最低気温
藍
最低気温
一人暮らしを始めて、約1年半経った。
ただいま〜と言って誰も返事をしないことにも、靴を脱いで家に上がる1歩目のフローリングの冷たさにも慣れた。手を洗ってうがいをし、まず1番にテレビをつける。
夜のニュースが天気予報をやっているところだった。
「今日は今週一冷え込む日となりました」と天気予報士が言う。
靴下とスリッパを履いているのに、足先がやけに冷たい。
私は今シーズン初めて、エアコンをつけた。
部屋着に着替えてフリースを羽織る。明日もこの寒さと乾燥は続くらしい。
ベッドに座ってスマホをいじる。しばらくそうしていたが、一向に部屋は暖まらなかった。
毛布を腰に巻く。
そろそろお腹が空いて来た。帰りにコンビニで買ったお弁当をチンしようと立ち上がると、腰に巻いた毛布がするりと落ちてしまった。
太ももがスッと冷える。裸になったわけでもないのに、ひゃあと声が出た。
毛布を腰に巻き直し、弁当をレンジにかけた。
ほっぺが冷気を感じる。本当に効いているのだろうか?もう一度リモコンを確認すると、確かに温度設定は20度になっていたのだが、まさかの冷房になっていた。そりゃあ暖まるものも暖まらない。
空腹と寒さでイライラして、思わず舌打ちをした。チッ、という音が響いて、胸糞の悪さだけが部屋に残った。
チン、と今度はレンジが鳴る。
ズルズル腰を持って毛布を引きずりながら台所まで歩き、レンジから取り出す。幕の内がいい感じになっていた。
箸を取り、コップに水道からそのまま水を注いで、弁当の蓋を開け、私は静かに手を合わせた。
「いただきます」
今日はパッとしない1日だった。
昨日夜更けまで起きていたせいで昼間はまともに頭が回らなかった。
その夜更かしも、別に何かあったわけではない。ゲームに熱中していたわけでも、読みたかった漫画を読み漁っていたわけでも、動画やテレビに釘付けになっていたわけでもない。ただ何となくダラダラスマホを見ていて、気付いたら朝日が昇る手前になっていたのだ。
大慌てで寝て、大慌てで起きて、特別な用事もなかったのに、余裕なく一日が過ぎてしまった。朝もまともに食べなかったから昼もテキトーなもので済ませて、途中でお菓子を買って食べてしまったせいで夜ご飯を作る気が起きず、こうやってコンビニ弁当を箸で突いている。
もう一度リモコンを確認する。今度はちゃんと暖房になっているのに、部屋は一向に暖まらない。足元から冷えてくる。
今度ホットカーペット買おうかな、でもお金ないしな……
幕の内弁当は好きだ。焼き鮭と煮物とお漬物と日の丸ご飯。ちゃんと温めたし、味は美味しいはずなのに、今日は味付けの濃さが虚しかった。水で一気に流し込む。まだ口の中のしょっぱさが気になって、水を汲みに立ち上がった。
眉間の少し上がプツッと固くて痛い。スマホの内カメラで見ると赤くなっていた。
水を持ってきて座ると、友達からLINEが入っていた。開くと背景が豪華に動いた。
「クリスマスはなんか予定ある?」というメッセージ。
「クリスマス」という言葉に反応した機能だろう。
そうか、もう12月だもんなぁ。
スケジュールを確認すると、イブも当日もバイトが入っていた。友達にお断りの返事をする。そして画面を下にしてパタンと置いた。
エアコンから風の音はするのに、部屋は全然暖まらなかった。
幕の内弁当も食べ終わって、空のプラスチック容器だけが残った。
何となくまだお腹が空いていた。
この前買って飲まなかった缶チューハイが冷蔵庫にあるな、でもつまみになる食べ物がない。2〜3分駅の方に歩けばコンビニがあるから、カルパスでもポテチでも買えるけど。
ほっぺが冷たかった。腰に巻いていた毛布を肩までたくし上げた。
去年も一昨年も、クリスマスイブはバイトだった。
小さい頃、当日よりも当日を迎える前の夜の方がずっとずっとワクワクしていた。
夜ご飯は最高だった。両親はいいワインを開けて、グラスでチンと乾杯して、私もちょっといいジュースを買ってもらって、一緒に乾杯した。母親が焼いてくれるチキンが毎年の楽しみだった。
お腹いっぱい食べて、胸弾ませながらベッドに入って、朝目覚めた時の枕元を想像しながら眠りについていたのだ。
去年も一昨年も、小さい頃はそうやってベッドに潜り込んでいたであろう時間に、まだ電車で帰路についていた。今年もきっとそうだろう。
青白いテレビを消した。
部屋には、窓の外から街灯の光が薄ら差し込んでいた。それでカーテンを閉め忘れていたことに気がついた。洗濯物も干しっぱなしだ。
