砂漠の少女の日常
@from_koa
第1話
世界の始まりがここにある。
辺りはまだ薄暗かった。遥か先、丘陵の輪郭を浮かび上がらせ、東の空がゆっくりと白んでくる。吸い込んだ空気は冷たく、気管を凍えさせ胸の痛みとして伝えた。痛みに耐えかね吐き出した息は、掴めそうなほどはっきりと白く空へと消えていく零下の夜明け。
両親、歳が近い弟、幼い弟の家族五人で暮らす岩穴の住居。マントを肩に巻き付け、ランタン片手に外へ出たのはまだ夜明け前だった。まだ寝ている家族を起こさないように静かに木製の戸口を閉める。
この地域は昼夜の寒暖差が激しく、時に一日の中で四十度近い気温差になることもあった。温度を一定に保てる岩穴の住まいは快適だった。ちゃんと自分の部屋もある。
戸口を出ると、前には中庭が広がっていた。外へ出るには一度階段を上る。斜面を利用し縦に掘られた穴に横穴を掘って造られた住居は、一見しただけでは誰もここに住まいがあるとは思わない。気付くこともないだろう。
果てしなく続くのではと思わせる
辺りが薄っすらと明るくなり、物の輪郭がはっきりしてくると、手にしたランタンの灯りを吹き消した。
積上げた枯れ枝の薪を何本か抱え、部屋の中へ戻る。
台所でストーブも兼ねたかまどに薪をくべ、火を起こした。焚口から薪を火かき棒で寄せると火が爆ぜる。パチパチと爆ぜ小さな火玉が飛ぶのは、残った木の水分が蒸発するからだ。つまりそれは火が着いて燃え始めた証。ゆっくりと燃え上がり、覗き込む顔を炎が照らすと、外気で冷えた頬を火照るほど温めた。ホッと息を吐く。
温かい。
母が起きて来た。お互い「おはよう」と、短い挨拶を交わした。
母は朝食の準備を始める。私は焚口の戸を閉め居間に移った。そこにもあるストーブにも薪をくべる。火が起きるのを確認し、もう一度外へ出た。突き出したストーブの煙突から煙が空へ昇っていく。
井戸の水を汲み上げ、両手の付いた瓶へ溢れないぎりぎりの量の水を入れる。それを戸口の横へ運び置いておく。住居部分の穴の隣に掘られた家畜用の穴小屋には、鶏がいた。餌をやり、まだ温かい産みたての卵をもらう。今朝は七つだった。いつから使っているのかもう分からないほどささくれた卵用のカゴに入れ、それも戸口の横へ置いておく。そのままヤギ小屋へ向かった。ヤギ小屋もまた岩を掘って作ったもの。祖父が作ったものを父が更に掘り広めたらしい。ヤギ二十八頭と羊七頭がいる。
ヤギと羊を外へ出した。柵を開ければみんな自ら出て行く。少し離れた放牧地まで毎日連れて行く。時間になるまでは家の前の中庭を自由にうろつき、勝手に階段を上ってどこかへ行ってしまうようなことはない。けれど中には外へ出るのを渋る子もいた。無理矢理出そうとするが言う事を聞かず、てこずっていると、やって来た父の手が視界の前へと伸びた。筋張った力強い手がヤギの首元を掴むと軽々体を持ち上げた。ヤギの向きを変え、お尻をポンと叩いて、外へ出るよう促す。ヤギは素直に外へ出て行く。
「お前は乳を搾ってくれ」
返事はしなかった。毎朝のことだからだ。父と入れ替えに外へ出ると、中庭で乳搾りの準備をした。
戸口の横へ置いた水瓶と卵入りのカゴはミルク用の瓶に入れ替わっている。瓶と小さな椅子を手にすると、丸く切り取られた空を見上げた。もうすっかり陽は昇り、体に巻き付けた防寒のマントもじき必要なくなる。
こうして私の一日は毎朝変わることなく始まる。
ヤギ小屋の掃除をしてから部屋へ戻ると、ヤギのミルクから作ったバターの香りが広がっていた。鼻へ届いたふんわりと甘い香り。小麦粉とバターの匂いは幸せの匂いだ。放牧地である丘の上でヤギたちが食む、春の草花の香りがした。胸いっぱいにパンの焼ける優しい香りを吸い込むと、今にもお腹が鳴りそうだった。
「嬉しそうね」
母は慣れた手付きで手早くパン生地を丸く広げると、ストーブの天板の上へ乗せた。
「大好きだもの」
「いい香りね」
二人でパン生地を眺めた。
熱せられた天板の上でパン生地は火が入るとぷっくりと膨らみ、母は加減をみてひっくり返した。
「もう焼けるわ。食べましょ」
喜ぶ私の姿を見て、母も嬉しそうだった。
「ボリジを起こしてきて」
「これを運んだら行ってくる」
私は出来上がっている料理を皿に盛り居間へと運んだ。
外へ出ると、強い陽射しを浴びた。
弟ボリジの部屋は居間を挟んで私の部屋の反対側にある。
「ボリジ、起きてる?」
ノックして戸を開けると、ボリジはベッドの上に座って、もう起きていた。いつもは起こさないとなかなか起きないのに、ここ一週間近くは、私が起こしに行く頃にはもう起きている。
「おはよう。今日も早いのね?」
