第2話
数えで7歳の春を迎えたエルは、セレナの助手として、ときに補助として治療院へ通う日々を送っていた。
治癒魔術のほうも大分安定して発揮できるようになり、子供の簡単な掠り傷くらいならばセレナではなく、エルが任されることもあるくらい上達していた。
これくらい基礎の治癒魔術が扱えるようになったのならばとセレナは治療院の合間に、治癒魔術以外の魔法の基礎について教えてくれるようになった。
魔術とは、6つの主要な元素によって成り立っていた。
土、水、火、風、光、そして闇。
どの属性にも攻撃、補助、防御と多種多様な魔術が存在し、セレナも魔術の基礎として簡単な攻撃や防御の魔術は使えるとのことだった。
治癒魔術は水に属する魔術であるため、大気中に溢れる水のマナを詠唱によって魔術として具現化し、対象の怪我や病気の治療に用いる。
土に属する魔術ならばいわゆるゴーレム--簡単に言えば土人形--を作って動かしたり、光の魔術であるなら暗闇を照らしたりと用途は幅広い。
もちろん複合的な魔術もあり、土と水の属性を掛け合わせることによって畑に活力を与えたり、闇と火を合わせることで消えない黒炎を出したりと、その組み合わせによって魔術は千差万別に姿を変える。
とは言え、まだ7歳の子供にそんな難しい魔術を教えても扱えるようになるはずもないと、土ならば土人形を、風ならば風を起こすだけの魔術を、と言った具合に、エルはセレナから治癒魔術以外の魔術の基礎を教わっていた。
そこでエルが発見したのはとても有意義なことだった。
基礎中の基礎として教えてもらった治癒魔術は詠唱するだけで手一杯だった1年前と違って、簡単な患者なら任せてもらえるくらい上達したのとほぼ同時に、魔術の詠唱とは旋律が重要である、と言うことを知ったのだった。
確かに治療中のセレナの詠唱は歌うように魔術を紡いでいたし、実際に自分でセレナの真似をして旋律を加えることによってエルの治癒魔術も安定してきていた。
これは大きな発見で、聞くのと歌うのとでは違うものの、魔術とは音楽に近しいものである、と言うことだった。
収穫祭の踊りでは太鼓と言った打楽器と、フルートの音色に似た横笛の旋律だけしか聴くことがなかったが、魔術は音楽性を持って詠唱すればそれだけ効果が安定し、高い威力を発揮すると言うことを発見できたのだ。
電気のない異世界では夢のオーディオライフを諦めざるを得なかったが、音楽に触れることはできる。しかもその旋律によって魔術の成否から威力まで変わってしまうのだから、前世で培ってきた音感が役立つときがやってきたのだ。
さらに嬉しいことに両親も魔術師になることを応援してくれるようになっていた。
原因は単純だ。
エルが産まれてから両親も早く次の子供が欲しいと頑張っていたが、なかなか子宝には恵まれず、4年の月日が流れてもう子供はエルひとりだけだと諦めかけていた頃、ようやく懐妊し、待望の男の子、つまり弟ができたのだ。
やはり現代日本から見れば中世で時間が止まっているこの世界では女は嫁に行き、家を出ていくものとの考えが根強く、両親の中ではエルが出ていけば家を継ぐ者がいなくなることになってしまっていた。
そこへ待望の男の子の誕生なのだから喜ぶなと言うほうが無理だろう。
エルは前世の記憶を持っていたから全く手のかからない子供だったが、弟のジルはそれはとても手のかかる子供だったのだが、それでも両親は待望の男の子と言うことでイヤな顔ひとつせず、子育てに邁進していた。
家や畑のことが心配なくなったことで、エルの自由度も高くなり、セレナに教わった魔術で竈の火を熾したり、光の球をいくつも出してジルをあやしたりするエルを見て、あまり魔術師になることを歓迎していなかった両親の考えも変わっていったのだ。
もちろん、エルには結婚する気など1ミリもないので、ジルが健康に成長してくれることは歓迎すべきことだったから積極的に両親に協力もした。
まだまだ家事などできることは少ないが、魔術ならセレナに色々と教わっていた矢先だったから魔術の復習をするいい機会でもあった。
そんな色々なことが複合的に絡まって、エルは両親から魔術師になることをほぼ公認されている状態にあった。
後はセレナから魔術の基礎を全て学び、ゆくゆくは村を出て魔術師として独り立ちすることがエルの望みでもあったから、両親の心変わりは嬉しいことだった。
とは言ってもまだまだ7歳の子供には変わりがない。
