もいることだし、お金も貯金したお金で何とかなることがわかると「おまえの人生だ。好きにしなさい」とお墨付きをもらった。
これで晴れて16歳になった暁には、ドリンへ行ってシェルザールに入学しさえすれば、夢のオーディオライフとまではいかなくとも、この世界で見つけた生き甲斐である魔術で生活するための序章が始まる。
夢の形は現代日本のときとは違うものになってしまったが、せっかく見つけた生き甲斐を満喫することができるかもしれないのだから希望を持つなと言うほうが無理だ。
チート能力を使って比類なき国一番の魔術師になるもよし。魔術の世界で権力を握って左団扇で生活するもよし。学問が面白ければ研究に没頭するもよし。
シェルザール行きは夢の塊だった。
両親のお墨付きももらえたし、資金面でも問題はない。家のことも弟のジルに任せればいいから、村を出さえすれば自由な生活を謳歌することができる。
しかも元々国が魔術を奨励していることもあって、魔術師を志す者には国から手厚い援助が受けられる。元々貧乏な商家の娘だったセレナがドリンで魔術学校を卒業できたのも、国が資金面で援助してくれたからだと言う。
そうなるとシェルザールに入れるくらいの逸材であるエルは、国にとっても有用な人間ということになる。
異世界に生まれ変わってしまってどうなることかと思ったが、魔術があって、そしてその才能があって、そして前世の知識と経験までもが役に立つとあれば鬼に金棒である。
後1年。
晴れて村を出られる年齢になればすぐさまドリンに向かうことを決意していたエルだったが、ひとつだけ不満があった。
身体が成長しなかったのだ。
身長や体重を測定する道具すらないこの世界では見た目で判断するしかないが、だいたい男なら平均で170センチを少し超えるくらい。女性でも160センチを超える者も少なくない。平均で言うなら女性は155センチ前後と言ったところだろうか。
しかしエルはどう見ても140センチなかった。
エルが12歳、ジルが8歳のときにはもうジルのほうが身長が高かったくらいで、胸だって全く育っていない。髪が長くてスカートを履いていなければ少年ではないかと思えるくらいつるぺたなのだ。
平たく言えば幼児体型。
15歳になった今でもそれは変わらず、治療院では頼りにされる魔術師となっても、見た目は10歳くらいにしか見えないのである。
せめてもっと成長してくれればいいのにと思ってもしないものはどうしようもない。
もしかしたらこの見た目のせいで年相応に見られなくてシェルザールに入学できないかもしれないと思うと、それだけが悩みだった。
セレナはちゃんと推薦状を書いてくれると約束してくれていたので、年齢の証明はしてもらえるだろうが、この見た目では威厳とは無縁な気がする。
だが、まだ15歳なのだ。現代日本では思春期真っ盛り。成長期のまっただ中。
20歳になる頃にはマリアのような立派な大人の女性になっていないとも限らないのである。
そのことだけを希望に日々を送っていたエルだったが、この15歳の年にシェルザール行きを断念せざるを得ない危機に陥ったのである。
春小麦の収穫は例年通りだった。
むしろ豊作と言っていいくらいで、村では「小麦の値段が下がる」と笑い合っていたくらいだった。
しかし夏になってからが酷かった。
元々降雨の少ない気候ではあったが、干魃と言っていいくらい雨が降らなかった。
日照りの日々が続き、秋小麦ができるまでの野菜も育たず、春に収穫した小麦の稼ぎで何とか食いつなぐ。そんな夏になっていた。
エルもセレナも魔術で畑に活力を与えてはいたが、たったふたりの魔術師の魔力では売るほどの野菜が収穫できるようになるわけでもなく、何とか家族が食いつなぐことができる程度の収穫しかなかった。
この干魃が続いて秋小麦が不作となれば、畑仕事のない冬に機織りの稼ぎだけではとてもではないが食べていけない。食料は山に入って狩りや採取で食いつなぐことはできるだろうが、その他の生活必需品を買う稼ぎがない。冬の機織りは小麦ほどの収入をもたらしてくれるわけではないので、来年のことを考えると絶対的に稼ぎが足りない。
そうなると、「じゃぁドリンに行くのでさようなら」と薄情なことは言えない。