「ニゲラが外へ出た時には起きてたさ」
ちょっと強がった様子だった。
ボリジとは兄妹の中で一番歳が近かった。家を出て、何百キロも離れた海の見える街で暮らしている一番上の兄とは六つ、結婚して近くの隣町で暮らしている姉とは五つ違い、ボリジとは三つ違い。その下の弟ルーとは十四違った。
「朝ご飯に」
「うん。お腹ペコペコだよ」
「じゃ、居間まで競争!」
「えっ?!」
私がそう言って部屋を出ると、ボリジは慌てて後を追って来た。
「負けた方が食事の後片付けね」
「どうせニゲラの負けだよ!」
ボリジは私よりほんの少しだけ背が高かった。ほぼ互角の身長差の競争は、一日のどこかで、毎日のように行われていた。
「おいしい」
母の作ったパンはいつでもおいしい。
手挽きの石臼で麦を挽き、その粉で毎朝パンを焼く。粉に、ヤギのミルクで作ったバターと塩、それに水。分量はいつも目分量で、それでも毎朝変わらず同じ物が焼き上がる。たまに、肉や野菜の入った違うパンを焼くこともあるけれど、基本素焼きのパン。朝食はそれに蜂蜜、畑で収穫した野菜を炒めたものと甘いお茶。
「どうして私がやると同じように出来ないのかな……」
「何度もやっているうちに、出来るようになるわよ」
「そうかなぁ」
「そうよ。何でもそう。何度もやっているうちに出来るようになるの。私も最初はそうだった」
教えられた通りにやってみるけど、母のようには上手くいかない。そんなことが沢山あった。
居間の真ん中に小さな座卓を並べ、家族全員で囲む食事。一日の予定を確認し合い、季節を語る。夏になれば砂漠から熱風が吹き荒れ、時に砂嵐になることもあり、外へ出られない日が何日も続くことがある。冬になれば砂漠にも雨が降り、涸れた灼熱の地を思い浮かべるかもしれないけれど、場所によっては雪も降ることがある。春の訪れと共にやって来るのは、草花や虫たち、新しい命の誕生だけではない。
「彼らが今日辺り来る予定だ」
「そう」
彼らとは、
「今年はこれが最後の隊商だろ」
砂漠地帯の灼熱を避け、秋から春にかけて数回のキャラバンが近くを通る。自給自足では手に入らない特別な品物や、冷蔵庫やテレビのような家電製品の購入はキャラバンにお願いしてラクダで運んでもらっていた。それ以外の時期やタイミングが合わない時には荷車や車が頼りになるが、ウチにはロバやラクダはいないし、父は車の運転が出来なかった。
この家には電気も水道も通っていない。そんな中、十五年ほど前から太陽光の自家発電を使い冷蔵庫を置くようになった。余った電力で、少しならテレビも観られるようになった。けれど国営放送だけで、流れるのは外国のニュースか街のニュースだけ。私たちの生活にはどれも、想像すら出来ない遠い世界の話だった。世界中に広まっているという新型の感染症も、ここにいればまるで違う惑星の話にすら思える。だからテレビを観ることはほとんどない。
「ボリジは午後からヤギたちを見ててくれないか」
ボリジは眉を寄せ、あからさまに嫌そうな表情をした。
「何で?」
小さく口籠りながら反抗した。
「隊商の所へ行って来る」
「じゃ、代わりに隊商の所にはオレが行くよ」
父の口元が少し緩んだように見えた。生意気にと言いたそうに。
「商談があるんだ。去年産まれたヤギを二頭連れて行く」
「勉強があるのに」
弟はこの家を出て学校に通いたがっていた。進学試験を受けるらしい。それに受かればここを出て、街の学校に入って寮生活になる。
「試験受けに行くのはまだ来週だろ」
「もう一週間しか時間が無いんだよ。学校行ってない分もっと頑張らなくちゃ」
「丘で勉強すればいい。ニゲラ、手伝ってやれ」
私はパンをほうばりながら深く頷いた。
「午前中の仕事が済んだら、昼食を持って行くわ」
「あぁ、そうしてくれ」
約束が決まると父は甘いお茶をすすった。
父はお茶が大好きだ。四六時中甘いお茶を飲んでいる。まだ歯が抜けるような歳でもないのに、前歯の横の歯が一本無い。ヤギに頭突きされたせいだと言うけれど、私はそのせいだとは思っていない。絶対甘いお茶のせいだ。
「ねぇ、隊商の人たちって……どこから来るの? そもそも、どこに住んでるの?」
青い民族衣装を着た彼らの姿は、一度見たら忘れられないほど印象的だった。力強いはっきりとした顔立ちは、ターバンで隠され僅かに見える目元からだけでもそれが分かった。
「ずっと西の方よ」
「西の方って……」
「砂漠じゃ?」
ボリジも不思議がる。
「あぁ、砂漠だ。でも彼らは遊牧の民だから、定住はしていない。それも今じゃ、家族は町で暮らしている者もいるらしいが……」
遊牧の民の暮らしが想像できなかった。
砂漠での暮らし。町での生活……?
