鴇田川高校私設探偵事務所

異儀田禎夫

女子生徒を狙う影

『本日、金融業界最大手の市川グループが、二番手の恩田株式会社との合併を視野に入れていることがわかりました』

 午後四時過ぎ、放課後。本棚と古い本で雑然としている部屋の中、ラジオのニュースを聞き流しながらおやつのバナナを食べる少女と、スマホゲームに熱中する少年が一人。換気目的で開けている窓からは、午後の日差しが深い角度で差し込んでいる。

「リクヤ、“葱坊主”の件はどうだ? 何か進展はあるか?」

「いいや。言われた通り日曜に張ってみたけど、これが全然」

 食べ終わったバナナの皮をゴミ箱に捨てた彼女は、机を挟んで向こうにいる彼に問いかける。投げかけられた側はこれに対し、スマホから視線を外すことなく進捗を報告する。彼の表情が依然険しいままなのは、進展のない案件に焦っているからなのか、それともプレイ中のゲームが難しいからなのかは定かでない。

 鴇田川ときたがわ高校といえば、偏差値や部活動、進学実績等どこを取っても平均ド真ん中ということで近所では有名な高校である。敷地内に三棟ある校舎の内、一番人気の少ない旧校舎の三階、廊下の突き当たりにある資料準備室に、彼女らはいる。『鴇田川高校私設探偵事務所』と書かれた看板が掲げられたこの教室は、現在学校には無許可で占拠している形になっているが、“鴇田川高校創立以来の天才”と噂されている彼女が立ち上げたことに加え、これで多くの生徒が利用していることもあって、学校側は退去命令を出すことに二の足を踏んでいるのが現状だ。

 そんな事務所には、現在二名の生徒が在籍している。一人は探偵のひいらぎ志寿玖しずく。前述した“鴇田川高校創立以来の天才”とは彼女のことであり、この事務所を立ち上げた張本人でもある。天才と称される通り、学業成績は体育や副教科を含めても断トツで、肩まで伸ばした暗い茶髪と赤みがかった瞳が特徴の端正な顔立ちの彼女は、まさに才色兼備と表現するに相応しい。もう一人は鳴嶋なるしま陸八りくやといい、柊の助手を務めている。彼は柊と違ってザ・鴇田川高校の生徒といった感じで、この事務所にいるのも小学校からの幼馴染みである彼女に半ば強引に誘われてのことだった。自分には何も無い、が口癖の彼だが、小学校時代は地元のリトルリーグに、中学時代には卓球部に所属していたこともあり、主に体力面で柊の活動を補佐している。

「うーん……」

「なんだなんだ? また進まなくて悩んでるのか?」

「いや、大丈夫。今回は自力で……」

「そんなこと言って、またクリアできずに報酬を取り逃がすんだろう? 代わりに私が解いてやろう」

「いや、今回こそ本当に自分で……」

「貸してみろ! 私ならできる!」

「イヤだ! ゲームは自分でクリアしてナンボなんだ!」

「あ、あの……」

 いつの間にかスマホの奪い合いに必死になっていた二人は、女子生徒の申し訳なさそうな一声で、ようやく来客に気付くのであった。



「先程は醜い姿をお見せしてすまなかった」

「い、いえ、大丈夫です……」

 慌てて女子生徒を通し、ソファに座らせる。彼女にお茶を差し出した鳴嶋が、対面に座る柊の隣に着席すると、面談は開始される。

「では、差し支えなければ学年とお名前をお願いします」

「私は二年の水井みずい澄香すみかです。同級生だし、もしかしたら知ってくれてるかもしれないけど……」

 彼女の言葉に、鳴嶋が横目で柊を見る。目を閉じて小さく頷く柊を確認すると、話を続けさせる。

「もちろんです。それで、ご依頼というのは……」

「実は私、最近誰かにけられてるみたいで……」

 彼女――水井の話によると、二週間前から下校中に何者かの気配を感じるようで、今回はその正体を突き止めてほしいとのことだった。水井は通学手段として電車を利用しており、降車駅から自宅までの間、背後から尾け狙うようにそれは現れるそうだ。

