9 私の居場所
明くる朝、リカルドに叩き起こされたミューは、いつも通りに窓辺に備えられた卓へ着いた。外から聞こえる高い声にバルコニーへ出てみると、エファルと共に庭を駆け回っているソラリスが居た。鬼ごっこのようなそれは、一座で皆がよくやっていた体力作りだ。
(王宮へ戻るっていう目的は達成してるのにまだ訓練するとか、真面目だなぁ……)
ぼんやり見ていたら目が合った。お前もこいというように手招きされるが、首を振る。散歩くらいなら付き合うが、朝から全力疾走なんてしたくない。
リカルドが朝食を運んできたので室内に戻る。手際よく配膳しながら、彼は低い声で尋ねた。
「……念のため聞くが、何もしてないな」
「してないよ」
「されてないな」
「されてないよ。裸は見られてるだろうけど」
「は⁉︎ おいそれどういう意味」
「は〜、お腹すいたぁー。ごはんごはん〜」
リカルドの怒声を遮って、のんきに歌いながらエファルが戻った。後ろには、肩にかけたタオルで汗を拭うソラリスもいる。
「お前の飯は下だ、ソルのを食おうとするな!」
飢えたエファルを引きずるようにして、リカルドは階下へ去った。二人になったので気楽に尋ねる。
「ソル、ご飯は? 一緒に食べる?」
「朝飯は一座で食うからいいや。浴槽使いたいから風呂かりていいか? あ、あとそれ」
卓上にあったパン用の蜂蜜の壺を摘むソラリスに、ミューは首を傾げる。
「好きなの? ……それだけ舐めるの?」
「いや。顔に塗って時間おいて流すと、すべすべになる。ちゃんと覚えとけよ」
「へ、へぇ……意識高いね……」
元が男で王子とは思えない発言に曖昧に相槌を打つ。すると、彼は叱るように言った。
「元に戻ってもちゃんとしろよ。ミュー、せっかくこんなに美人なんだから」
「びっ」
思わぬ褒め言葉に顔が熱くなる。もちろん今まで誰にも美人などと褒められたことはないが、今、目の前で口を尖らせる可愛らしい様を見れば否定もできない。
「……な、中身って大事だよね」
「今は外見の話をしてるんだけどな。まぁいいや、風呂借りるなー」
何でもないように言って、ソラリスは浴室へ向かう。
(私を褒めたつもりはきっとないんだ……うん、そうだよね……⁉︎)
跳ねた心臓を宥めつつ、ミューもようやく食事を始めた。
入浴を終えたソラリスはさっさと一座の宿場へ戻った。ミューも急いで支度を整え、式典へ向かう。今日の式典は午前中で終了の予定らしく、少しは気が楽だ。祝宴は途切れさせないことが重要らしいので連日行われているが、中休みということなのだろう。
今日は偉いおっさんの話のみで終了した式典の後、相変わらず眠そうなウルクと宮殿へ戻る途中で、食材の入った籠を両手に抱えたソラリスと行き合った。
「ソ……じゃなくてミュー、どうしたの? それ何?」
「昼食の準備中。今日はうちが担当なんだよ」
そういえば、一座が複数集まって行う祝宴などは大体そういう仕組みだった。
「そうだ、せっかくだから来ないか? 皆にも会いた……会ってみたいだろ?」
ウルクを意識して後半は言い直したソラリスの提案に、ミューは戸惑う。
「え——えっと……」
確かに皆には会いたいが、同時に怖くもある。どうせ、今の『ミュー』は、ミューよりうまく皆と関係を築いているだろう。それを目の当たりにするのは余りにさみしい。
言い淀むミューの迷いを見透かすように、ソラリスはいたずらっぽく目を細める。
「今さ、他の一座の花形に言い寄られててさぁ」
「……え⁉︎」
「王子様がご執心っていうのを見れば、さすがに諦めてくれると思うんだけど。押し切られちゃったらどうしようかなぁ。か弱い女子だし、不安だなぁー」
どこか覚えのあるやり口に、ミューは深いため息をつく。
「顔は似てないけど、お兄さんと似てるところもあるんだね……」
「ん? 何て?」
「何でもない。……わかった、行くよ。連れていって」
諦めを多分に含んだミューの言葉に、ソラリスは悪びれず笑う。抱えた籠を一つミューに押し付け、「こっちだ」と跳ねるような足取りでミューと、半分眠ったウルクを誘う。
少し歩いて着いたのは、普段はだだっ広い庭園なのだろう芝生敷の空間だった。そこに、国章のある大ぶりのテントが立ち並ぶ。テントの中には絨毯や家具なども置かれており、存外居心地がいいことはミューも経験から知っている。