姉が暮らす一番近くの隣町でも四十キロ以上、そこまで行けば隣の家と言える民家がある。
かつてはここも、小さな町のような集落だった。まだ私が幼い頃は、歩いてでも行ける近い距離に同じように岩穴を掘って住む家族が居た。そこに友達がいて、遊びに行っていた記憶がある。ヤギを追いかけたり花を摘んだり、時にはお人形で遊んだりもした。でもある日、ここ
ちょっと寂しげに言った父に「そうなんだ」と返そうとした時、末の弟ルーが皿を引っ掛け料理を床にぶち撒けた。そんなことをしてしまった自分に更に驚き、お茶まで引っ掛け床が大惨事になる。
「おい、拭くものを取れ!」
父は素早く座卓を持ち上げた。
「母さん、その皿を避けてよ!」
ボリジが向かい側からコップを拾い上げる。
「ギャーーー!」
ルーはただ泣く。
「ニゲラこっち持って!」
母は慌ててパンを包んでいた布巾で床を拭いた。代わりにパンかすが散らかるが咄嗟の事に思いがそっちへ及ばない。
「父さんそこも濡れてるってば!」
私は怒鳴りながら皿を拾い上げ、こぼれた野菜の煮込みを集めて皿へ戻す。
みんなで大騒ぎになり、慌てて床の掃除をした。
岩肌に何層も敷き重ねた敷物は、一番上だけが汚れれば直ぐに取り替えられる。が、二枚目三枚目と染み込んで汚れては、後々大変だ。
末っ子だからか、両親はルーをあまり強く叱らず、いつも甘い。私たちとは大違い。食べ物や、特に砂糖をこぼした時は酷く叱られた。荒野では食べ物はもちろん、砂糖は塩と違って貴重だからだ。それをお茶にたっぷり入れるのが私たちの習慣だ。それだけに余計叱られた。
「これも片付けて」
「はい」
よそい直したおかずとお茶に、機嫌を直したルーが食べ終わるのを待って片付けを始めた。
一応発表しておくと、ボリジとの競争に勝って先に居間に着いたのは私だ。でも片付けはそもそも私の仕事。食器を集め井戸のある外へ出る。
「ほら、食べな。こぼしたルーに感謝してね」
ほくそ笑み、独り言ながらもちょっと意地悪に皮肉を込める。
ルーがこぼして残ったおかずを中庭に蒔くと、ヤギたちのいなくなった庭を自由に歩き回っていた鶏がやって来て啄ばんだ。心なしか、餌を食べている時よりも嬉しそうに見えるのは、気のせい?
父はボリジと共に一足早くヤギたちを連れ、少し離れた放牧地へ向かった。そこは小高い丘で、低木も生え、ヤギや羊の好む草花が茂っている。
「それが終わったら、こっちも手伝ってくれる」
食器を洗う手を止めて、見上げると母は両脇に敷物を抱えていた。
「急いで片付けるから」
「いいわよ、先にこっちの洗濯を済ますから」
手押しポンプの棒状のハンドルを上下に動かすと、キラキラと太陽に反射する綺麗な水が出た。深く掘られた井戸から汲み上げられる水は、遠く砂漠に降った雨が浸透し、何年何十年とかけ地中深く濾過される。地下水となって、私たちの生活を支える美しく透明で、安全なこの綺麗な水となる。
横目で見ていると、母は次第に足で踏み洗いをし始めた。服のように手で揉んでいては、面積の広い敷物は薄手の物でも追い付かない。
「ニゲラ、そっちをやって」
お皿の洗い物が終わり立ち上がると、待っていたとばかりに母が言う。
私はサンダルを脱いで母と同じように敷物の上に足を乗せた。
「冷たーい!」
「えぇ」
手で感じるより水が冷たく感じた。気温はもう三〇度近くになり、体を動かすとかなり暑い。それでも井戸の水は冷たかった。
ついでだからと、結局汚れなかった他の敷物も持ち出して洗濯することになった。まるで踊るように踏んで。母は即興で歌い出し、リズムを取って手を叩く。
こんなに澄んだ青空じゃないか
洗濯しないで何をするというの
こんなに乾いた空気じゃないか
今日は洗濯がよく乾く
雲も青空を散歩する
クロサバクヒタキの鳥も鳴いている
声に合わせて踊ろうじゃないか
こんなに澄んだ青空じゃないか
踊らないで何をするというの
こんなに乾いた空気じゃないか
今日は歌声がよく響く
母の歌に合わせ、踏み洗いを続けた。洗い終わった敷物の端と端を持ち、互いに別の方向へと強く捻った。絞られた敷物から残りの水がポタポタと滴り落ちる。
「これが終わったら、花と野菜に水をやっておいてちょうだい」
中庭の一角に張ったロープに服を掛けた。母がどこからか持ってきたロープをもう一本張って敷物を掛けて広げる。中庭には西から吹く風が入ってこなかった。つまり砂の被害に遭わない。陽射しは程良く入り、洗濯物も良く乾く。
洗濯物を干すのとは反対側に位置する中庭の隅、陽当りのいい場所に畑があった。日陰の入り具合も丁度良く作物が良く育つ。作物は家族が食べられるだけの野菜を育てている。トマトや玉葱、人参や唐辛子。葉もの野菜や香草といった季節に合わせた日常よく食べている物。果物の木もあって、ウチのナツメヤシの木はもともと実がならないけれど、その木の横にはオレンジの木が一本生えていた。だけどこっちの実なりも良くなく、家族みんな出来はあまり期待していなかった。父いわく、一本しか生えていないせいだろうと言う。けれど更に木を植え付けて増やすことはなかった。