いくら生まれ変わったとは言っても育ててくれた両親にそんな不義理をできるはずがない。
そうなるとドリン行きのための蓄えた貯金を放出するしか手はなく、せっかくの新しい夢も諦めざるを得ない。
しかし、生まれ変わったことで叶わなくなった夢の代わりに見つけた新たな夢を手放すのは悔しい。
セレナももう初老を過ぎていい歳だから、また治療院でお金を貯めてシェルザールへ行く、と言う選択肢は採りづらい。都合よくセレナの代わりになるような魔術師が村に来てくれればいいが、そうでなければエルがセレナの後を継いで治療院を経営することになりかねない。
なんとしてもそれは回避したい。
治療院での仕事が嫌だとは言わないが、せっかくあるはずのチート能力をこんな平凡な農村に埋もれさせるのは惜しいし、夢や可能性を潰すのも悔しい。
となるとどうにかして秋小麦の不作を回避したい。
そのためにはとにかく雨に降ってもらわなければどうしようもない。
魔術で天候を操作することはできないかと、それとなくセレナに尋ねてみたことはあったが、そんなことは不可能だと一蹴されてしまった。
確かに天候のような自然現象を操作するなんて誰だって不可能だと思うだろう。
読んだことはないが、おそらくファンタジー系の物語でもそんな大がかりな魔法は壮大な儀式のひとつやふたつやらないとできないだろう。現代日本でも学校で習った限りでは雨乞いをするためにはやはりそれなりの規模の儀式と言うものが必要だったはずだ。
もっと大きな農村にでもなれば神殿のひとつでもあって、そこで神に雨乞いをすることもあるのかもしれないが、この村にそんなものはないから当然いわゆる神官という存在もいない。
神頼みで雨が降るのならばいくらでも協力は惜しまないが、そもそも村にはそういう施設や存在がないのだから個々に雨が降ることを祈るくらいしかできることはない。
となるとエルができることと言えばやはり魔術である。
この世界の人間と違って高校までとは言え、教育を受けてきたエルには自然現象を科学で説明することができる。
簡単に言えば、雲とは空中にある微粒子に水蒸気がくっついて集まったものである。
太陽で熱せられ、水蒸気となった水が空中の微粒子にくっついて集まって雲となり、それが白い雲や雨雲となって空を漂っている。
乱暴な論理だが、空中に水蒸気が多くあれば雲が増え、雨が降る、と言うことになる。
そういう科学で説明できることならば、魔術で説明できないはずがない、と言うのがエルの考えだった。
だが、そんなことを誰に言っても信じてもらえるわけがない。
そもそも雲の成り立ちなんてものを知っている者など村の誰に聞いてもいない。
何故エルだけがそんなことを知っているのかと言えば、前世の記憶があるからだ。
ただでさえ信じられない話に、信じられない話を上乗せしても誰も信じてくれるはずがない。
ならば自分ひとりでやってみなければ始まらない。
そう決めた日からエルの試行錯誤の日々が始まった。
まず最初に問題になったのは元素間の相性である。
土ならば風、火なら水、光なら闇と属性には相性がある。
相性が悪いと魔術がうまく機能しないどころか、暴走する危険性だってある。だから軽々しく相性の悪い魔術を掛け合わせることをしない、と言うのが治癒魔術以外の魔術を教わるときに最初にセレナから教わった魔術の基礎である。
しかし、水蒸気を発生させるには水を熱する必要がある。
ここで相性の問題が出てくる。
火と水の魔術の相性は悪い。
しかし、雲を作り出すほどの水蒸気を魔術で発生させようとすればこの相性問題をどうにかしなければならない。
とりあえず水をどうにかしなければならないと言うことで、村の東を流れる小川の少し上流で試験的に魔術の実験をすることにした。
干魃で水量は少なくなっているがそれでもまだ水はあるほうだし、子供たちが遊ぶのは流れの穏やかな下流のほうだ。ここならば誰にも見られずに魔術の実験を行うことができる。
必要なマナは火と水。
まずは水蒸気を発生させるための魔術から取り掛かることにした。
構成は単純だ。水のマナを集めて小さな水の塊を作り、それに火のマナを掛け合わせて水蒸気を発生させる。幸い水の近くにいるから水のマナは豊富にあるから実験するのには困らない。