「なるほどな。何か心当たりは?」

「それが、特に無くて……」

「心当たりの無い人間に付き纏われる……。確かに怖いですよね」

「できれば、身辺警護として下校に付き添いたいんだが……。それはかまわないか?」

「え、えぇ! ぜひお願いします!」

 今日一番の声量で頼まれた二人はこの日、水井と一緒に下校をすることにした。



(電車って時点で覚悟はしてたけど、どんどんウチから離れていくなぁ……)

 夕暮れ時。依頼人の水井に、身辺警護として下校に付き添う柊と鳴嶋。二人の居住区とは正反対の方向に走る電車に揺られながら、鳴嶋は一人そんなことを考える。

「へーっ! 二人は小学校からの仲なんだ!」

「あぁ。家も近いし、昔からよく遊んでたんだ」

「そうなんだ~」

 吊革に掴まる鳴嶋の前では、並んでシートに座る柊と水井が女子同士で会話に花を咲かせていた。特に水井は事務所での様子と違って、砕けた態度になってきている。

「じゃあさ、二人は付き合ってるの?」

「えっ!?」

「!?」

 歳相応の笑顔を見せる彼女にひとまず安心していた二人だったが、突然の爆弾発言にぎょっとしてしまう。

「……い、いやだなぁ~! こんな高慢ちきが彼女だなんて、体がいくつあっても足りませんよ」

「ふん。私だって、お前みたいなウル凡なぞ興味ないわ」

「なっ、なにをぅ!」

(うるぼんってなんだろう……?)

 柊が口にした謎の単語に水井が引っ掛かっている間にも、二人の痴話喧嘩は止まらない。

「あぁ~ごめんなさい! 変なこと聞いちゃって!」

 憎まれ口を叩き合う柊と鳴嶋をなんとか宥めながら、さすがに踏み込みすぎたと反省する水井。熱くなりかけていた二人も、依頼人に心配されてしまったことで冷静になる。

「いや、こちらこそすみませんでした。お見苦しい部分を見せてしまって……」

「まぁ、私達は幼馴染み兼、探偵と助手って感じだな」

「それこそ、そちらは彼氏とかいらっしゃらないんですか? 見たところ、すごくかわいらしいですが……」

 空気を変えようと、鳴嶋が話題を切り返す。水井贔屓ともとれる彼の所見に、幼馴染みから突き刺すような緋色の視線が飛んできているとも知らずに。

「わっ、私にもいないよ! かわいくないし背も低いし頭も良くないし! でも……」

「でも?」

「憧れの人なら、いる……かな?」

「どのような方でしょうか?」

 少し恥ずかしかったが、先程の触れてはいけない部分に触れてしまった負い目もあって、水井は正直に語り出す。

「えっと、だいぶ前に駅で会った人なんだけど、私がホームで落としたハンカチを拾ってくれた人なの。大事なハンカチだったから、それを拾ってくれたのも嬉しいし、渡してくれた時の彼の白い歯と、でも若干影のあるイケメンって感じが最高で……」

「な、なるほど……」

 堰を切ったように溢れ出す親切な男性への想いに、少したじろぐ鳴嶋。滔々と彼への想いを語った水井は、そんな鳴嶋の様子に慌てて話を締める。

「だから、また会ってみたいなぁって……」

「逢えるさ。そうして願っていれば、向こうにも想いが届くもんだ。こういうのは、運命で決まっているからな」

「相変わらず、恋愛に関してはロマンチストなとこあるよな」

「うるさい」

 幼馴染みの余計な一言を柊が短く切り捨てると、水井の自宅の最寄駅がアナウンスされた。

 電車から降りて空を見上げると、既に暗くなり始めていた。

「駅から自宅まではどれくらい歩きますか?」

「二十分ってところかな」

 彼女の自宅まで三人で歩いて向かう途中、そんな話をしながら駅前の大通りを左に曲がると、景色は一瞬にして住宅街に変わる。いつもこの辺りを過ぎてから気配を感じ始める、というのが水井の話だった。

