蝋燭

第1話

「火を消せ!」「中に人がいるのか?」「すごい煙」「何?火事?」「どうにかならないのか」「もう1時間も燃えてるわ」「消防隊は?」「現場から中継です!辺りは暗くなっていますが、炎の周りの住宅は赤く照らされています!」「燃え移るの?」「風が吹いたら大変だな」「怖い」


その夜、ある一軒の家が焼けた。


「株式会社マーメイド」といえば、日本で知らない者はいない大手食品メーカーだ。

俺はそこの社長をしている。

物を扱う仕事はいい。確実に手に取れるからだ。

俺は幻想や空想が大嫌いだった。手に取れない物を手に取れる物のように扱って崇めて、実にバカバカしい行為だ。

しかしある時、そんな人々の妄想にうちの営業が助けられたことがある。ネット上で「空飛ぶ女」が話題になった。曇り空の中、確かに女性が優雅に泳ぐように空を飛んでいる動画が投稿され、瞬く間に拡散されたのだ。

「CG?」「幽霊?」「何これ怖い」「ウケる」「え、うちの近所じゃん」

と言った、何ともチープな感想と共に広がっていったが、それは単にうちの会社のスーパーマーケットが、広告のために建物につけていたバルーンの紐が切れて、飛んでいただけだった。女性に見えたバルーンは、マスコットキャラクターの「マーちゃん」だったのだ。

しかしそのおかげで、うちのスーパーは名前が売れ、売れ行きも上がっていった。そして「お一人様から大家族まで」をモットーにした商品展開の的が当たり、今でもその売れ行きは右肩上がりである。

何とも皮肉だ。

人の心を掴む仕事をしていると、必ずそういった空想や幻想に夢見る心とぶち当たる。そしてそれに触れたら、営業に成功したのだから。

俺は新たな戦略を立てるため、取引先との打ち合わせに向かった。

後にも先にも訪れないようなド田舎の小さな無人駅で降り、目的地まで向かった。

打ち合わせは順調だった。予定より10分も早く切り上げ、俺は取引先を後にした。

うぅ、と伸びをする。今日はこれで仕事は終わりだし、せっかくこんなところまで足を運んだのだから、少し散策でもしてみるか、と思った。

しかし本当に何もなかった。

飯屋の一つでもあるかと思ったが、あるのはシャッターが閉まった店と田んぼと民家だけ。やれやれ、もう本当に二度とここへは来なさそうだ、と思った。

すると駅から少し離れたところに、お店のような出立ちの建物が一つ見えた。

中の明かりが、薄暗くなった夕方の道を照らしていた。

俺は気になってそこまで行ってみた。そこは小洒落たカフェのようだった。

俺は店の中へ入った。カランカラン、と扉についた鈴が鳴り、中へ入ると、そこは食べ物の店ではないことがわかった。

「いらっしゃいませ」

奥から女性の店員が出てきた。焦茶色のダボッとしたワンピースを着て、長い黒髪を下ろしている。

「ここは、何のお店なんでしょうか?」

俺が尋ねると、女性はにっこり笑って

「はい。こちらは、蝋燭の専門店でございます」と言った。

初めて知った。

そんな店があるのか。俺は店内を見渡した。

確かにそこには、色んな種類の蝋燭が並べられていた。いい香りのするものや、ドライフラワーが蝋の中に入っているもの、太さも長さも多種多様だった。せっかくだから一つ買っていこう、と思った。

「あの、すみません」店員に尋ねる。

「ここで一番おすすめの商品ってなんでしょうか?」

「ギフト用ですか?ご自宅用ですか?」店員は言う。

「自宅用です」

俺が答えると、店員は考える間も無く

「香り付きの蝋燭は人気商品ですよ。花の香りの他にハーブの香りがする蝋燭もございます。そちらは男性のお客様にも好評です」とササッと答えた。

その口ぶりに、こんなチンケな駅にある店なのに、人がそんなに来るのだろうか、と思った。客層はこの周辺の住人か?それともこの店に来るためにわざわざこんな場所まで客が来ているのか?いや、もしかしたらチェーン店なのかもしれない。通信販売の可能性も大いにある。などと考えていると、店員が言った。

