銭湯で戦闘

金澤流都

ストレスと疲労の溶けるお湯(上)

 秋田県というところはやたらと温泉の多い土地だ。玉川温泉みたいなガチの湯治場から、この「ほんわか湯」みたいな小さな公共浴場まで、とにかくとんでもない数の温泉がある。


 さて、きょうも夜八時。ほんわか湯は閉店の時間だ。都会の銭湯と違うのは、あまり遅くまでやっていないこと。深夜に入りに来るお客なんていない。そして、この「ほんわか湯」のいちばんの仕事が、閉店したあとに残っている。


 俺――温水幸康は、デッキブラシを構えた。これから、「男湯の決闘」が始まる。

隣にいる和泉湧介――こいつは牛乳やその手の飲料の会社のひとで、ほんわか湯に銭湯でおなじみのフルーツ牛乳やイチゴ牛乳、コーヒー牛乳、ふつうの牛乳など、もろもろの飲み物を納入しているのだが、ある日この「男湯の決闘」を目撃され、仕方なく仲間にしたのだ――は、牛乳瓶ランチャーを構えている。これは古い牛乳瓶を射出して、敵を木っ端みじんにするものだ。リサイクルとはいえこんな使い道で使われる牛乳瓶がなんとなく哀れである。


 そして「男湯の決闘」を続けてきた、番台に座ること40年のおっさん(しかしなぜか俺たち三人のなかでいちばんモテる)湯本春太郎は、水鉄砲を持っている。


 時計の針がぴったり八時半を差した。それと同時に、男湯の排水口から、にょきにょきと化け物があらわれる。こいつは、風呂屋で流されたストレスや疲れが固まったもので、俺たちはこいつと戦っているのだ。「ほんわか湯」の、「男湯の決闘」は、毎晩こうしてこの化け物と戦っている。


「行くぜ!」


 俺が最前線に飛び出す。化け物はおおーんと叫ぶと、グネグネとねじれながら俺たちに向かってきた。俺はデッキブラシで化け物の脳天を撃ち抜く。別の排水口から新手が現れ、そいつは湧介が牛乳瓶ランチャーから放った空き牛乳瓶で木っ端みじんになった。


「――きょうはいささか大物が出るびょん!」


 春太郎が水鉄砲を構えた。中身は風呂用洗剤である。ちなみに「びょん」というのは秋田弁で「~だろう」という意味だ。春太郎はずっと風呂場で戦っている。そのカンは侮れない。


 いちばん大きな排水口から、巨大な影がずぬぬぬぬ……と現れた。


 春太郎が水鉄砲を発射すると、影は実体を伴って、その長い腕を俺たちに向けて伸ばした。俺はデッキブラシで応戦するが、胴体を思い切り突かれて、一瞬すさまじい疲労が体を襲う。こいつらの攻撃を受けると、疲労を感じるのだ。なんせこいつらは疲労とストレスの塊なので。


「防戦一方だ――なにか策はないか?!」と、湧介が叫ぶ。


「実直にやるほかない! 頼んだ、幸康、湧介!」


「こいつ強い! やってやるど!」


 俺は一言そう叫んだ。強い敵、滾るでねが。デッキブラシで脳天を一撃する、相手はどさ、と倒れて、それからむくむくと起き上がった。


「幸康、そっち行ったぞ!」牛乳瓶を発射しながら湧介が言う。


「よおしまかせろ!」


 俺は全力で化け物の胴体に一撃を見舞う。


 化け物は、おおおんと叫んで、しなしなとしおれていく。


「――仕留めたか――?」


「いやまだだ。これでもくらえ!」


 春太郎が洗剤を撃つ。化け物はさらにしおれて、浴場の床のタイルの目にそって広がり始めた。


「こいつ――風呂場を乗っ取る気だ!」


 俺はデッキブラシを逆さに持ち替えた。春太郎が撃った洗剤で、シャカシャカとタイルを磨いていく。化け物は逃げ場を失い、「おおおん」と断末魔を発すると、ゆっくり消滅していった。