「ニゲラ、タマネギほるの?」
納屋から
「掘るよ。ルー手伝ってくれるの?」
「うん、ルーほれるよ!」
ルーはいつも返事だけは良かった。今も意気込みだけはいい。私から鋤を奪い、長い柄を担ぎ歩き出す。あまり期待はせずに手伝ってもらうことにしよう。
「あかくてツルツルだね!」
ルーが見詰める先、畑には赤く色付いたトマトがなっていた。陽の光を反射して、弾けそうに艷やかな大きなトマト。近付けば、青く爽やかなトマト独特の香りがし、もぎ取ると更にその香りが強く辺りに香った。
「いい匂いだね!」
「そうだね」
「おいしそうだね!」
「お昼に食べようね」
「うん!」
今日必要な分だけの収穫。トマトを二個、唐辛子を五、六個に、香草の若芽を一掴みむしり取り、カゴへ入れる。その横では自由に動き回る鶏が、野菜の葉をところどころ啄んでいた。
見るとルーが見様見真似で鋤を土に突き立てている。けれど力が足りなくて、私は慌てて後ろから手助けをして力を加えた。土が掘り起こされると玉葱の葉が横倒しになり、埋まっていた部分が姿を見せた。
「こっちもほる?」
「今日はこれだけでいいよ」
白い根の張った大きな玉葱だった。葉の部分が太く真っ直ぐに伸びて、余す所無く食べられる。これならば一つで十分足りる。
「ニンジンもほる?」
こまかく細い葉を密集させる人参はまだ小さく、成長途中だった。
「人参はもう少し育ってからにしよ。ルーみたいにまだ小さいから」
「ルーみたいに?」
「そう。もう少し大きくなってから」
「ルーもう大きいよ! ボリジとおなじ、ちからもちだもん!」
「そーお?」
「タマネギほれたもん」
「そうだね。でも人参はもう少ししてからね」
「あした?」
「明日はまだ早いかな」
玉葱を引き抜き土を払った。その時、大きなミミズが一緒に出て来ているのに気付いた。
「ほら、ミミズ!」
ルーにミミズを放り投げからかった。「ギャッ!」と悲鳴をあげる。すかさずそこへ鶏がやって来て、ミミズを啄む。一羽が啄みきれずもう一羽と取り合いになってバサバサと羽を広げた。
「キライッ!」
プンプン怒って、逃げて行ってしまった。
最初の意気込みはどこへ行ったやら。もう大きくて力持ちだったんじゃなかったっけ?
ルーは少し弱虫なところがある。虫以外にもどうやらヤギと鶏も苦手らしく、あまり近寄りたがらない。家業の動物が苦手とは、将来どうなるのか……。私は笑いながら肩で溜息をついた。
母が育てる花が咲き始め、この春最初の蝶を見た。蜜蜂たちも春を謳歌するように、あっちの花こっちの花と渡り、花粉を集める為に働き出す。
出入口の戸の上から壁にかけて大きく茂るのは、自らの葉をも覆い尽くしてしまいそうなブーゲンビリアの花。濃いピンクは目が覚めるほど鮮やかだ。井戸の横には微かな甘い香りを漂わせるクレマチスのアーチ。淡い紫に濃い紫も入り交じっている。
バラもあった。砂漠のバラなんていうのがあるけれど、本物のバラの美しさには溜息が出るほど見惚れてしまう。私が知っている宝石よりも何倍も何十倍も綺麗で、香りはずっとまとっていたいほど。これが魅惑的ということかもしれない。鉢植えのゼラニウムもあった。炎のように鮮やかな赤みがかったオレンジ色の花。それが何鉢か並ぶ。今この時にしか見られない、一瞬の宝石。他の花も同じだった。この美しさに気付けない人は人生を少し損しているとさえ、花を見ていると思う。
野菜と花の水やりを済ませ、野菜を持って戻ると、母は臼で麦を挽いていた。邪魔して怒られたのか、ルーは拗ねた様子でゴロゴロと床に転がっていた。
「ルーもできるのに……」
転がりながらもやりたいことを主張する。だが母は聞こえていないふうに知らん顔だ。
「できるのにぃーっ!」
聞き入れてもらおうと更に強く言うが、それでも母は知らん顔を通した。ルーが粉挽きを手伝えば、辺りに粉をぶち撒けられ大変なことになる。それが分かっているからだ。
「母さん、これ玉葱とトマト」
私も母と同じように何事も無いかのように知らん顔で通す。
「あっちに置いておくからね」
「お願い」
一瞬、ルーの気がこっちに逸れた。そのまま気が逸れれば良かったが、上手くいかなった。ルーから見れば粉挽きも楽しそうに見えたのかもしれない、けれど根気のいる大変な作業だった。少しづつ少しづつ手挽き臼の溝から出てくる粉は僅かで、掛かる時間を考えるととても貴重だ。
昼食の準備を始めるまでまだ時間があった。
カラカラとナツメヤシの葉が踊るように動き、音を立てるたび一段一段編み上がっていく。
「柄が見えてきたわね」
黙々と編み上げる母が手を止め、横で布を織る私の手元を覗き込む。
「私より上手よ」
「本当?」
羊の毛を紡いだ糸で敷物やマントになる布を織った。ナツメヤシの葉ではカゴやバッグといった日常生活に使う細い物をよく編んだ。
母は布を織るのもカゴを編むのも上手で、見る間に出来上がる。まるで魔法のようで、私は子供の頃からそれを横で見ているのが好きだった。見ていただけがいつの間にか真似するようになり、織ったり編んだりする。けれど、一つ一つ糸を掛ける作業は、途方もなくて、嫌いじゃないけど苦手だった。誰にも言ったことはないけれど。それでも、一つ品物が織り上がると、作業に掛けた時間や努力が実り、すごく嬉しかった。
「私は結婚前にはまだこんなに織れなかったもの。まだ何も出来なかったから……」
母は今の私よりも若い時に父と結婚している。
「結婚は嫌じゃなかったのよ。でも結婚式がね……。それはそれは、風の強い日だったわ」
花嫁は花婿側からの歓迎の踊りが終わらなければ式を行う建物の中へは入れなかった。
朝から吹く砂嵐のような強い風に不安を抱いた。式の支度が済む頃になっても風は止まず、時間になり、外を見て溜息をついた。
家を出発し、吹き荒れる風の中で、太鼓を打ち鳴らし踊る歓迎をただじっと付添人と立ち忍んで受けた。
「ベールの中の耳も顔も砂だらけよ。睫毛の上まで砂が積もって、目なんて開けていられなかったから、踊りなんて見ていなかったわ」
せっかくの結婚式が砂のせいで台無しだったという。思い出して嫌そうな顔をする様子に、母には悪いが私は笑ってしまった。
「もし出来るなら、もう一度式をやり直したい?」
「そうね……、でも、あれでいいわ。その代わり、貴女の結婚式はあんな風が吹かないでほしい」
母は私の顔を見て願う。結婚式なんてまだ先の話。でも、そう遠くない未来。
「ルーもいく!」
「ダメよ」
「いっしょにいくのっ!」
ルーは朝から何だか機嫌が悪い。
「ルーはあそこまで一人で歩いて行けないじゃない」
宥めるように優しく言ってみた。叱ったところでどうしようもないからだ。でも言われれば言われるほど意固地になるものだ。ルーは口を尖らす。
「かあさんもいっしょにッ!」
「母さんは放牧場まで行かないのよ」
既婚の女性が放牧地になど行くことはなかった。放牧地はおろか、家から出ることも滅多にない。公での活動は制限され、その分、家庭内の生活面に関し全てを任される。それに対し、男性は客のもてなしから公の場での活動、家畜の世話一切などを行うなど、私たちの暮らしの中では男女で仕事を分け合い対等な関係を築いていた。人権や女性差別ではといわれることがあるらしいけれど、私は役割と責任を果たし、尊重されて暮らしている。
「ニゲラ、行って来なさい。父さんとボリジが待ってるわ」
昼食を詰めたカゴを渡された。
大きな礫石と小さな粒状の砂利、砂漠から風に運ばれてくるパウダーのようなキメの細かい砂が足元を悪くする。子供の頃から歩き慣れたこの道も、もし他所から人が来るようなことがあれば、歩き辛い道かもしれない。そもそも、道と言える道にはなっていないけれど。ヤギたちが毎日通って作った道。
なだらかな丘を登ると風が頬を撫でて過ぎていく。
風には匂いがあった。花の匂い、動物の匂い、砂の匂い。言葉では表現出来ない、けれどここに住む私たちなら分かる匂い。
「父さーん!」
放牧をしている場所に近付くと、直ぐに父を見付けた。アカシアの木陰に敷物を広げ、お茶が飲めるように火を起こしていた。くべられた薪枝と共に、真っ黒に煤けたポットが火の中から覗いていた。
「ああ、来たか」
「お昼持ってきたよ」
ボリジの姿はなかった。ヤギたちと共に草の茂るもう少し先にいるのだろう。最近生まれた子ヤギを連れた親ヤギと、つながれた数頭だけが近くにいた。
「先に昼をもらおうか。食べたら行くよ」
広げた敷物の上に持ってきた昼食を並べた。焼き立てのパンとジャム、さっき収穫したトマトや玉葱で作ったサラダ。卵を使ったおかずもあった。
父は早速大好きな甘いお茶を入れている。パンを千切りほうばると、幸せそうに目尻を下げた。
私もその横へ座った。
視野を広げれば、目の前には礫平原と言われる黄色い大地が広がっていた。その遥か何キロも先にあるのが砂平原、つまり砂漠がある。砂平原から吹く風に運ばれてくる砂によってできた乾燥した大地。そんな場所にも不思議とこうして草木は生えて、ヤギたちを放牧出来るこんな丘がある。
そんなことを考えていた私に気付いたのか、父が突然問いかけた。
「どうして砂漠ができたか知っているか?」
「昔話?」
「いや」
父はこうして、時々身の回りの話を聞かせてくれる。
「元々砂漠にはもっと草木が生えていたんだ。オアシスのように緑が豊かで、あらゆるものに恵まれた大地だった。ここら辺も、もっと緑が深かっただろう」
遥か昔何千年も前、地球の軸の位置が変わり、雨の降る場所が移動して乾燥地帯が増えた。木々が枯れ砂漠化が進んだ。と父は難しい話を簡単な言葉で語った。
「岩肌は風化し礫になり、崩れた礫は砂になって、風によって遠くへ運ばれる。この土地にもな」
草の生えた土を除け、手のひらへ砂を掬い上げた。握ると一瞬、固まったように見えた砂が指の隙間から舞い散るように落ちていく。
「パウダーのような細かなこの砂の一粒一粒が、元々岩肌だったと考えると途方も無い。昔話もまんざら嘘でもないな」
「うん……」
遥か昔のその昔
民に尽くし民に慕われた王様が居た
民は王様を称え