「うちは通信販売もしていない個人店ですよ。私が1人で切り盛りしています。なのでここへ来てくださるお客様は、近隣の方々に加えて、わざわざここまで来て下さる方です」

俺は、それはすごいですね、と返しかけてやめた。背筋がゾクッとした。

俺は考えていたことを一言も口に出していない。

なのにこの女は、俺が疑問に思ったことを全て返してきた。

いや、でも別に誰でも考えることだ、きっと色んな客に聞かれて、これもおすすめ商品を言うようにテンプレが決まっているのだろうと思った。

しかし女は「そこまで深くお考えになる方はいらっしゃいませんよ。お客様は経営のお仕事をされてたりなさるんですか?」と微笑みながら言った。

「なんの真似だ。手品か?それともメンタリストか何かなのか?」俺は慌てて言った。

「そんなに驚かれなくても、別に恐ろしいものでも何でもありませんよ。相手が思ったことが聞こえてしまうだけ。人より少し喋り声が多く聞こえるだけのことです」

嘘をつけ、と思った。

そんなハッタリ信じるわけがない。

だがそんな馬鹿げたことを信じざるを得ないほど、女は言うこと一つひとつに疑う余地を見せなかった。女は言った。

「うちの蝋燭は、他とは少し違うんです。それは使わないと分からないので、言葉で言うのは難しいのですが、その違いが皆様から好評なんですよ」

そしていつの間にか持っていた蝋燭を、俺に差し出した。ハーブが蝋と一緒に固められた、細くて短い蝋燭だった。

「お試し用の蝋燭がまだ残ってました。まずはこれをお試しください」

俺は言われるがまま、気付いたらその蝋燭を受け取っていた。

「またのご来店、お待ちしております」

女は笑って俺を見送った。


気付いたら俺は自宅に帰っていた。

どう店を出て、何を使ってここまで帰って来られたのか全く覚えていなかった。

もしや今まで見ていたものは全て夢だったのではないか?そう思って鞄を勢いよくひっくり返すと、中から確かに打ち合わせをした書類と、小さなハーブが入った蝋燭がコロンと出てきた。

夢じゃない。

紛れもなく本当だった。

俺はそれをテーブルの上に置き、夕食の支度を始めた。


夕食を済ませ、電気を消して暖炉の炎の明かりだけにして、俺はソファーに腰を下ろした。寝る前のこの時間に、俺は毎日癒されている。

ふと、テーブルに目をやった。

お試し用の蝋燭が、真っ直ぐ立っていた。

「うちの蝋燭は、他とは少し違うんです。それは使わないと分からないので、言葉で言うのは難しいのですが、その違いが皆様から好評なんですよ」

女の言っていたことを思い出す。うまい商売文句だなと思った。そして無料でお試し用を渡して試させる。いいアイデアだなと素直に感心した。

感心して、今度は商品の出来が気になった。何がそこまで普通の蝋燭と違うのか。やはり匂いの質か?炎の色か?煙が出ない工夫がされていたりでもするのだろうか?俺は物入れからマッチ箱を取り出して、試しに火をつけてみることにした。

火をつけて、正直ガッカリした。確かに香りはいいが特別な何かも感じなかったし、炎も別に普通だった。なんだ、ただの売り文句か、と思った。

奇妙な体験をしたせいで変に身構えていたが、たかが無人駅のそばに佇むしがない蝋燭屋に過ぎないのだ。

俺は蝋燭の火を消した。

普通に煙も出た。

なんだ、本当に普通じゃないか。俺はやれやれと思い、蝋燭を手に取りゴミ箱に捨てようとした。

「挨拶もなしに、もうさようならなのですか?」

高くて響きのいい女の声が、泣きそうになりながら俺を引き止めた。

ハッと後ろを振り返ると、なんと煙が女の形になって喋っていた。しかもその女は下半身が魚のようになっていて、足先はヒレになっていた。

人魚だったのだ。

なんだ、夢でも見てるのか、と思い、俺は自分の顔を思いっきり何度も叩いた。

「やめて下さい、そんなに叩かないで下さい」

人魚は心配そうにこちらに近づいてきて、顔を叩く俺の腕を掴んだ。しかし触れるのは煙で感触はない。どうやら夢ではないらしかった。

「どうなってるんだ」

「私はこの蝋燭の煙から生まれたのです」

「それは分かってる。どういう仕掛けでそう見えるんだって聞いてんだ」

「仕掛けなんてございません。ただ私は、この蝋燭の煙と、貴方様の想像力で姿を現すことができたのです」

俺はその言葉を聞いて勢いよく怒鳴った。

「馬鹿にするな!俺が想像力に身を任せて、煙から人魚が生まれたらいいななんてアホみたいな夢を見たとでも言うのか?そんなわけないだろう!おかしな話をおかしいまままとめるな、きちんと説明しろ!!」

