王子と踊り子
三桁
王子と踊り子
序章 ——1年と半年前
あれは夜中のことだった。
ふと目を覚ましたミューの手は、隣で眠っているはずの母にそっと握られていた。
「お母さん……? 何してるの。寝てないと、だめだよ」
「心配性ねえ、大丈夫よ。ロウソクは燃え尽きる前が一番明るいっていうけど、そんな感じで久しぶりに気分がいいの……って、ん? てことは、厳密には大丈夫ではないのかしら? まぁいっか、何でも」
寝ぼけた目を擦っていたミューは、枕元で可愛らしく小首をかしげた母の、いつもと同じ、冗談とも本気ともつかないとぼけた言葉に、それでも慌てて飛び起きた。
「と、とにかく、寝てよ! カンナに頼んで、お医者さんを呼んでもらうから!」
寝床を出ようとしたミューの手を、母はその場に留めるように強く握った。
「いいの。しばらく寝込んでわかったけど、これはやっぱり寿命なのよ。母さん、二百五十七年も生きたからね。こればっかりはしょうがないわ、うん」
「あのねぇ……! そんな悪趣味な冗談言ってる時じゃないでしょ⁉︎」
年齢不詳が売りの母の軽口に、ミューの声はめずらしく鋭くなる。心配だったからだ。
たしかに母は、病を患っているわけではないようだと一座馴染みの医者は言った。首をひねりながら「過労かねえ、まあ安静にしてなさい」と適当な診断を下した医者に、母は静かに頷いた。少しだけ困ったように、けれど、覚悟を決めてしまったように。
「冗談でこんなこと言わないわよ。親を何だと思ってるの、まったく」
むっとしたように口を尖らせた母は、すぐに気を取り直したように続ける。
「まあ、私はね。長々と生きたし未練はないけど、あなたを遺していくことだけが気がかりだわ。……ねえ、ミュー。覚えていてね?」
テントの小窓から差し込む月明かりを受けた母は、口元に微笑を湛え、小さく息を吸う。
「——…………♪」
母が奏でたのは、短い旋律だった。「この歌はミュー専用ね」と、ことあるごとに耳打ちするように歌ってくれた、詞のない歌。囁くような小さな声にも関わらずよく通る歌声が、薄闇に静かに溶ける。
座員六人のちっぽけな一座のくせに、『
歌い終えた母は、ふふ、と、今度は声を出して笑った。
「この歌は、いつかあなたを望むところへ導いてくれるわ。私がミューのお父さんと出会えたのも、この歌を聞いたあの人が、私に惚れて森から連れ出したからだもの」
それは歌自体はあんまり関係ないのでは、とも、亡き父との馴れ初め話は何度も聞いたんだけど、とも思ったけれど、ミューは黙って頷いた。少女めいた母の笑顔が、あまりにも透明に見えたからだ。なにか言ったら、たちまちかき消えてしまいそうなほどに。
「長い人生、苦労もけっこう多かったけど、なんだかんだで楽しかったわ。お父さんと出会って、あなたが生まれてからは、特にそう。……だから、ミュー。私のミュスカ。絶対に、覚えていてね」
同じ言葉を重ねた母は、ミューがもう一度頷くのを待ってから、こう言った。
「私はお父さんと恋をしてあなたが生まれた。私はあなたを愛してる。恋とか愛ってのはね、みんなが求めるだけあって、うまくやれば、なかなかどうして、いいものよ」
——だから、あなたもいつか、誰かにちゃんと恋をして、愛することを知りなさい。
一際鮮やかに微笑んだ母は、そっとミューの額にキスをした。
ミューの記憶はそこで一度途切れる。眠ってしまったからだ。
目が覚めたのはあくる日の朝。
枕元に俯せた母は、穏やかに微笑んだまま、二度と目を開かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます