#18.
「3年程前まで私は、自分よりも大切な人がいました。それまで恋人はもちろん、友達もいませんでした。その人はそんな私に、生まれて初めて手を差し伸べてくれた人でした」
「……うん」
普段は目を合わせて話を聞いてくれない彼なのに、今はこうして私の話を相槌を打ちながらじっと目を合わせて聞いてくれている。無意識なのか、私がそれを指摘すると、慌てて視線を外されそうなので私はそれを言う事はせずに続けた。
「ある日、この街で一番大きくて品揃えの多い本屋に行った私は、そこで家の鍵を失くすという失態をしてしまいました。その人は困っている見ず知らずの私を見て一緒に探してくれました。そして、その人が見事に家の鍵を見つけてくれたのが私たちの出会いのきっかけでした」
「うん、何か既に素敵な話だね」
「その人とは本の趣味も合えば好きなアニメや音楽も似ていました。他にも休日の過ごし方や好きな食べ物とかも。こんなに自分に似た人がこの世界にいるんだと本気で思っていました」
「すごいね。そんなに一致するんだ」
「人との接触が少なかった私は、それを信じきってしまいました。それに、とても優しい方だったので裏があるようにも到底思えませんでした」
「うん」
「私はその方と交際を始め、3年程一緒にいたと思います。同棲もしていました。その方は年上で頻繁に結婚の話をする方だったので、そろそろそういう話もあるのかなと思っていました」
「おぉ、そんなところまで」
ニケさんは気づいていないとは思うけれど、彼はバーでは見せる事のない表情を私に見せながら私の声を聞いてくれている。それだけで私は何故か泣きそうになってしまった。私は慌てて顔に力を入れた。
「けれど、迂闊でした」
「え?」
「その方は、ある日突然に私の前から姿を消しました。自分の所有物、それに私のお金や大切なものを全て持っていって。連絡先は私が電話をかける頃にはもう繋がらず、調べると名前も偽名だったみたいで。もう今どこにいるのかを知る事も出来ません」
「そ、そんな……」
話の展開が唐突すぎるのは自分でも分かっている。その変わり様に彼も衝撃を受けたようで表情も体も固まっていた。私は構わずに口を動かす。
「騙されたんです。いわゆる結婚詐欺というやつですね。あんなに長い時間を使って行われるものなのだとその時初めて知りました。人間という生き物は何て醜い存在なのだろうと、改めて思い知らされました」
彼は口が開いたまま、私の目を見つめている。彼の綺麗な目にこんなに長い時間見つめられた事のない私は、少し脈が速くなりながら視線を外した。
「そ、そんな事が……」
「2回目ですが私はその時、全てを失いました。お金や生活必需品はもちろん、感情や人を信じる心のようなものも。人としての全てを奪われたようでした。魂を抜き取られたような感覚に陥り、一瞬にして私は絶望の渦の中に放り込まれました」
彼の顔を再び見ると、今にも泣きそうな顔で目を潤ませて私の目を見ていた。眉間に皺を作り歯を食いしばって、息をすすり必死に涙をこらえていた。
「……ごめんなさい。私、こんな話をしてしまって。せっかくの良い天気なのに私の話なんかで暗くさせてしまって」
「そ、それは違う……!」
食いしばっていた彼の口が勢いよく開いた。うるうると滲んだ目で私を見つめる彼が、とても健気に思えた。
「は、はい」
「き、聞かせて」
「……いいんですか?」
「うん、その話、全部教えて」
必死にこらえながら私に言葉を届けてくれるニケさんに、私は改めて勇気をもらった。
「……分かりました」
私は再び深呼吸をした。この話をするのは彼で2人目になる。今更気づいたけれど、私もニケさんにはいつかこの話をこうやって聞いてもらいたかったのかもしれない。
「それから私は自殺を考えました。あの頃の私はどうやって死のうかを毎日、常に考えていました。でも、私の死体が見つかればおばあちゃんにも迷惑がかかるし、何よりおばあちゃんを悲しませたくなかったのですぐに見つかるような場所はやめておこうと躊躇いました。誰にも迷惑がかからず、誰にも見つからずに死ぬ事が出来る場所。それをちょうどこの公園で考えていました。あのブランコの所で」
私がブランコの方を指さすと、そのブランコの座る所には見慣れた白い猫と毛むくじゃらの猫がいつの間にかいて、私たちの方を見ているのに気がついた。
「あ、猫がいますね。もしかしたらあの黒猫もどこかに……」
あの黒猫もどこかに、そう思い辺りを見渡しても、やっぱりあの黒猫だけはどうしても見つけられなかった。
「ゆ、優子……。自殺、考えていたの?」
「はい。この世界にいたくなかったので。生憎、死ぬ事は阻止されましたけどね。それを阻止したのが、ニケさんもよく知る私たちの師匠です」
「え? 師匠?」
彼の表情が再び大きく変わり、普段は細長い切長の目が大きく丸くなった。
「師匠は言いました。『美しい女が泣いている気がした。オレはお前を救いに来た』って。実際は、私は泣いてなんかいなかったし、師匠の方もよくお酒が回っていたようでただの深夜徘徊をしていたようですが」
「あぁ。確かに師匠は店を開けない日は、いつもこの街を歩いたりしてるね」