人魚はどんどん遠さがって、挙げ句の果てにシクシク声を殺して、静かに泣き出した。

「そんなにお怒りにならなくてもいいじゃありませんか。私はただ、貴方様との出会いを光栄に思うだけなのに」人魚は言った。

そしてその人魚が、実はとても見目麗しいことに気が付いた。

長く腰まである髪は豊かで、綺麗にカールしていた。煙のはずなのに、その艶やかさが手に取るように分かった。そして目鼻立ちもしっかりしていて、伏せ目にするとまつ毛の長さが一層引き立った。その長くて扇のように広がったまつ毛の下には、泉のように潤ってどんな宝石よりも美しく輝く瞳が、いっぱいの光を含んだ涙を溜めている。甘い果実のような唇、陶器のような肌。その肌は、一度触れたらどこまでも奥へ引き込んでしまいそうなほど柔らかさを帯びていた。

「すまなかった、ついムキになって声を荒げてしまった」俺は小さな声で言った。

「いいえ、いいんです。そんな勇ましいところも、貴方様の素敵な取り柄ですから」

人魚は涙を目に溜めたまま、にっこり微笑んだ。

「そろそろ夜も更けて参りました。明日も朝お早いんでしょう?今日はもうお眠りになって」

人魚は控えめに、また俺の方へ近づいてきた。

「ああ」と俺は力なく返事をした。

「おやすみなさい」と言って、人魚は身を翻し、ただの煙に戻ってしまった。

最近立て続けに仕事を入れすぎて、そういえば夜もまともに寝ていない日が続いていた。きっと疲労と寝不足で、らしくないことを考えてしまっているのだろう。これはいつかただの笑い話になる。そう思って俺は、言われた通りすぐ眠りについた。


それから数日は、蝋燭には触れなかった。

仕事が忙しかったのもあり、家に帰らない日もあったからだ。

しかしふとした時、あの美しい人魚が静かに泣く姿で頭がいっぱいになってしまっていた。

俺は心のどこかで分かっていた。

もう一度あの煙の人魚と対話したら、俺は元には戻れなくなる。

だから蝋燭を避けていた。

だけど捨てることはできなかった。

数日後の夜、俺はとうとうまた蝋燭に火をつけた。うちには蝋燭消しがある。それで消せば煙は出ない。だからもし心変わりがしたらそれで消そうと思っていた。

やっぱりやめておこう。

どうも嫌な勘がする。

しかもこの勘は、長年の経験上当たる感だと分かったのだ。

俺はソファーに置いた上着を取ろうと立ち上がった。するとその貧弱な蝋燭の火は、その風で消えてしまったのだ。蝋燭消しを慌てて手に持ったが遅かった。消えた蝋燭から煙が立ち上り、その煙はみるみるうちに人魚の形を成していった。

「ご無沙汰しておりましたね、お仕事お忙しかったのですか?」

人魚は俺を気遣った。相変わらず声まで美しかった。

「あぁ……まあな……」俺は曖昧に返した。

「お前は何も悪くない。ただ、俺の自分勝手で、どうにもこう、あれなんだ。だからその……お前は、何か俺にして欲しいことはあるか?」

俺は何とか言葉を選んで言ったが、彼女にはいまいち伝わっていない様子だった。

「いや、何でもない。簡潔にいこう。君は何か欲しいものはあるかな?俺にして欲しいことでも何でもいい。俺は少々金には余裕がある。どうだい、何か思いつくことはあるかな」

俺はできる限り明るく言った。

すると人魚は少し考えてから「名前が欲しいです」と言った。

「名前?」

「はい。私には名前がありません。どうか名前をつけて、私のことを呼んでください。『お前』なんて乱暴な言葉ではなく、私だけを、特別に」

「そんなことで傷つかせていたのか…それは悪かった」俺は小さくなって言った。

「いいえ、とんでもない。私達はまだ出会って日が浅いですもの」

顎を煙が伝う感触がして、顔を上げると人魚が俺の顎に手を添えて目の前まで近づいてきていた。

「そうだな」俺は彼女の名前を考えた。

「ジュリエット」俺は小さく言った。

「ジュリエット。それが君の名前だよ」

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