セレナが感心するほど魔術の勉強は熱心にしていたが、こんな農村の治療院をやっていくだけの魔力しかないセレナに、高度な魔術は扱えない。そのためにはもっと大きな街に出て、魔術の勉強をしていかなければ、セレナの後を継いで村の治療院で働く魔術師で終わってしまう。
もしかしたらこの世界で並ぶ者のいない魔力を持っているかもしれない自分をこんな平凡な農村で働く魔術師で終わらせてしまうのはもったいない。
それでもたった7歳の子供をひとりで大きな街に出させる財力も親戚もいないのだから、今は待つしかない。
本を買ってもらって独学で勉強する、と言うことも考えたことはあったが、この世界の本は基本的に写本なのでとても高価だ。こんな平凡な農村の農民に本を買うような余裕があるわけでもなく、今はただひたすらにセレナの持つ数少ない蔵書の中からとにかく魔術の基礎を完璧に習得することを心がけていた。
プログラムもそうだが、何事にも基礎がなければその上に立つ応用は成り立たない。
いつか村を出て本格的に魔術を学ぶときが来るまではとにかく基礎だけでいい。
8歳になる頃まではそう思っていた。
この頃にはもうセレナの治療院にエルは欠かせない存在として村でも認知され、セレナとともに怪我や病気の治療に当たることも増えていた。もちろん、他の魔術の基礎もほぼ完璧にマスターしていた。
そうして気付いたのだが、この世界の魔術は旋律とともに詠唱の構成も重要である、と言うことだった。
たとえば、治癒魔術ならば、セレナから教わった基礎中の基礎は、「生命溢れる水のマナよ、その命の輝きをもって彼の者の傷を癒やしたまえ」と言うものだが、これが最もポピュラーな治癒魔術の詠唱だった。
この構成は、まず、生命を司る水のマナを魔力に変換するために、「生命溢れる水のマナよ」と言う詠唱が用いられ、傷や病気を癒やすためにその後の詠唱で構成されている。
いわゆるアンド構文である。
ならばこれを逆の構文にしてしまえば、逆の効果が出るのではないかと気付いたのだ。
もちろん、治癒魔術でこれを試すことはできない。治癒魔術で逆の効果をかけてしまうと怪我や病気を悪化させてしまう。
そこで試してみたのが、ジルをあやすときにも使った光の球の魔術だった。
これも構成はアンド構文でできていて、光のマナを集めて、それを取り出すイメージなのだが、これを逆のノット構文にしてしまうと光の球ではなく、闇の球が生まれてしまった。
逆もまたしかりで闇のマナを用いれば光になり、雑草に土のマナをかければ枯れ果て、火のマナにかければ焚き火をあっという間に鎮火させることができた。
そう、前世で天才と謳われたプログラマーとしての知識と経験は、この世界の魔術に応用が利くのだ。
比類なき魔力とプログラマーとしての知識。
可能性は大いに広がった。
ものは試しとばかりに夕食後や治療院での仕事帰りなどで、人気のないところで色々と試していると魔術とは無限の広がりを持つとても面白い学問であることがわかってきた。
基礎中の基礎を学んで、それを応用するだけで様々な魔術になることがわかったのだから、本格的に魔術の勉強をすればどれほどの可能性が広がっているかを想像するととても楽しかった。
当然魔術を失敗することもあったが、それはバグのようなものだと割り切ればいくらでも修正が利く。
早く16歳になって、晴れて村を出られる年齢になればいいのにと思う日々の中、思いがけない出来事が待っていた。
恋をしたのだ。
前世での29年プラス7年、都合36年間、一度も恋をしたことがなかったエルは遅咲きの初恋を経験することになった。
だいたい前世ではプログラム一筋で生きてきたし、交流のあった人間はたいていがネット越しのプログラマー仲間。2年しか勤めなかった会社では忙しくて恋どころではなかったし、フリーになってからも営業先の人間の9割が男だった。
そんな女性と接点の少なかった前世を送ってきたエルに恋をする機会などなかったのだが、この世界に生まれ変わって初めて恋をした。
それはマリア・スチュアートと言う村でも美人と評判の女性で、エルが小さい頃から家族ぐるみで付き合いのある家族の娘のひとりだった。
エルが8歳のときにマリアはちょうど20歳。現代日本ではまだまだ若い年齢だが、この世界ではもう16歳を過ぎれば立派な大人として扱われるから20歳ともなれば結婚適齢期である。
髪質はエルがくすんだ感じで、マリアは明るい感じだったが、同じ赤毛の女性同士と言うことで「マリアお姉ちゃん」と呼んで親しくしていた女性だった。
何故そんな親しい関係にあった相手に恋なんてしたのかと言うと、マリアも恋をしていたからだった。
つまり彼氏持ちである。
彼氏のために日々美しく、立派に、女性らしく、働き者であろうと努力を惜しまない姿に惚れてしまったのだ。
だいたい見た目は8歳の女の子と言っても中身は29歳の独身男性である。
20歳の美しい女性に恋をしたところで何の不思議があろうか。
しかし、悲しいかな。中身はどうあれ見た目は8歳のそばかすの浮いた冴えない魔術師見習いの女の子である。
それでも今の彼氏と結婚するとしても、それまでの間に思い出だけはたくさん作っておきたい。
幸い、身体は女の子だからいくらベタベタしたところで子供が甘えているようにしか見えない。
彼氏も8歳の女の子に嫉妬するわけにもいかないので、その強みを生かして8歳のエルの生活は、ひとつ、家のこと、ふたつ、治療院でのこと、3つ、子供たちと遊ぶこと、そして4つめが思う存分マリアに甘えることになった。
とある冬の雪がちらつく日のこと。
冬の時期は畑仕事がないので、治療院を訪れる村人も少ない。7歳の頃はこうした忙しくない時期に魔術の基礎を教えてもらっていたのだが、最近はちょくちょくマリアの元へ機織りや料理の勉強をしてくる、と言う名目でマリアの家を訪れるようになっていた。
家族ぐるみで付き合いのあるスチュアート家なので、エルがスチュアート家を訪れてもスチュアート家の者は誰も違和感を覚えない。むしろマリアについて機織りや料理の勉強をするいい子だと思われている。
今日も今日とてスチュアート家を訪れて、マリアがいるかどうかを尋ねてみると機織りをしていると言う。彼氏へのプレゼントでも作っているのかもしれないと思うとモヤモヤしたが、仕方がない。
それよりもマリアとの時間を楽しんだほうが有意義である。
勝手知ったるなんとやら。マリアの居場所を聞いてすぐに機織り機の置いてある小屋へ向かい、ドアをノックする。
「マリアお姉ちゃん」
「その声はエルちゃんね。今ちょっと手を止められないから勝手に入ってきていいわよ」
「はーい。じゃぁお邪魔しまーす」
そう言ってからドアを開けると微かに外に漏れ出ていた機織りの音が最初に飛び込んでくる。
「いらっしゃい、エルちゃん。今日も機織りを見に来たのね」
「うん」
「じゃぁ切りのいいところまで進めちゃうからちょっと待ってて」
「わかった」
すでに定位置になっている機織りの糸を入れておく箱の上に座って、マリアが織っている何かを見つめる。
「この前作ってたシーツはもうできたの?」
「えぇ、つい昨日ね」
「あれはどうしたの?」
「売りに出してもらったわ。冬は畑仕事がないから機織りでお金を稼がないといけないからね」
「今作ってるのは?」
「枕カバーよ。小さいから簡単に作れて、装飾に凝ればそれなりの値段で売れるからいい稼ぎになるのよ」
「そうなんだ。どうやって織るの?」
「うーん……、どうせなら最初から作るところを見てたほうがよかったけど、もう織り始めちゃったから仕方ないわね。柄はまだだから柄の織り方でも見ていく?」
「うん」
ポンポンとマリアが膝を叩いたので、エルはパッと顔を明るくさせていそいそと移動する。場所はマリアの膝の上だ。小柄なエルがマリアの膝の上に乗ると、ちょうど後頭部が胸のところに当たる。
恋などしたことがないエルはもちろんセックスもしたことがなかったので童貞だったが、こうしてマリアの膝の上に乗せてもらうようになってから、胸とはこんなにも柔らかく、温かいものなのだと初めて知った。
マリアはエルを膝の上に乗せると機織りを再開した。
筬を糸の間に通し、それを叩いて糸を布にしていく。その作業は単純そのものだったが、エルにとってはマリアのぬくもりに包まれて過ごす時間は至福の一時だったので退屈はしなかった。
「どんな模様を織るの?」
「エルちゃんにもわかりやすいように簡単なものにするわ。稼ぎは少ないけど、簡単な分すぐにできあがるし、エルちゃんの勉強にも最適でしょう?」
「うん」
「じゃぁ見てて」
踏み木を踏んでいく音、筬が縦糸の間を通っていく音、叩く音などなど。
マリアは鼻歌なんかを歌いながら機織りを続けていく。
寒い機織り小屋の中でマリアのぬくもりに包まれていると、機織りの単調な動きと相まって眠気が襲ってくる。
このまま寝てしまうと勉強という名目が崩れ去ってしまう。何とかして起きていようと目を擦ったりしてはみるものの、人の体温というのはとても心地よいもので、ついうとうとしてしまう。