それはそれは立派な
山のように大きな彫像を造った
月日は経ち
王様が亡くなると民は悲しみに暮れた
彫像にすがり泣き
王様の死を嘆く民の涙は彫像の足を溶かした
やがて彫像は片足を失い
膝をつくように倒れた
倒れた彫像には草木が生え
しだいに山となった
時は流れ
彫像の存在を知る者も居なくなった
忘れ去られた彫像は風に浸食され
腕を失い
肩を失い
頭を失う
誰にも気付かれぬまま砂となった
風に乗り
飛ばされたその砂は
いつしか大地を覆いつくし
砂漠となった
父は大好きな甘いお茶をすすると立ち上がった。
「さて」
「後は私がやっておくから」
父は頷き、身支度を整えると、つないであった二頭のヤギを連れ丘を下って行った。
「ボリジ!」
寄り掛かるには丁度良さそうな礫にボリジはもたれ、顔をしかめ本を読んでいた。真剣で力の入ったその姿は、朝早起きをしている理由と同じ、進学試験の為の勉強だ。
呼び掛けに顔を上げた。
「ニゲラ……。お腹すいたよぉ」
今にも潰れてしまいそうなか細い声を出し、空を仰いだ。その様子が面白くて思わず笑ってしまう。
「下りて来て。お昼、すぐ食べられるから」
先にアカシアの木陰へ戻ると、後を追ってボリジは直ぐにやって来た。
草を丸めたヤギたちの餌を頭の上に載せ、駆け下りて来ると勢いよく落とし敷物の上に座り込んだ。座り込むのと同時に「お腹すいた!」とパンへ手を伸ばし、満足そうに目尻を下げた。最近、ボリジが父に良く似てきたとニゲラは思う。
昼食後、ヤギたちの様子を見ながら移動し、さっきまでとは違う木陰でゆっくり過ごしていた。
「その本、読むの何回目?」
「んー……もう何回読んだか忘れちゃった」
ずいぶん前に父が隣町で買って来てくれた長編作の本。どうやら中巻だったらしく、最初はちっとも内容が分からなかった。それから少しして、兄が上巻を買って来てくれた。やっと話の流れが分かったけれど……主人公がこの後どうなったのか、続きは分からないまま。
「ニゲラは嫌じゃないの?」
「何が?」
「この生活がだよ。ヤギの放牧。ここじゃ欲しい物だってすぐ手に入らないし」
私の本の続きのことを言っているのは分かった。
「ボリジは欲しい物があるの?」
「もちろん。いろいろあるよ!」
「そう、例えば?」
「例えば……スマートフォンとか」
「電話なんて、かける相手が居ないじゃない」
「そりゃそうだけど……」
兄が持っているのを見て以来、欲しいと思っていたようだ。けれど、「ここは電波が届かなくて使えない」と兄が言っていた。仕えるのは一番近くても隣町だ。
負け惜しみのように続ける。
「街に出れば必要だよ! ニゲラだって」
「欲しい物なんて、目の前にあるもので私は十分だから」
ヤギや羊が食む草に混ざって、紫や黄色の名も知らない小さな花が咲いていた。ヤギや私たちに踏まれても逞しく咲くとても健気で愛おしい花。鼻に届く甘い香りはその花の香りで、蜜蜂たちも盛んに飛び回っている。母が育てるバラやブーゲンビリアも綺麗だけど、こうして名も知らない自然の花も綺麗だ。枯れ枝が薪になるアカシアの低木は、私たちに束の間の休憩所を提供してくれる木陰をうむし、小高いここからは先に広がる荒原も見渡せた。その全ては今見ている私だけが感じる、私だけのもの。
「学校にだって行きたくないのか? 勉強したり、友達が欲しくないの?」
考えたこともなかった。
「勉強して仕事に就いて、兄さん達みたいに街で暮らしたいと思うだろ」
「私は……、ここでの生活しか知らないから」
「それを知る為に学校へ行くんだろ!」
「…………分からない」
知らなくて、いいこともあるのかも……。
学校には通ったことがなかった。けれど、街に出た兄や姉たちから教えてもらい読み書きはできる。本を読み、ニュースを見て、こことは違う世界があることを知っている。インターネットだってSNSだって、詳しくはないけど知っているし、便利だと思う。それでも、必ずしも必要なものかと言えばそうとは思えない。ただ暇を紛らわすだけのものならば、本当に必要なのか? 私に必要なのは、そういった情報じゃなくて、もっと身近な情報。
「こんな狭い世界オレは嫌だよ」
「この生活が私の世界だから」
たぶん。いいえ、これは確実に、私は両親が決めた人と結婚をする。子供を産んで、ここで生活してここで死ぬ。お母さんがそうしてきたように。おばあちゃんがそうやってきたように。ずっとずっとそうしてきたように、私はここの生活を続けながら守って、次の代へ繋げていく。それはずっと変わらない。
「こんな生活続けて何になるんだよ。毎日毎日同じことの繰り返しで」
その問いに答えられるだけの経験を私は持ち合わせていない。ただ、命は有限であって、出来ることにも限りがあること、その中でしなければならないことがあるというのを知っている。弟が街で暮らさなければいけないのなら、それが弟のしなければいけないことなんだ。
「ニゲラはさ、夢ってある?」
「夢?」
「そう、夢。将来なりたいものや、やりたいこと」
夢とはそもそも何なんだろう?