「――ふう。きょうも一仕事終わったな」と、春太郎がため息をつく。


「ご老体なんだから無理しなさんな」俺が春太郎に言うと、


「わしゃあまだ若いぞ。ギリギリ還暦いってないもん」と、春太郎は大人げなく言った。


「じゃあ、ひとっぷろ浴びますか」と、湧介。俺たちは脱衣所で服を脱いで、体を流してから源泉かけ流しの温泉に浸かった。


 染み渡る温かさ。疲れがぜんぶ流れていく。いや、俺たちが疲れを流してしまったらマッチポンプなのだが、化け物を倒した疲れは温泉でしか癒されない気がする。


 三人でとっぷりと、熱めのにごり湯に浸かる。


「はあー……生き返る」湧介がそう言う。


「死んでないんだから生き返るもくそもねえべした」俺がそう突っ込むと、湧介は、


「文学的感性のないやつと話すとかみ合わなくて困る」と投げやりにそう言った。


「あ、そうだ。お前さんらからも入浴料300円もらっていい?」


「「はぁ?!」」思わず喧嘩腰のセリフが湧介と一緒に出た。


「だって客は減るいっぽうだものよ。お前さんらからも入浴料取らんと経済が立ち行かない。それに300円、たった300円ぽっちだど? 都会の温泉施設見てみれ、すごい法外な金とるべした」


「……まあ300円くらいなら」と湧介が騙されそうになった。俺が、


「俺も湧介もここで働いてるんだから、貰うもんは賃金なり牛乳代なりで、払うお金は発生しないと思う」と切り返すと、春太郎はため息をついて、


「つまんないのー」と、これまた大人げないセリフを発した。


 こうして、きょうも温泉公共浴場「ほんわか湯」の平和は守られた。風呂上がり、全員タオル一枚で冷蔵庫からフルーツ牛乳を取り出してぐびぐびやる。うまい。春太郎はコーヒー牛乳、湧介はふつうの牛乳をぐびぐびやっている。


「いやあ温泉っていいなあ! 最高だ!」


 結局たどり着く地点はそこなのであった。


 さて、「男湯の決闘」のあと、俺はほんわか湯の奥の建物二階にある自分の部屋に向かった。俺は「男湯の決闘」のために雇われて、このほんわか湯で暮らしている。ぐいっと伸びをして、布団をひいて、体が温かいうちに寝てしまうことにした。明日は日曜日。いい年をして恥ずかしいが、仮面ライダーが楽しみだ。


 俺は子供っぽい性格をしているのだと思う。デッキブラシで化け物と戦うなんて、小学生みたいだ。だがしかしそれは小学生の考える楽しいことではなく、リアルでつらいことだ。温泉に入ってすべてリセットされたとはいえ、一撃喰らって疲労感に襲われるのは、ただ住み込みで働いている公共浴場の清掃員として生きるより数段重たいダメージだと思う。まあ俺は清掃員というよりは「男湯の決闘」のためにここにいるのだが。


 疲労感はとりあえずない。布団を被る。明日も早い。


 俺は翌朝、誰よりも早起きして、とりあえず開店前に掃除をする。きのうの化け物は、影も形もない。とにかく隅から隅までピカピカにして、いつでも開店できるようにした。


 ほんわか湯の奥の建物に戻り、トーストとコーヒーの朝食をとる。時計をみると朝六時。仮面ライダーまではだいぶある。しょうがないのでテレビをザッピングし、適当にヒマを潰していると、春太郎が現れた。


「おはようさん」と、春太郎があくびをする。


「おはよう」


「お前さん、また仮面ライダー待ちか?」


「おう。今期のライダーは銭湯が舞台なんだよ」


「初代リアルタイム世代としては、仮面ライダーが銭湯で働いているというのはよく分からないが……まあ、ゆっくり観てろ。わしゃ店を開ける」


 春太郎がほんわか湯の入り口の鍵をあけると、春太郎ファンのおばあさまたちが続々と入ってきた。春太郎はキャッキャ言われてもみくちゃにされている。モテるって大変なんだなあ。


 俺とは違う本職の清掃員さんがやってきた。こっちはほどほどのおばちゃんだ。


 だんだんと人が入ってきてにぎやかになりはじめた。それとほぼ同時に仮面ライダーが始まった。きょうもゆっくりと仮面ライダーを眺めて、それから戦隊も観て、将棋フォーカスと将棋NHK杯戦をよく分からないがとにかく見る。ほかにこれといって見るものがないのだ。


 昼飯を食べて、いったんお客さんのいなくなった浴場を掃除する。


 基本的に、男の清掃員というのはこういう公共浴場では受け入れられがたいものだ。だからお客さんのいない時間帯だけ、俺は清掃員として働く。


 日曜日の公共浴場は、平和な光に満ち溢れていた。


 きれいなお湯。磨かれたタイル。あたたかな脱衣所。


 それをぼーっと眺めて、ああ今日も夜には化け物と戦うのだなあ、と少しだけ切なくなる。ちらりと牛乳ケースを見る。うむ、きょうは足りなくはならないだろう。

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