#11.

            ✳︎


 「おつかれさまでした」

 「おつかれ。今日もありがとう。ゆっくり休めよ。帰り道、気をつけてな」

 「はい。ありがとうございます。失礼します」


今日もバーでの仕事を終え、師匠へ挨拶を済ませてから店を出た。左手につけた時計に目をやると、時刻はすでに1時を回っていた。そんな時間でもガヤガヤ騒ぐ人の声や煌びやかに光る電飾たちは、眠るつもりは毛頭ないとでも言いたげにそれぞれが存在感を強調しているように思えた。私は人通りの無く薄暗い、まるで私しか知らない隠し通路のような道を通って家へ向かう。その帰り道に自分の好きな音楽を聴いて帰る。これが私のルーティンで、私が好きな時間だ。今日も頑張って生きる事が出来たね、偉いぞ。私。もう1人の私が慰めてくれるように音楽がイヤホンを通って伝わる。この時間に聴くスローテンポなバラードが私は大好きだ。空気が澄んでいる今日は空も綺麗で、いつもより月が大きく見えた。月は、毎日地球のことを見守っていると勝手に想像していると、何だかそれがとても愛おしく見えた。


 「いつもありがとう。今日もお疲れ様」


と、その月に向けて言葉を届けた。根拠は何も無いけれど、今日の月は私の事も見守ってくれている気がした。


 「ただいま」


控えめな音量で家に帰還報告をし、真っ暗な部屋の電気をつけた。今日はおばあちゃん、ちゃんと部屋で寝ているかな。この前は、電気をつけたら私の足元でおばあちゃんが寝ていて眼球が飛び出そうになった。その時ばかりはおばあちゃんを少し叱ってしまった。悲しそうな顔をするおばあちゃんを見て私はすぐに謝った。部屋に向かう途中、おばあちゃんの部屋を覗くと、今日のおばあちゃんは気持ちよさそうに布団の中で眠っていた。それを見てようやく私の心は落ち着いた。


 「今日もお疲れ様」


私の口癖はお疲れ様。そう言えるくらい、夜は頻繁にそれを言う。まぁほぼ独り言だけれど。煙草の匂いが混じったドレスを脱ぎ、体を清めるようにシャワーを浴びて身に纏ったにおいや化粧を落とす。それから髪を乾かし、部屋に戻り机の引き出しの中にある日記を取り出して今日あった印象的な出来事をそこに記す。そんな日課を終えてベッドに潜り込み、小説を読む。読んでいるのは私の好きな小説家の百合かもめさんの作品だ。感情を持たないロボットが、1人の人間と関わっていく事で感情を覚え、やがては世界を救う物語だ。かれこれ4周は読んでいる。私はこのロボットに自分と近い何かを感じて自分と照らし合わせていたりする。そうすると、より一層物語の世界の中へ入り込める気がした。

 ロボットといえば、2ヶ月ほど前にこんな事があった。私はいつものようにバーへ向かい、そこの扉を開けようとドアノブに手を伸ばした。すると、扉の向こうから師匠とニケさんの会話が聞こえてきたので扉を開けずにそのまま耳をすませていた。