歳が三つ違うだけでボリジには、物心ついた時には既に夢という概念が自然に身付いていた。世界が広くて、将来や希望といったものが当たり前にあった。私が子供の頃には『夢』という概念が無かった。家の手伝いをし、そのまま仕事を引き継ぎ、そこで家族を持つ。結婚しても同じだった。子供を産み育て、嫁ぎ先の仕事をする。
けれど本を読むようになって知った。ここじゃない世界があることを。世界には人が大勢居ること。木々の生茂る山があったり、常に水の流れる河がある。大きな街には建物や乗り物がある……。
兄や姉たちも、学校へ通って初めてこことは違う世界があることを知ったはず。そして夢という存在を知り、今の生活を選択した。
「夢なんて……」
「夢も無いのかよ! それじゃ、宝物は。宝物はあるの?」
「ヤギたち」
「それは財産だろ。確かに大切な物だけど、そうじゃなくって、自分の宝物だよ」
「自分の?」
「そう、自分の!」
「ボリジはあるの?」
「今はまだ無い。でも宝物にしたい物があるんだ」
まだ無いと言っているのに、まるでそれを持ってでもいるかのようにどこか誇らしげだ。
「いつか、近い内にきっと、見せびらかすから!」
「それを、待っていればいいのね」
「それまではこの教科書が一番の宝物だよ」
何度も読み返しては書き込んだ教科書は、私の本など比ではないほどボロボロな姿だった。寝る時でさえ肌身離さず持ち歩く様子は、確かに宝物なのかもしれない。
帰る前に薪を集めて歩いた。落ちて乾燥したアカシアの枝だ。アカシアの枝は良く燃えて薪として優秀で、生乾きの枝は火付きが悪く、煙ばかり出て何とも言えずくさい臭いがする。でもこうして拾い集めた枝なら日干しにあい良く乾燥している。
ボリジはヤギたちの餌になる草を更に集め、一つに紐でまとめていた。
「夕飯の仕度の手伝いがあるから、私先に帰るよ」
「あぁ」
帰りの道すがらボリジに言われたことを考えていた。
私の宝物って、何だろう……。
今のルーと同じくらいの歳頃だった。父と隣町まで出掛け、産まれて初めて猫を見た。その猫は、白い体に茶色と黒のブチの入った三毛猫だった。本物の猫は思ったよりずっと小さくて、ヤギや羊と違って毛がふわふわだった。怖くて触れなかったけれど、可愛くて連れて帰りたかった。
「とうさん、あれがほしい!」
「猫か……。家にはヤギも羊もいるし、鶏もいるからな」
「そっかぁ……」
父は眉間を寄せ、あきらかな困り顔だった。私は何かを察したのか、その時は素直に納得をした。後から考えてみれば、捕まえて連れて帰ることにしていたらどれだけ大変だったか。けれど残念で、ふさいでいると、父はそんな私を見兼ねてお土産を買ってくれることになった。近くのお店に入ると、今見た猫と似た柄の猫のぬいぐるみが売っていた。迷うことなく声を上げた。
「これがほしい!」
ここで逃したらもう後がない! 幼いながらにそう思った。お土産を買ってくれると言って店へ入ったのだから、そんなはずはないのに必死だった。そうして買ってもらったのが、今も大切にしている猫のぬいぐるみだ。
大事な思い出のあるぬいぐるみが宝物?
初めて自分一人で織り上げた小さな敷物は?
最初に織り方を教わったのは覚えていないほど小さな頃だった。これといって織り方に決まりがある訳ではないけれど、母が教えてくれた通りだんだん目を揃えて織れるようになったのも、それからあまり時間は経っていなかったと思う。織れるということにあまりにも夢中になり過ぎて、指先が擦れて水ぶくれになったのも気付かず織り続けた。でもその甲斐あって、小さな、本当に小さな敷物が織り上がった。それは今も大事に棚の上に敷いてある。
それとも、父さんが買ってくれた物語?
いつも読んでいるあの本は、兄と姉に字を教わって間もなくの頃、隣町へ出た父が勉強にと買って来てくれた物だ。
長編の厚みのある本は、最初なかなか読み進めなかった。何年も掛け、ようやく読み終わり、内容を理解できるようになるまで更に時間が掛かった。
「この本、前のお話があるみたいなの」
街に出て暮らしている兄が帰った時、物語の内容を聞かせようと何気なく口にすると、それは驚いたような不思議な表情を兄はした。慌てて私から本を取り上げると、表紙を何度も確認しページを開いた。
「へぇー、そうか。読めたのか?」
「うん。何度も読んだ」
それから暫くして、兄は上巻をお土産にして帰って来た。他の物語も含めて、今は五冊も本がある。
母さんが贈ってくれた、シルバーに碧い石の入ったこのアクセサリーはどうだろう?
乱れた髪を耳に掛けてくれた母の指は、思う以上にゴツゴツしていた。
「よく似合うわ」
「うん……」
少し緊張していて、自分で嫌になるほど返事がそっけなくなる。もっと喜べればいいのに。
シルバーに碧い石の入ったピアスと指輪、幾何学模様が施されたバングルを母が贈ってくれた。成人になったお祝いに。それはいつか着る花嫁衣装の準備であり、私の財産にもなる。
普段外へ出ない母が父と隣町まで出掛けたのは少し前。このピアスと指輪とバングルを二人で選んできてくれた。特に母が気合いを入れ、思いを込めて選んでくれたらしい。とても綺麗で、両親の気持ちや、嬉しいのと成人した責任の重みと不安。私は暫くの間、付けたり外したりしながら何度も何度も眺めた。
それらがボリジがいう宝物なのか、本当の意味での宝物なのか。これだ! と自慢出来る物なのかは分からない。でも、どれも大切で、決して失いたくない大事な物だった。他にも、草花や風景、ヤギたち。大切なものがいっぱいあった。それを思うと、私はずいぶん大切なものに囲まれて生きている。と幸せな気持ちになった。
ストーブも兼ねたかまどの火加減が弱かった。丸い五徳の穴から中を覗き込み、薪を継ぎ足した。火かき棒で薪を整えると炎の勢いが強くなり安定する。
家へ戻り、母と二人夕飯の準備をしていた。
「さっきね、ボリジに宝物はないのかって訊かれたの。でもこれといって思い浮かばなかったの」
「あら、どうして?」
「だからどうしてだろう……? って考えてみたら、全部が私の宝物だったから」
「全部?」
「そう、全部」
母は不思議そうな顔をしていた。全部とは何をもって全部と言っているのかと思ったに違いない。
もう一つ訊かれたことがある。夢。ボリジには夢があるようだった。言わなかったけれど、本当は、私にも一つだけ夢がある。それは、街まで家族みんなで出掛けること。買い物をしたりレストランでご飯を食べたり。レストランでご飯なんて食べたことないから、緊張して、おいしいのかどうかも分からないかもしれないけど。街まで行けば海も見られるし。海はまだ一度も見たことがないから見てみたい。それから、そこで本の三巻目、下巻を自分で選んで買う。主人公のその後が知りたい。それには時間もお金も必要で、母はやっぱり外へは出ないかもしれないし、現実的とは到底言えないけど、それが私の夢。
少しでも夢に近付く為にはやっぱり、ボリジのように学校へ行くことも必要なのかな……?
豊かさの本当の意味って、何だろう……。
「母さん、あのね」
「うん?」
「明日からカゴや敷物をいっぱい編むから。そしたら、父さんに頼んで隣町で今まで以上に売ってもらえるように、頼んでみてもいいかな」
「何か必要な物があるの?」
心配そうに顔をしかめ、炒め物をしていた手を止めた。
「いいえ」
「必要な物があるならちゃんと言いなさい」
「必要な物はちゃんと揃っているから大丈夫。ただ」
「ただ?」
「もっと、やるべき事をやらなきゃって思っただけ。ボリジが勉強を頑張っているように、私も」
「そう」
放牧地でボリジと別れてからだいぶ時間が経っていた。
「ボリジ、少し遅いわね……」
パン生地を捏ねる母の横で呟いた。
「ヤギが逃げたのかしら。ニゲラ、陽が落ちる前にボリジを迎えに行って来て」
「ええ」
「父さんもそろそろ帰って来る頃だとは思うんだけど」
マントを手に部屋を出た。陽が落ちればたちまち気温が下がる。
中庭から階段を上り外へ出る。
陽が傾きかけた西の空と地平線。背を向けると、遠くからこちらに向かってラクダが近付いて来るのが見えた。
ラクダから人が降りる。父と背の高い青い民族衣装をまとった男の人だった。
一頭だけのラクダを見て、隊商と合流した場所から父が送られて来たのだと分かった。普通キャラバンは何頭ものラクダが列をなしている。一頭だけということは、父を送る為に列を離れたのだ。僅かに表情が読み取れる距離。向こうからもこちらの表情はまだ西陽の影にならず見えていたはず。
ラクダは膝を曲げ座り込む。背には荷解きされないままの大量の荷物が積まれていた。
「あれはオマエの娘か?」
男は一点を見ていた。その視線の先を追う。
「ん、あぁそうだ。もう十九になる」
「なら、もう結婚しているのか」
残念だ。とばかりに男は言う。
「いや、まだだ」
「そうか、それなら……」
二人は斜面に立つニゲラの姿を見上げ話を続けた。
家族以外の人と会うのは珍しく、直ぐに立ち去らなければということに、思いが及ばなかった。
キャラバンは遠くからしか見たことがなく、まして隊商の人となれば……。思わず見詰め、顔をさらしていることに遅れて気付く。私達は人前で顔をさらすことはない。私は頭に巻いたスカーフの裾で顔を隠した。
丁度そこへ、ヤギたちを誘導するボリジの声とヤギたちの騒々しい足音が砂埃を立て近付いてきた。
立っている私を見付け、ボリジが不思議そうな顔をする。
「ニゲラ、どうかしたの?」
私は首を横へ振った。
ボリジと共にヤギたちを誘導し、父たちの方へは背を向けた。
目を離した隙に頭突き合いを始めるヤギたち。ボリジの掛け声に一頭が竪穴の階段を下りると、他のヤギたちも続いていっせいに下りて行く。
一瞬の騒々しさがやみ、風に乗って父と男の人の話す声が聞こえてきた気がした。
驚いて振り返ると、夕陽に照らされてできた自分の影が何倍にも伸び、まるで父たちの元へ届きそうだった。けれど、声も影も届かないほど、まだ遠く礫平原に父と男の人は立って居た。
「ニゲラ、手伝ってよ!」
階段の下から声が掛かる。
「はーい、今行く!」
返事をしてもう一度振り返ると父がこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。
「父さん帰って来たー!」
階段の下を覗くと、母がボリジを手伝っていた。私の声に、了解の合図の手を上げる。
少し待つと、父は私が待っていることに気付き小走りに駆け上がって来た。
「待っていたのか?」
「ええ、姿が見えたから」
二人で、中庭へ続く階段を下りた。
こうして今日も、いつもと変わらず陽が暮れて行く。何事もなく、変わらず良い一日だったと感謝しながら。
空はオレンジ色に染まり、丘陵の輪郭を黒く浮かびあがらせた。紫、ピンク、オレンジのグラデーションの空に、流れる雲の合間から僅かに星が見え始めていた。
私は火を灯したランタンを横に置き、マントを肩に巻き付ける。冷たく、風の音だけが続く長い夜がやってくる。
世界の終わりがここにある。
終わり
(2021年5月 完 2022年1月 加筆)
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