仕方がないので眠気を紛らわせるためにも何か話題をと思ってぽろっと地雷を踏んでしまう。
「ねぇ、マリアお姉ちゃん、今の彼と結婚するの?」
尋ねてから激しく後悔した。一番聞きたくない質問が思わず口から出てしまった。
するとマリアはビクッと身体を一瞬震わせた後、少し寂しそうに答えた。
「私はそうしたいんだけどね。私だってもう20歳。結婚してもおかしくない年齢だわ。でも彼は……そうね、なんて言うのかしら。そういう雰囲気にならないようにはぐらかされている、って感じかしら」
この話題には触れないようにしたいと思いつつも、今から突然話題を変えるのも不自然だ。どうせ口から出てしまった言葉を取り消すことはできない。ならば話を続けるしかない。
「結婚したいと思ってないのかなぁ。マリアお姉ちゃんは美人だし、優しいし、気立てもいいのに」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。エルちゃんはそう思ってくれていても、彼は違うのかもしれないわ。でも私は諦めないわよ。今はあの人と一緒になりたいって気持ちでいっぱいなんだから」
気丈に振る舞っているのだろう。空元気にも聞こえるくらい明るい調子でマリアははっきりと言った。
結婚できるものなら自分が結婚したいくらいの相手だと言うのに、彼氏は一体何をためらっていると言うのか。こうして冬の寒い日にあっても、機織りの仕事をして少しでも家のために稼ごうと努力する姿は眩しいくらいだ。
こんな平凡な農村でそんな話が耳に入らないわけがないだろうに、どうしてプロポーズしないのか不思議なくらいだ。
いや、本心ではしてほしくない。
恋する相手が誰かのものになってしまうなんて考えたくもない。
しかし、歳の差も去ることながら同性である。現代日本ならばセクシャルマイノリティとして認知されつつある時代だったとは言え、この世界では異端どころの騒ぎではないだろう。頭がおかしい狂人として一生収監されて生活することになってもおかしくはない。
「でもね、やっぱりこういうことって相手のあることだから今は仕方ないと思ってるの。それに今はちゃんとあの人がプロポーズしてくれるような立派な女になるための修行中だと思えば何だって頑張れるわ。単にあの人はちょっとの勇気が出ないだけなのかもしれないしね」
「マリアお姉ちゃんは強いんだね」
「あら、エルちゃんだって強いじゃない。セレナさんから聞いてるわよ。立派に治療院の仕事をこなして、魔術の勉強だってしっかりしてる。セレナさんはこの村の治療院を継いでもらいたい気持ちのほうが強いらしいけど、でもこのまま村の治療院の魔術師で終わるような子じゃない、とも言っていたわ」
「そうなんだ。私も頑張らないとだなぁ」
「うんうん。私はよき妻になるために、エルちゃんは素晴らしい魔術師になるために、一緒に頑張りましょう」
「うん……」
話していても眠気は強くなってくる。
区切りのいいところでもっと別の楽しい話題をと思って考えてはみるものの、睡魔に支配された頭ではまともに考えることもできず、いつの間にか意識を失っていた。
機織りの手を休めず、エルと話をしていたマリアは不意にエルが黙り、次いで身体にかかる重みが増したことにくすりと笑った。
機織りの手を休めて無音にしてみると微かに寝息が聞こえてくる。やはり眠ってしまったのかと思って、器用に足をずらすと膝掛けを取り、エルの身体にかけてあげる。寒い冬の機織り小屋にこのまま眠っていては風邪を引いてしまう。マリアは高い子供の体温で温かいので寒くはない。
幼い頃から知っているエルだったが、どこか大人びたところがあってあまり甘えてきた覚えはないが、最近とみに甘えん坊になった気がする。
エルの何がそうさせているのかはわからないが、エルが産まれたときから末っ子だったマリアは年の離れた妹ができたようでエルのことは可愛い妹のように思っていたから、甘えてくれるのは素直に嬉しかった。
でも結婚してしまえばなかなかそうはいかないだろう。
ならば甘えてくれるうちにうんと甘やかしてエルと楽しい思い出を作ったほうがいい。
すやすやと寝息を立てるエルを抱くようにして腕を固定し、機織りを再開する。
畑仕事のない冬の間の女の仕事は家事と機織りが主だ。貴重な稼ぎを得るためにも、結婚資金を貯めるためにも頑張らないといけない。
マリアは結婚して、エルは魔術師として、そのうち離れ離れになってしまうかもしれない。