 「今言ったロボ子って誰だ? ニケ」

 「う、うるさいな。今読んでる小説のキャラクターだよ」

 「なんだ、話の流れからして優子のことかと思ったよ。そうだとしたら、オレはお前のネーミングセンスを疑ってたよ!」


外にまで聞こえる2人の声はいつものように仲が良いように聞こえたけれど、師匠はニケさんの回答次第では怒るつもりでいたトーンだった気がする。


 「そ、そんなワケないだろ。その小説のキャラクターみたいに優子はいつも落ち着いているって意味合いで言ったんだよ」

 「そっか。確かに優子はいつも落ち着いてるな。てか、その小説オレも今度読ませてくれよ」


聞こえてくる声に笑い声が混じり出した時に私は扉を開けた。あの時のニケさんが言っていたロボ子が未だに少し気になるけれど私には確認する術がない。もしも彼が百合かもめさんが好きで、私と同じ作品を読んでいるのならロボ子は一気に私に近づく。何故なら、その物語に登場するのは男性の人型ロボットだから。それに、そもそも名前が似ている。気のせいかもしれないけれど、気にしだすとやっぱりそのことが気になる。いつか、そのロボ子が登場する作品を彼に教えてもらおうなんて意地悪な事を思いついた。まぁ思いついただけだけれど。ただ、もしロボ子が私の事であれば、それはそれで嬉しかったりする。これまでにあだ名なんてつけてもらったことがない私は、その呼び名でさえも愛着を感じそうだったから。それが悪意ならとても悲しいけれど。そんな事を考えながら結末を熟知している物語をキリのいい所で読み終えて私は今日も目を閉じた。


         ✳︎


 「優子ちゃん! 優子ちゃん!」


今日の営業を終えて掃除機をかけていると、背後からその音に負けないくらい大きな声を勢いよくかけられた。振り返ると京子さんが右手をぶんぶん力強く振って笑っていた。掃除機の電源を切り私は彼女の顔をじっと見つめた。彼女の目はいつも涙が出そうなほどうるうると輝いているのが魅力的だと私は思っている。


 「どうかなさいましたか?」

 「あ、あの! 優子ちゃんは好きな人っていますか!?」


右手に持っていた掃除機の持ち手部分を危うく足の上に落とすところだった。京子さんの言葉に動揺した私は慌てて拾い直して落ち着いた表情を作りながら京子さんの顔を見つめた。


 「京子さん」

 「な、何でしょうかっ!?」


京子さんの瞬きをする回数が明らかに増えている。彼女が動揺している時のクセだろうか。私は気になりつつも続けた。


 「この後、時間ありますか?」

 「こ、この後? は、はい! あとは家に帰るだけなのでっ!」

 「じゃあ公園でゆっくり話しませんか? 今はまだ仕事ですし、人の目もありますので」


今店内にいるのは私と京子さんと師匠だけだ。けれど、師匠に聞かれるのも少し恥ずかしいし、ニケさんも風花さんもいるだろうからここで話すにはさすがに気が引けた。私の提案に京子さんはぶんぶんと首を大きく縦に振った。


 「ぜひ行きましょうっ! けど、近くに公園ってありましたっけ!?」

 「ええ。私のお気に入りの公園があります。そこでもいいですか?」

 「も、もちろんですっ!」

 「よかった。じゃあすぐに片付けちゃいましょう」


スイッチの入った京子さんは、さっきよりもテキパキと動いていて私たちは普段の仕事終わりよりも早い時間に店を出る事が出来た。誰かと一緒にあの公園へ行くのも初めてだし、仕事終わりに誰かと時間を過ごすのも初めてだった私は妙に心臓が速く脈打っていた。コンビニで缶ビールとつまみのお菓子を買ってから私たちはあの公園へ足を踏み入れた。


 「わぁ! 何かアニメの映画に出てきそうな公園ですね!」

 「ええ。どこか現実離れしている空間に見えますよね」


ここへ夜に来たのは初めてだった私は、昼間とは違う幻想的な景色を目の当たりにした。たった1本の街灯だけが淡い光で照らしているベンチ。優しい風が吹き抜け、呼吸をするように大きな木が心地よく葉っぱを揺らす音が聞こえた。京子さんのように感情を表に出す事は出来ないけれど、私も心が大きく揺さぶられている。滑り台の上には白い猫と毛むくじゃらの猫が私の方を見つめている。ここの公園の守り神だろうか。少しの時間だけお邪魔させていただきますね。私よりも長生きしてそうな毛むくじゃらの猫に心の中でそう言ってから私たちはベンチの元へ再び足を動かした。


 「何か落ち着く明るさですね! この街灯の光!」

 「そうですね。不思議と車の音や人の声も聞こえないので一層落ち着きます」


隣に座る京子さんの体温がほんのりと風に乗って伝わってきた気がした。この2人きりの状況に私は改めて緊張してきたのか、頭が回らなくなってきた。沈黙の時間にならないように必死に頭を回転させる。