「失うものが何もなかった私は、半分ヤケになりながらも、当時私の経験した出来事を全て彼女に話しました。縁もゆかりもない見ず知らずの顔が真っ赤の酔っ払いに。今思うとどうかしてますよね」
「うん、一歩間違えば変質者に話しかけていたかもしれないからね」
へへへと笑いながら師匠の顔を思い浮かべるように彼が目線を上に向けた。師匠の事を考えている彼の顔を見ていると、師匠とニケさんの仲の良さが自然と伝わってくる。
「顔を真っ赤にしていた師匠でしたが、私の言葉は彼女に確実に届いていました。真剣に私と向き合ってくれました。真剣に自殺を阻止してくれました。真剣にオレを『師匠』と呼べと言ってくれました。その日、その瞬間に私は人生で初めて涙を流しました。大好きだったお父さんやお母さんが亡くなった日にも必死で涙をこらえていました。私は強く生きていかなきゃいけないんだと自分に言い聞かせていました。今のニケさんみたいに歯を食いしばっていました。けれど、私を抱きしめてくれた師匠の体と言葉は、そんな私を全身で包み込んでくれるように暖かかった」
彼の涙腺は既に壊れていた。彼のこんな表情も本当に珍しいのではないだろうか。彼の流す涙は本当に綺麗で、涙で滲む彼の瞳は雲ひとつない真っ青な空のように澄み切っているように見えた。そんな彼の顔を見ていると私もつられてしまいそうになり、慌てて心を落ち着かせた。
「ごめん、僕が泣くのは違うと思っていたんだけど……」
「いえ、いいんです。むしろありがとうございます」
「……何でありがとうなの?」
「何ででしょう……。何か救われたような気がしたからではないでしょうか」
上手く表現出来ない私の言葉を聞く彼は、頬に流れる涙を拭きながら微笑んだ。彼のその笑顔は、あの時私を救ってくれた師匠の笑顔と重なって見えた。
「あの時の師匠も、今のニケさんみたいに微笑んでくれました」
「僕? 今、ちゃんと笑えてるの?」
「ええ、とても」
彼の笑顔を見ていると、私もつられて自然と顔の力が抜けた。
「その時師匠は私に言いました。『もしも今、お前の体が冷たかったらオレがお前を温める毛布になってやる。お前が起きようと思ったその時までくるまっていろ』って。何だかその言葉に笑えてきてしまって。実際にこんなクサいセリフを言う人が実在するんだなぁって思えて。そこから私は師匠のバーで働く事を決めました」
「ふふ、師匠がそう言っているの、何だか想像出来る。ちょっとクサいセリフとかね」
普段はお互い全然笑わないのに、いつの間にか笑顔になっている私とニケさん。これも結果的に師匠のおかげ。やっぱりあの人は偉大だ。
「師匠と優子の関係、初めて知った。それに優子の過去にそんな辛い事があったのも、初めて知った」
「こんな話、誰にも話しませんからね。何故かニケさんに話したくなって。そういえば、私もニケさんと師匠の出会いの経緯も聞きたいです」
それから私は、彼と師匠との出会いの物語を聞いた。それを聞いた私は、改めて師匠は師匠だと思った。さっき彼に突然聞いた好きな人がいるかという質問も、今日彼に聞きたかったけれど、今日はこの辺りで話を終わらせるのがベストだと思った私は、それ以降その話題を口にするのをやめようと決めた。そして日も徐々に傾き、辺りがさっきよりも暗くなり、気温が下がったのが肌でも分かる時間帯になった。さっきまであの2匹の猫も、いつの間にかこの場所からいなくなっていた。
「それじゃあそろそろ帰りましょうか」
「うん、そうだね」
私と彼は同じタイミングでベンチから立ち上がった。2人分の影が重なりながら目の前にぐんと伸びていて、それを見た私の感情が心の中で再び大きく動いた。
「優子、次はいつ出勤だっけ?」
立ち上がった彼が私の目を見つめて尋ねた。私は平常心を保ちながら彼の目を見つめ返す。彼はそれを受け止めるように私の目を見つめ続ける。
「明後日の土曜日ですね」
「じゃあそれまでにまた話、進めておくね」
「はい。楽しみにしています」
「あ、それと……」
「はい?」
「結構前からさ、敬語じゃない話し方をしてほしいって思ってたんだけど、難しいかな?」
私に柔らかい枕を渡してくるように優しい声を届けてくれる彼の顔は、やはりどこかあの黒猫に似ていた。そう思えるあざとさが彼の顔にはあった。
「すぐには難しいと思うけれど、努力してみようとは思います」
「ありがとう。僕も言葉、つまらないように頑張ってみるね」
私とニケさんはお互いに宿題を出し合って公園を出た。遠く思っていた彼との距離が今日のこの時間だけで驚く程近づいた気がした。3年前の出来事があってから、鍵に鍵を重ねて固く閉ざしていた心のドア。それを控えめにノックしてくれたように思えた彼をもっと知りたいと思う自分がいることに気づいた。私は、自分の中で一番好きなバラードを聴きながら帰り道を歩いた。ふと目線を上にやると、今日の月はせっかちなのか、オレンジ色の夕空を泳いでいて私を見守ってくれているようだった。
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