宿場の中心にある、簡素な調理場の前には懐かしい顔があった。『鴉』の——今は『翼』の面々たちだ。
「遅いよ、ミュー!」
「どこまで行ってたのよ、ミュー!」
「えっ⁉︎ ご、ごめん!」
詰め寄ってきたサリとエリについ反射で謝ってしまった。双子はそこで初めて気付いたように、ソラリスの体のミューを同じ色の瞳でじっと見つめる。
「……? なに、この男の人」
「もしかして、ミューの朝帰りの原因ってこの人?」
「そうだよ。ソラリス……様。かっこよかろう!」
胸を張るソラリスに、双子は左右対称に首を傾げる。
「かっこいい……よりは美人って感じかな? カンナにドレス借りるといいよ!」
「そうね。悪くはないけど、もう少し逞しい方があたしの好みよ!」
「お前ら、失礼だろ、ミューの彼氏に! ……背は低くないし、背筋を伸ばして筋肉つければ舞台映えもすると思うぜ!」
「えっそういう評価なのか⁉︎ ほんとに……⁉︎」
双子と、湯の沸いた大鍋を運んできたジョンから口々に告げられた評価にソラリスが呆然とする。「鍛えさせなきゃ」などとこちらを見つめて呟いていて怖い。
「えっと……て、手伝おうか?」
これ以上余計な話になる前にと、誤魔化すように野菜の籠に手を伸ばす。具材からして昼食の献立はシチューか何かだろう。置いてあった包丁で手早く芋の皮を剥いていると、双子とジョン、そしてソラリスもまじまじと手元を見てくる。
「……あんた、お偉いさんだろ? やけに手慣れてるな」
「ちょ、ちょっと趣味で……」
「ミュー、記憶喪失になってから全然料理できなくなっちゃったから助かるね」
「お芋切るのに頭上から真っ直ぐ包丁振り下ろしたのはびっくりしたわよね」
「ははは、面目ない」
そんな話をしながら、ほとんどミューが作った気がするシチューが出来上がった。テントに持分を運んでいると、他の一座と演目の順番を決めていたカンナも戻る。
「……あんたが『ソラリス』ね。話はミューに聞いてるわ、ほどほどにね」
何と答えていいかわからず、曖昧に頭を下げる。カンナはつまらなそうに顔を背けた。
「いただきます!」
二人そろって元気に食べ始めた双子だが、次第にスプーンの進みが遅くなる。
「どうしたの? おいしくなかった?」
味はいつも通りに感じるが、料理をするのは久しぶりだったため自信がない。
ミューの問いに、サリとエリは顔を見合わせ、ぽつりと溢した。
「これ……」
「ミューの味に似てる」
「え……っ⁉︎」
しまった、と身を固くしたその時、すん、と鼻を啜る音がする。たちまちそれは嗚咽へ変わった。泣いているのはサリとエリだ。
「うえぇええ」
「うわぁぁん」
「え、あの……どうしたの⁉︎ 変なキノコとか入ってた⁉︎」
「……サリ、エリ、こっちに来い。ちょっと外で落ち着こう、な?」
狼狽するミューにそっと目配せを残し、ソラリスが双子を連れてテントから出る。
「……驚かせてごめんな。うちもちょっと、色々あってな」
双子を視線で見送ったジョンは、そこで、今の『ミュー』が記憶喪失になっていると打ち明けるように語った。以前の『ミュー』とは別人みたいになってしまった、と。
(それはまあ、別人だもんなぁ……でもなんで泣いたんだろ、サリとエリ)
そう語るジョンまでやけに悲痛な顔をしている理由がわからない。
「今のミューだって、もちろん大切な仲間だと思ってる。前とは全然違うけど、明るいし前向きで努力家だし踊りも上手いし度胸もあるし金勘定もできるし、これならカンナちゃんと二人で一座を引っ張っていけると思えるくらい逞しいし」
「……よかったことしかなさそうだけど、何か問題があるの?」
「問題っていうんじゃないが……寂しいと、思うことがあるんだ。体はあいつなのに、ここにいるのに——俺たちの知ってるミューがもう帰ってこないと思うと、やりきれないような気持ちになる」
意外すぎる告白に、ただ瞬くしかできない。ジョンは視線を外に向ける。
「サリとエリは特にミューに懐いてたから、そう思うんだろ」
「……え⁉︎ 懐いてたの? あれで⁉︎」
「なんであんたがそんなに驚くんだ?」
きょとんと問われても答えようがない。曖昧に誤魔化すミューに首を捻りながらも、ジョンは腕を組んで昔を思い起こすように言った。