早速試しにやってみたものの、やはり小さな水の塊を作ってみても火のマナを加えたところで魔術は失敗してしまった。
しかし、科学的な論理で説明できるものならば、魔術の論理でできないはずがない。
そのことを拠り所に、時間の許す限り水蒸気を発生させる魔術の実験を重ね、何とか小さな水の塊を火のマナで飽和させることまでは成功することができた。
ここで気付いたのが旋律だった。
前々から魔術の練習をするときに思っていたことだったが、例えば火のマナを扱う魔術ならばロックのビートに似ている。詠唱の旋律にロック調のリズムを加えることで効果が上がることはわかっていた。
しかし、水のマナを扱うにはピアノやフルートのソロのような繊細な旋律が必要になっていたのもわかっている。
ロックとピアノソロ。
ほぼ対極に位置するこの旋律を融合させるには何がいいかを、治療院での仕事の合間や家に帰ってからの時間、寝る前などに考えてひとつの案が思い浮かんだ。
それはジャズの旋律である。
ロックほどの激しさはないものの、ジャズには正確なリズム感が必要となってくるし、ピアノトリオならばそのリズムに合わせたピアノの旋律が必要となってくる。
ジャズの旋律ならば相性の悪い火と水のマナを融合する魔術には最適な旋律になるかもしれないと気付いてから、翌日はそれを元に昨日やったことを試してみた。
すると案外あっさりと小さな水の塊は飽和し、水蒸気に変化した。
これならばもっと大がかりな魔術を行う際にもジャズの旋律を使うことで、安定して水蒸気を発生させることができるかもしれない。
その後も時間を見つけては小川に行き、徐々に水を飽和させる量を増やしながら実験を繰り返していたところ、ここしばらく雲ひとつない天気が続いていた天候に少し変化が現れてきた。
さすがに雨雲とまでは行かないまでも、雲が見えるようになってきたのだ。
僅かな進歩だが光明は見えてきた。
やはり科学的に説明できる論理は魔術の論理に応用できる。
ならばもっと大がかりに、水のマナを増やして水蒸気を大量に発生させることができれば、雲は多くなり、水量が多ければそれは雨雲に変わることだろう。
局地的でもいいから畑に水を与えることができれば、秋小麦の不作や夏野菜の収穫量も増えてくる。生活が問題なくなれば貯金をはたいて生活費に充てることもしなくてよくなる。
希望が見えてきたことで俄然やる気が出てきたエルはその後も試行錯誤を重ね、10日ほどが過ぎた。
火と水のマナの相性問題は旋律で解消でき、詠唱の構文もプログラマーとして培った知識を応用することで何とかできた。後は実際に試してみるだけのところまで来たので、今日は時間のあるときではなく、セレナに用事があるからと治療院での仕事を休ませてもらって、まだ水が大量にある川のもっと上流に出掛けることにした。
さすがに上流ともなるとまだ水は豊富にあって水のマナには困らないだろう。もちろん、大気中にも普遍的に各元素のマナは存在しているからそれも集めれば十分な量の水のマナを得ることができる。
火のマナはこの暑い夏にとは思ったものの、大気中のマナだけでは心許ないので焚き火を熾すことにした。周辺から薪になりそうに木切れを拾って集め、魔術で火を熾して焚き火にする。
簡単ではあるがこれでマナの確保はできるだろう。
後はいかに正確に詠唱の旋律を紡ぎ、火と水のマナの相性問題をクリアし、大量の水蒸気を発生させるかにかかっている。
一度深呼吸をして頭にジャズの旋律を思い浮かべる。
足先でリズムを取り、ピアノの旋律を脳裏に描いて詠唱を始める。
「大いなる生命を司り、命の糧を与える水のマナよ、朗々たる旋律をもって汝の姿を変えん……」
ここからはいくつものアンド構文を繋げて水のマナをとにかく自分が扱える最大量確保する。
「荒々しく猛り、獰猛なる火のマナよ、紅の旋律をもって汝の力を解放せん……」
実験を繰り返して組み上げた構文を口に乗せ、長い旋律を紡いでいく。
すると川の水は渦を巻き始め、焚き火はその勢いを増してくる。