私は思わず大きくため息をついた。
イブの日にワクワクしながらベッドに潜り込んでいた私が夢見ていた「オトナ」って、もっとかっこよくて、キラキラしてて、ずっと余裕がある人だった。
こんな些細なことでイライラしたり落ち込んだりしないと思ってたし、何をしていたか聞かれて答えられないような空白の時間なんてものは、まず知りもしなかった。
「あの頃に戻れたらな」
ぼそっと口に出した。
「あの頃に戻れたらなぁあ〜」
私はそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
寝転びながら考える。
サンタさんの正体を偶然に知っちゃってから、私は「オトナ」に強制送還された気がするのだ。やりたいことの他にやりたくなくてもやらなきゃいけないことがあることを知ったのは、いつだったかしら。
生きてるだけで人はお金がかかることも、月に一回血が出る体になったことも、別に望んだわけじゃない。
でも気付いたらとうの昔からサンタさんは来なくなっていて、その代わり私の人生は複雑になった。
このまま寝るにしても、流石に洗濯物干しっぱなしはまずいので、私はだる重い体を起こした。
低く唸る声が喉から鳴った。
窓を開けてベランダへ出た。
うちはベランダが河川敷に面したアパートで、ベランダから丁度川が見えた。
ハンガーにかけた洗濯物を一通り取り、洗濯バサミで止めて干していたものを取り込んだ。ハンカチが一枚ペラッと落ちる。私はそれをまた低く唸りながらかがんで拾った。
するといきなり、ドンッ!という鈍くてデカい音がした。
驚いて顔を上げると、赤い光の花が夜空に咲いた。
花火だった。
この川は結構幅が広くて、感染症が猛威を振るう前は、夏に花火大会で賑わっていた場所だったのだ。
去年と今年も大会は中止されたが、花火職人たちが告知せずに打ち上げることがあると、噂には聞いていた。
しかしまだ一度も実際に見たことはなかった。
湿気るし、やっぱり冬は越せないのか?などと考えていると、また綺麗な花火が打ち上がった。
こんなに間近で花火を見たのは初めてだった。
白、赤、黄色、緑。大きく咲いて、消えかける時に細かくパチパチ光るものもあった。
花火が上がるのと音がほぼ同時だった。
こんな特等席、他にないんじゃないだろうか。止めどなく打ち上がる花火を見ながら、私は胸ときめかせていた。
やっぱり、私は変わらない。
サンタさんを待ちわびていた頃も今も、花火は見れたらやっぱり嬉しいしときめく。
それにこの花火はきっと、「今年こそ」と夏の大会を夢見て作った職人さんの気合いがこもっているはずだ。泣く泣く大会は中止されたが、廃棄になるよりは、と打ち上げられているのだろう。「俺たちの仕事を見てくれ」と言われているような気さえした。
光の粒が整った花火が、まだまだ打ち上がった。美しい花火に照らされて、河川敷が少し明るくなると、花火台に着火する黒い人影が浮かび上がった。
その姿を見て、私は目頭が熱くなった。
あの頃の私に、この感動が分かるだろうか、とふと思った。
「オトナ」にならざるを得なくなって、気づいたら失っていたものは沢山ある。
だけどそれ以上に、いいなと思う出会いもいっぱいしてきたのではないだろうか。
連続で細かい花火が打ち上がり、最後に鮮やかな赤くて大きな花火が、バンッという大きな音と共に打ち上がって、告知なしの花火大会は幕を閉じた。
私は河川敷に向かって拍手をした。
彼らが職人さんだったのか、単に依頼された業者の人だったのか、ここからで拍手が届くのか、何も分からなかったが、とにかく大きく拍手した。
あなた達の仕事は、この私に届いてる。何人見てたかは知らないけど、この私にこんなに届いたよ。
拍手しながら思った。
今日は今からでもお風呂を入れよう。確か貰い物のバスソルトがまだ残っていたからそれを入れて、ゆっくり温まって、湯冷めしないうちに寝てしまおう。明日少し早く家を出て、駅前のスーパーでアドベントカレンダーを買うのもいい。もう12月に入っちゃってるけど、それでも構わない。だって数日分をまとめて食べるなんて贅沢は、あの頃知らなかったんだから。
家の中に入って、今度はちゃんとカーテンを閉めた。
部屋は暖房が効いて、ほかほかになっていた。
最低気温 藍 @htki100me
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