「あいつら、前の一座ではひどい扱いだったからな。あったかい飯なんて食ったことなかったと思う。だから、毎日うまい飯を食わせてくれて世話してくれるミューに甘えてたんだよ。ミューが怒らないからって調子に乗りすぎてたけど」
「そうだったんだ……」
そういえば、会ったばかりの双子は痩せこけていて何も喋らず、人を信じない野良猫みたいな様子だった。ミューがびくびくしながら出したスープを飲んで「おいしい」と言ったのが初めて聞いた声だった気がする。その後、まだ元気だった母に構い倒されたり、ジョンをからかうことを覚えたりして少しずつ、元気に生意気になっていったのだ。
「変な話をごめんな。あんたは今のミューが好きなのに。……今の話は、ミューには秘密にしておいてくれると助かる」
黙って頷いたミューに、ジョンはほっとしたようにスプーンを持ち直す。
「あたしは別に寂しくないけどね」
静かに食事をしていたカンナが、唐突に口を開いた。
「あのままでいるならそれは、ミューが選んだことよ。ここに帰りたいと願うなら、元に戻るはずでしょう?」
鋭い言葉に、我知らず肩が震える。
戻りたくないと、帰る場所などないと、ミューは確かに思っていた。……今日、ここに来るまでは、確かに。
「カンナちゃん、記憶喪失はそんな簡単なもんじゃないんじゃないか?」
「うるさいわね、筋肉男に繊細な記憶の機微を語られたくないわ」
理不尽な罵りにジョンが悲しげな顔をした時、顔を洗ったのか、前髪を濡らした双子がソラリスと共に戻った。照れたようにこちらを見ながら、すっかり冷めてしまったシチューの続きを食べ始める。
「……僕たち、この味が好きなんだ」
「よければ、また作りにきてね」
「う、うん。……私の味でよければ、喜んで」
はにかみながら答えたミューに、双子は素直に嬉しそうな顔をする。
隣に座ったソラリスは、全てを見通していたように、ミューを見て満足そうに笑った。
食事を終えた帰り道、見送りにと一緒に宿場を出てきたソラリスは、考え込むミューの前を歩きながらひとり言のように言った。
「あそこはさ、ちゃんとミューの居場所だっただろ?」
「……ソルは、わかってたの?」
何もできないミューを、彼らは待ってくれていた。
ソラリスには——新しい『ミュー』には隠していたはずの彼らの心を、ソラリスは知っていたのだろうか。ずっと一緒にいたはずの、ミューには分からなかったのに。
「そりゃまあ、一年一緒にいたからな。羨ましいと思ってた。家族みたいで」
ソラリスにも家族はいるはずなのに、そんなことを言う。
今更ながら、どうしてなのかと不思議に思う。一座の皆の気持ちを察し、それを素直に羨む心もある彼が、『家族』に刃を向けた理由。
「早く帰してやりたいなぁ」
ミューのためか、一座の皆のためなのか、あるいはその両方のために、なのか。
やけに優しい声で願い事のように言ってみせるソラリスの気性と、レムに取った行動に、どうしても矛盾を感じる。
(聞いたら、答えてくれるのかな)
——わからないならそれでいい。昨夜彼はそう言った。
明確な拒絶は怖い。理解を求めていないなら尚更だ。だから、改めて聞くのを躊躇う。
「ま、戻る当てはまだないけどな。帰巣本能まだかなぁ、俺はある方だと思うんだけど」
「え? いやわからないでしょ、そんなの! さりげなく私のせいにしないでよ⁉︎」
唐突に責任転嫁されそうになり慌てるミューに、振り返ったソラリスは声を上げて笑った。やけに機嫌が良さそうなのは、ミューを励ますことができたからだろう。
「……ありがとう。皆の気持ちを教えてくれて」
ミューが押しに弱く流されやすいのはとっくにばれているだろう。説得の必要もないのに今日、こうして連れてきてくれたのは、単なる彼の親切心だ。
「私だけじゃ気付けなかった。……嬉しかった、本当に」
拙い礼に、ソラリスは「どういたしまして」と大きく笑う。
暮れかけた空より先に、彼の瞳に星が光った。
ちなみに、眠りこけたウルクを調理場に忘れてきたと気が付いたのは、翌朝、本人に聞いてからだった。
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