夏の暑さと焚き火で全身がすぐにびしょ濡れになるほど汗が噴き出てきたが、今はそんなことに構っていられない。雨雲を発生させるほどの水蒸気を魔術で生成しようとしているのだから、旋律を間違えるわけにもいかないし、構文を間違えるわけにもいかない。
エルを中心に風が渦巻き、砂塵が舞い上がってくる。
強力な魔術の副作用として他の属性のマナが荒れ狂っているのだ。
それに怯むことなく、魔術に集中しなければ失敗する。精神を研ぎ澄ませ、詠唱を続けること約20分ほど。組み上げた構文は完成し、旋律も間違えなかった。
周囲には現代日本の夏のように蒸し暑さが充満していて、水蒸気は確かに発生しているようには思えた。
しかし空を見上げても、微かに浮かぶ白い雲があるだけで雨雲らしい黒い雲はひとつもない。
相性の悪い火と水のマナの問題を解決し、雲の発生に必要な水蒸気は確保できた。
それでも天候を左右するほどの魔術にはならなかった。
いくら科学的に雲の発生原理がわかっていても、魔術でそれを論理的に実践することは不可能なのかと、エルは肩を落とした。
それでもシェルザール行きを諦めきれないエルは、いったい何が雲を発生させる魔術に不足していたかを考えた。
3日ほど考えて出た結論は光のマナの存在だった。
雲は自然現象では太陽の熱で熱せられて水蒸気となった水が大気中の微粒子に結合して雲を形作る。
ならば太陽の代わりとなる光のマナを加えてみればいいのではないかと思い至ったのだ。
それからはまた試行錯誤の繰り返しだった。
火と水のマナを操るために行ったのと同じ方法で、光のマナを組み合わせた構文と旋律を組み合わせる。
光のマナは荘厳なパイプオルガンの旋律のようなものだから、基本はジャズの旋律のままで行ける。リズム、旋律、詠唱と構文を組み合わせ、また試行錯誤を繰り返して1週間程度。今度は失敗できないと思い、再び川の上流へと足を運んだ。
火と水のマナの構文にはさほど手をつけない。そこに光のマナの効果を付与するだけだからいじる必要がない。プログラムのコード進行には定評のあった前世の知識と経験から、どういう風に魔術に応用すればいいかは1週間も考えればできあがっていた。
そうして同じように、以前より水量の減った川の上流で焚き火を熾し、いざ発動と相成った。
組み上げた長い構文と旋律を組み合わせ、魔術を織り上げていく。
今度は光のマナも付け加えたので湿っぽい風が荒れ狂うほどの中、集中力を切らさないように詠唱の旋律を紡いでいく。
30分を超える長大な魔術を完成させ、その場にへたり込む。極度の集中力と魔力の消費で疲労感がすさまじかった。
これでどんな効果が出てくるか。
ごくりと唾を飲み込んで空を見上げてみると--。
エルの真上に雨雲と呼んでもまぁ差し支えのない小さな雲ができあがっていた。
そして次の瞬間、ゲリラ豪雨と呼ぶにふさわしい雨がその小さな雲からエルをめがけて降り注いできた。
慌てて疲れた身体を引きずってその場から逃げたものの、とてもではないが村全体を潤すほどの天候を操作する魔術には至らなかった。
がっくりと肩を落とし、逃げた先でへたり込んだエルは、ただひたすらに小さな雲から水を落とし続けるそれを眺めることしかできなかった。
どれくらいそうしていたかはわからない。30分かもしれないし、1時間かもしれない。
おそらくは溜めた水蒸気を失って、小さな雲は次第に小さくなり、干魃で照りつける太陽に雲散霧消してしまった。
構文に問題はなかったはずだ。
旋律も間違えなかった。
それでもさすがに原理がわかっていても、天候なんて壮大なものを魔術でどうにかしようと考えたこと自体が間違っていたのだと落ち込んだ。
それと同時にシェルザール行きが夢と潰えたことが追い打ちをかけて、エルは力なくその場を後にした。
閃いたのは井戸水ですら畑を潤すことが難しくなり始めた干魃の続く夜だった。
乾燥しているのでいくら暑くても現代日本の夏のような寝苦しさはあまりないのだが、それが奏功したのか、あの魔術は失敗ではなかったと気付いたのだ。
別に天候を左右する必要はないのだ。
干魃で水が足りないのだから、足りない水は魔術で作ればいい。
短くて30分はゲリラ豪雨並みの雨--つまり水を生み出す魔術ができたのだから、それを川に流してやればいい。すでにほとんど干上がっていると言って差し支えない東の小川から水を運んでくれば畑に水をやることができる。