 雑談を続けながら五分少し歩いたところで、相手が自分達の存在を警戒して、今日は現れないのでは……と二人が思い始めた、その時だった。

「リクヤ! 西の方向だ!!」

「おう!」

 何かを察知した柊が短く叫ぶと、呼応するように鳴嶋が走り出す。彼が走り出した方向には、慌てて逃げ出す黒い影。

「待てーーっ!!」

 緊急事態に響き渡る鳴嶋の怒声に、水井が怯えながらも心配そうに彼を目で追う。

「あの、鳴嶋君一人で追いかけて大丈夫?」

「大丈夫だ。アイツはあれで頑丈だからな。仕留めこそすれ、返り討ちに遭うことなんてまずない」

 柊の言葉通り、鳴嶋は現場から二百メートル先で男を取り押さえていた。

「お前だな!? ずっと女の子を尾けてたのは!」

「そっ、そうだ! だから一旦離して!」

「お、捕まえたようだな。しかし、あの距離から追いついて捕らえるとは、さすが“鴇田川の韋駄天”と呼ばれるだけのことはあるな」

「呼ばれてない呼ばれてない」

 安全を確認して近づいてきた柊の出任せが生んだ二つ名を否定しつつ、鳴嶋は抵抗しないと判断した男の手を放す。

「あっ、あなたは!」

「知り合いか?」

「この人だよ! 駅でハンカチを拾ってくれた男の人!」



「僕は、恩田おんだ界斗かいとっていいます」

 服に付いた砂埃を払った後、男はそう名乗った。彼の着ている落ち着いた藤色のブレザーは、お金持ちの男子校である英郷えいごう学園のものだ。

「最近、親と言い争うことが多くて。それでむしゃくしゃしてた時に、駅でハンカチを落とした女の子に渡したら、その時の笑顔がすごく眩しくて……。今思えば愛想笑いだったんだろうだけど、その顔がどうにも忘れられなくて……」

「そういうことだったんですね」

「なるほど。金持ちの坊ちゃんも大変ってことか」

「ちょっと! 声に出てる出てる!」

「いいですよ、慣れてますから」

 柊の失言にも苦笑いで済ました恩田は、姿勢を正して、水井の方へ向き直る。

「不快な思いをさせてしまって、本当にすみませんでした!」

「いやいやいいんです! あなたで良かったって思ってますから!」

 深々と頭を下げて自身の行いを謝罪する恩田を、水井が大袈裟に止める。

「私も、またあなたに会いたいって思ってましたし……」

「……へ?」

「だから、顔を上げてください」

 予想外の言葉に、恩田はおそるおそる身体を起こして、彼女の顔を見つめる。

「恩田さん。よかったら、私と友達になってくれませんか?」

「は、は、はい!! 喜んで!!」

 嬉しさを爆発させる恩田と、早速連絡先を交換する水井。彼らの様子に、柊も鳴嶋もほっとひと息をつく。

「今回はこれで無事に解決かな」

「ひとまずは、だな」





『それではみなさん、また明日~~!』

 ストーカー騒ぎから一ヶ月後。鴇田川高校旧校舎三階端の資料準備室には、今日も二人が居座っていた。開けっ放しの窓のすぐ側に置いてあるラジオからは、パーソナリティの元気な声が聞こえてくる。