 「とりあえず、乾杯しませんか?」

 「うんっ! そうですね! やりましょう!」


ビニール袋から取り出した缶ビールを合わせると、べこんと鈍い音がした。プルタブを引くと、今から飲むぞという合図の音にも聞こえた豪快で爽やかな音が園内に響いた。


 「じゃあお疲れ様です!」

 「お疲れ様でした」


ぐびっとひと口啜ると、私の体の中を駆け巡るシュワシュワとした刺激が私の恥じらいを消してくれているように思えた。


 「くーっ! やっぱり仕事後のビールは最高ですな!」

 「ええ、とっても美味しいです」

 「優子ちゃんと2人でお酒を飲むの初めてだから嬉しいです!」


私が男性だったら、すぐにドキッとしてしまいそうな素敵な笑顔を私に向けて再びビールを飲む京子さん。彼女の笑顔を見ていると、今が夜中だという事を忘れてしまいそうになりそうだ。


 「私もこうして京子さんと話せてよかったです。ですが、すみません。さっきは話を途中で遮るような形になってしまいまして」

 「ううん、いいんですよ! 私が仕事中に話しかけちゃったのが悪いですし! 急にあんな事聞いたら優子ちゃんも困って当然です!」

 「困ったというか、驚きましたね」

 「えへへ、ごめんなさい! 優子なら的確なアドバイスとか言ってくれそうな気がして」

 「あまり経験は多くありませんが、私に出来る事でしたら何でも」


普段はこんな時間に絶対食べないポテトチップスに手を伸ばしてみた。程よい塩味とサクサクとした食感がとても美味しくて、すぐに手が動いてしまう。


 「ありがとうございます! じゃあ早速、さっきの話の続きですけど、好きな人はいますか?」

 「私は今のところいないですね。京子さんにはいる、という事でしょうか?」


彼を好きになっているとは思わない。確かに優しいし気配りも出来て、おまけに背が大きくて意外と頼もしい。けれど、歳が離れているのでどうしても男の人、というよりかは男の子という目線で見ている時間が多いので好きという感情ではない、はずだ。


 「そうなんです! 誰にも言わないですか?」


京子さんは真剣な表情でじっと私の目を見つめる。私もそれに応えるように表情筋に力を入れて彼女を見つめた。


 「はい。私、口が固いの長所ですよ」

 「優子ちゃんのそれは説得力ありますね! じゃあ、ぶっちゃけますね!」


覚悟を決めた京子さんは一度大きく息を吸い込んだ。何か凄まじい事を言われそうな迫力があり、私の体にも一層力が入った。


 「私ね、師匠が好きなんです!」

 「ん? 私も師匠の事、好きですよ?」

 「えー!? 優子ちゃんもですか! 強すぎるライバルが登場しちゃいました……」


京子さんは肩を落として分かりやすく落ち込んだ。それを見た私は、何か勘違いをしている気がしてきた。


 「そうですね、とても綺麗でありながら優しいですし面白いですし、私たちの面倒を見てくれています。私も大好きですよ。と言うよりかは他の皆さんも大好きだと思います。ニケさんも風花さんも真希さんも美咲さんも」

 「うん!? そうじゃないです! いや、そうだけどそうじゃないんですっ! 私の好きは恋愛面としてです! 恋人になりたいとかそういうやつです!」


恋愛面。恋人になりたい。京子さんの口から放たれたその言葉は、私の顔と心を熱くさせた。京子さんは師匠に恋をしていたのだ。それを聞いた途端、京子さんがとてつもなく乙女の顔をしているように見えてきた。


 「なるほど。それは全く気が付きませんでした」

 「普段はじゃれあうように話してますからね! 逆に私の気持ちに気づかれていたらビックリしてました!」

 「いつから師匠の事を?」

 「出会った瞬間からです! 私、キャバクラで働いている時があって。仕事の帰り道、常連だった客に強引にホテルに連れて行かれそうになった事があって……。力の強いその男の人に引きずられるように腕を引っ張られていたら、師匠がその手を振り解いて助けてくれました。どんな事情があったかは知らないが、女に乱暴するようならオレが黙っていないって。その男の人を返り討ちにした師匠が何も言わずに立ち去ろうとした時でした! 私の心に火がつきました!」