水を畑まで運ぶのは重労働だが、ないよりはいい。
要は秋小麦に必要な水が確保できれば、シェルザール行きのための貯金をはたかなくてもすむのだ。
そうと決まればエルの行動は早かった。
毎朝早くに起きて川の上流へ行き、あのゲリラ豪雨を発生させる魔術を行う。それを1週間も続ければ東の小川には水量が戻ってきて、それを村の大人たちに伝える。
何の前触れもなく水が戻ったことに大人たちは半信半疑だったり、不審がったりしたが、実際に増えた水量を見れば疑問なんてどうでもよかった。
これで萎れていた小麦畑に水をやることができ、そして秋の収穫には例年よりは少ないだろうが生活に必要な稼ぎを得るだけの収穫が見込める。
冬の生活に不安しかなかった村にとっては、水がどこから出てきたのかなどと言うことは些事でしかなかった。
エルも言うつもりはなかった。
魔術で小川の水量が復活するほどの水を得たのだと言っても誰も信じてくれないだろうからだ。
しかもそれを15歳の少女が成し遂げたとあれば、ますます信用度は低くなるだろう。
それでもいい。
エルの目的は秋小麦の収穫ができ、貯金を放出せずにすんで、心置きなく魔術都市ドリンへ行くことだったからだ。
魔術の腕前を誇るようになるのはドリンで実力をさらに上げてからでも遅くはない。
それにこんな農村で魔術の腕を誇ったところで、無意味とは言わないまでもさほど効果はない。
せいぜい近隣の町や村に不思議な出来事が起きた、くらいの噂にしかならないだろう。
魔術都市ドリンでとにかく魔術の腕前を上げて、そこからどういう道に進むかはドリンでシェルザールに入ってからでも遅くはない。
こうして干魃が続く間はゲリラ豪雨を発生させるのが日課になり、それで村の小麦は順調に生長し、秋にはやはり例年よりは少なかったが生活に困らないだけの小麦を収穫することができた。
むしろ、この干魃の年に例年より少ないとは言え、需要を賄えるだけの小麦を出荷できた村では例年より多くの稼ぎが手に入った。それは当然と言えば当然で、干魃なのだから村ひとつの問題ですむはずがない。他の村ではほぼ壊滅的な打撃を受けた中で、この村だけが小麦を多く出荷できたのだから値段が上がるのは至極当然なことだった。
ただひとつ心苦しいことがあって、それは治療院での仕事が疎かになったことだった。
ゲリラ豪雨を発生させる魔術は魔力を大量に消費するから、治療院に行ってもまともな治癒魔術を行える魔力が残っておらず、セレナの代わりを務めていたくらいにまで頼られていた治療を満足に行えなかったことだった。
セレナは不思議がっていたが、若いエルが満足に食べることもできず、疲れていたのだろうとむしろ逆に気を遣わせてしまったくらいだった。
不幸中の幸いだったのは干魃で畑仕事が減り、例年より怪我人が少なかったこともあってセレナひとりでも対応できたことは救いだった。
そうして16歳になる春の1ヶ月前。
「立派な魔術師になって帰っておいで」と言う両親と、「頑張ってよ、姉さん」と言う弟のジル、「あなたならシェルザールでもやっていけるわ」と言うセレナに見送られて、村を出たエルは約1ヶ月弱の旅程を挟んで、一路魔術都市ドリンへ向かったのだった。
同じ頃、ルーファスはすでにドリンにあって期待の魔術師として名を知られるほどにまで魔術を上達させていた。
祖父も「おまえならばシェルザールでも十分に実力を発揮できる」とお墨付きをもらえるほどにまでなっていて、早くシェルザールに入学するのが楽しみで仕方がなかった。
革新派の重鎮として国に貢献し、爵位まで受けた祖父の期待に応えられるようにと研鑽を積んできた努力が、シェルザールに入学することでさらに花開くと信じて疑わなかった。
片や魔術都市ドリンでも名を知られるようになったルーファス。
片や片田舎から希望を胸にシェルザールへの旅路を始めたエル。
将来、ほぼルーファスが一方的にライバル視するエルとルーファスの出会いは、シェルザールの試験会場で果たされることになる。
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