もしそうなったときにエルが子供の頃、優しいお姉さんがいてくれたことをずっと覚えてくれていたら嬉しい。
そのためにもエルが懐いていてくれるうちは邪険にすることはしないでおこうと思う。
可愛い妹のエル。
マリアは笑みを浮かべてエルを腕に抱いたまま、機織りを続けた。
まだ肌寒い日があるとは言え、花が咲く春になると1年が始まる。
そんなエルが9歳になった春のある晴れた日のこと。
村はお祝いムードに溢れていた。
マリアの結婚式が行われることになり、村中を挙げてのお祝いとなった。
こんな平凡な農村ではこうしたイベントは一大事で、冠婚葬祭は村を挙げてのイベントとなる。
誰も彼も一張羅を引っ張り出してこれから夫婦で新しい門出に向かうふたりを祝福しようと誰もが浮ついていた。
もちろんエルも祝福したい気持ちはある。
元々叶わない恋だったこともあって初めから諦めていたことだし、いつかはこうなるだろうことも予想していた。それでも人妻ともなってしまえば、今までのように気軽に「マリアお姉ちゃん」と呼んで遊びに行くこともできない。
新しい夫婦としての生活が待っているのだからそれを邪魔することはできない。
できることと言えばマリアがずっと幸せに暮らしていけるように祈ることくらいだった。
失恋とはこんなにも胸が痛くなるものなのだとエルは初めて知った。
泣きたくなる気持ちを抑えて、祝福ムードに水を差さないように努めて明るく、幸せそうに笑っているマリアを笑顔で見送ろうと心に決める。
こんな気持ちになるのだったら恋なんてするものではなかったと思ったが、初恋は実らないとも言うし、これを糧に今後の人生を生きていけばいい。
だいたい男と恋愛なんて無理な相談なのだから、恋をしたところで叶わないものと相場が決まっているのだ。一度こうした経験をしておけば、後々の人生でもし恋をしたときに傷は浅くてすむだろう。
なお、こんな平凡な農村に立派な神殿なんかがあるはずもなく、結婚式は村で一番立派な家である村長の家で行われた。
子供たちみんなで摘んできた草花を手に、村長が結婚の儀式を執り行う。
誓いの言葉と誓いのキス。
これはこの世界でも同じだったようで、キスをすませて拍手を受けるマリアは心底幸せそうだった。
泣かないと決めていてもやはり悲しい気持ちは溢れてきて、頬に一筋の涙が零れた。
「姉ちゃん、泣くほど嬉しいの?」
結婚というものがまだあまりよくわかっていない弟のジルがそんなふうに尋ねてくる。
「ん? そうだね。うん、嬉しいよ」
マリアが幸せになってくれれば嬉しい。
その気持ちに嘘はない。
しかし我慢しても零れるほどの悲しさもまた味わっていた。
これもまた人生。
29年と8年、人付き合いを極力避けてきたツケが今来ているように思えた。
同じ頃、魔術都市ドリンにある、とある大きな屋敷の、広い庭ではひとりの少年が木でできた的をめがけて魔術の練習に勤しんでいた。
練習しているのは初歩的な攻撃魔術で、どの属性の魔術も満遍なく、正確に的に当てていく。
1時間半ほど練習した頃だろうか。
音もなく少年の側に白髪にタキシードを着た老人が立っていた。
「坊ちゃま、そろそろ夕食の時間でございます」
「わかった。着替えたらすぐ行くとお父様たちに伝えてくれ」
「かしこまりました」
老人は一礼すると出てきたときと同じように音もなくすっとその場からいなくなった。
少年は焦げ跡や切り傷などがついた的を少しの間見つめてから踵を返した。
お爺様も言っていた。僕には魔術の才能があると。お爺様の後を継いで立派な魔術師になるんだ。
そのための鍛錬である。
まだ初歩の魔術しか扱わせてもらえていないが、これから成長すればもっと強い魔術も教えてもらえるだろうし、魔術都市を魔術都市たらしめている学究機関シェルザールに入ればもっと高度な魔術を習うことができるようになるだろう。
それまでにお爺様の期待に応えられるように修行を積んでおかなければならない。
誰にも負けないこの国で並ぶ者のない魔術師になるために。
少年の名はルーファス・グランバートル。
魔術都市ドリンでは知らぬ者はいないとさえ言われるほどの魔術師の家系グランバートル家の次男だった。
幼さの残る金髪碧眼に決意の光を灯し、うっすらと浮いた額の汗をローブで拭ってからルーファスは屋敷のほうへと歩を進めた。
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