 「……何ともドラマチックな話ですね」


目を輝かせながら話す京子さんの顔は、普段よりも数倍可愛く見えた。今の話を聞いただけで、師匠の偉大さが伝わってくる。京子さんが惚れるのも納得する。


 「バーを経営しているという話を聞いて、私は必死にそこで働かせてもらえるよう頼み込みました。何度も断られましたが、最後は折れてくれて今は優子ちゃんやみんなと一緒に働けています! いつもドジばっかりですけど」


てへへと笑う彼女の顔を見ていると、私も自然に顔の力が緩んだ気がした。


 「みんなの師匠っていうのは分かっているんです。でも、私の中では日に日に師匠の存在が大きくなっているんです。どうしようもないぐらいに。師匠の顔が見たくて、いつもあの店に行っているようなところもあるんです」


落ち着いて話す京子さんの声は、今にも泣き出しそうに震えている。こんなに下を向いている京子さんを初めて見た。私はすかさず、彼女の両手を包み込むように自分の掌を重ねた。


 「ゆ、優子ちゃん!?」

 「自分の中にある感情に蓋をするべきではないと思います。皆さんの事を気にかける京子さんの気持ちも理解出来ます。それでも、京子さんの本当の気持ちは師匠に伝えてもいいと思います。寛大で優しい師匠ならきっと京子さんの気持ちに応えてくれると思います。それに、師匠は可愛い女の子が好きですからね」

 「そ、そうかな? てか、優子ちゃんに可愛いって言われたら嬉しすぎてやばいです……!」

 「今は無理でも、いつか師匠にもその気持ちが届く時が来ると思います。京子さんはとても素敵な女性ですから」


京子さんの目からはぶわっと大粒の涙が溢れ出した。それに動揺した私は急いで、バッグの中からハンカチを取り出した。


 「ご、ごめんなさい! 私……」

 「ううん! 私、優子ちゃんに話せて良かったですぅ〜!」


涙を流しながらにんまりと笑う彼女の目頭をゆっくりとハンカチで拭った。


 「優子ちゃんっていつも思うけど、完璧人間ですよねえ〜!」

 「完璧人間?」

 「すっごく綺麗だし可愛いし、上品だし、されていて優しいし! 私が師匠以外を好きになるとしたら、絶対優子ちゃんを好きになっちゃいます!」

 「私はそんな、大それたものではありません。それをいう言うなら、京子さんこそ愛嬌もあって可愛いですし面白いですし、何も言う事がありませんよ」


私がそう言うと、京子さんはしばらく私の顔を見つめたまま石化したように動かなくなった。口を開けたままぼーっと私の目を見つめている京子さんを見ていると私も焦った。


 「き、京子さん?」


私がそう尋ねた瞬間、ガバッと私に覆い被さるように私は彼女に抱きしめてられていた。彼女のふわふわした髪が私の鼻にかかると、ほのかにレモンのような爽やかな香りがした。誰かに抱きしめられたのが初めてだった私は京子さんを困らせないように必死に平常心を保った。心の中ではすごくドキドキしているのは私だけの秘密だ。


 「私、今日優子ちゃんと話せて良かったです」


落ち着いたトーンで私の耳元でそう言った京子さんの声。私も彼女に応えるように彼女の背中に腕を回した。私の背中の2倍くらいありそうな広い体周りを、私も精一杯腕を回した。京子さんの体はとても暖かかった。


 「私もですよ」

 「ねえ、優子ちゃん」

 「はい。何でしょう?」

 「敬語やめませんか!?」

 「……検討してみます」

 「ふふ、うん! 検討してみてください!」


私たちが公園を出て別々の帰り道に歩き出した頃には、今日も大きな満月が私を見守ってくれているように真っ暗な空を泳いでいた。それを眺めていると、師匠への想いを心の中に抱く京子さんが頭の中に浮かんだ。恋愛。それがどういうものなのか、私は未だに分からないから彼女が羨ましく思えた。

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