「そういえば、水井さんの件はあれから何かあったのかな」

「いや? 今は恩田が水井の登下校に付き添ってるようだが、何も情報が無いってことは、そういうことだろうな」

「か~っ! あのお坊ちゃま、ちゃっかりしてやがんな~!」

 水井への付き纏いが他にもいるかもしれない可能性を考慮し、引き続き警戒しておいた方が良いという話に、恩田がボディーガードを名乗り出て、現在もその関係は続いている。恩田が見せるその積極性に、鳴嶋は唇を噛んだ。

「あの辺は駅前ながら人も少ないし、女の子一人で歩くには元々危険だからな」

「うーん……俺にもそれくらいの勇気が必要なのか……?」

「何か言ったか?」

「や、別に」

 聞かれたくない独り言まで拾われて、つい顔を背ける鳴嶋。

「……しかし、懸念は残るな」

「懸念って、水井さんに?」

「いや、恩田の方にな。上手くは言えないが、何かもうひと波瀾ありそうな……」

 窓の外、広いグラウンドを眺めながら、柊が言葉尻を濁した直後だった。

「すみません! まだやってますか!?」

「あれ? 水井さん? そんなに慌ててどうしました?」

 噂をすればなんとやら。事務所には久しぶりの登場となった水井だが、今の彼女はやたらと息が上がっていた。

「恩田君と、もう三日も連絡がつかなくなっちゃって……!」

 来客用のお茶を準備しようとした鳴嶋の手が、ピタリと止まる。

『今日午前十時、市川グループと恩田株式会社の合併が近く実現すると、両代表から発表がありました』

 静寂を埋めるように流れるニュースが、矢となって柊の胸騒ぎを貫いた。

「どうやら、懸念では終わらなかったようだな」

「へっ、まさか」

「リクヤは今すぐ英郷学園に行って、最近の恩田の様子を聞いてきてくれ!」

「わ、わかった!」

 指示を受け、身一つで事務所を飛び出す鳴嶋。一方の柊も、通学用カバンに荷物を詰め込みはじめる。

「あ、あの、柊さんはどこへ……?」

「自宅に戻る。準備は早い方が良い」

「私にも、手伝わせてください!」

 水井の叫びに、鳴嶋のカバンを持った柊が振り向く。

「恩田君は、私の恩人だから……。次は私が助けたいんです!」

「……ふっ、ついてきてくれるか?」

「はい!」

 強い覚悟を感じるその瞳に、柊も彼女の願いを聞き入れるほかなかった。



「ただいま」

「おかえり~」

 柊が玄関の戸を開けると、間延びした返事が聞こえてきた。水井と二人で居間に入ると、柊の姉、安嘉理あかりが笑顔で出迎える。

「あら、後ろの子は?」

「あっ、み、水井澄香っていいます! おじゃまします!」

「あなたが澄香ちゃんね」

 ノートパソコン越しに妹の方を見ると、知らない顔が一人。安嘉理は妹に尋ねたが、本人が自己紹介してくれた。

「さっきメールを送った通り、彼女の採寸をしてほしいんだが……」

「採寸?」

「大丈夫よ。準備はもうできてるから」

「私の? 何を?」

「それじゃ頼む」

 手短にそう言うと、柊は居間を出て、自室のある二階までの階段を駆ける。ポツンと取り残され、状況を理解できず棒立ちの水井に、パソコンを閉じた安嘉理が立ち上がる。

「さぁ澄香ちゃん。早速だけど、上だけ脱いでくれないかしら」

「えぇっ!? 私達、まだ初対面なのにそんな……」

「……制服だけでいいからね」

 勘違いから身をよじらせて恥ずかしがる水井に優しく補足すると、安嘉理はメジャーを構えた。



 一方、カバンも持たずに学校を飛び出した鳴嶋は、その勢いで英郷学園に到着。襟元の校章で学年を見定めながら、下校中の生徒を対象に聞き込みを開始する。時間が遅く生徒もまばらだったが、運良く恩田と同じ学年の生徒を見つけることができた。

「あのー、鴇田川高校二年の鳴嶋って者なのですが、二、三伺いたいことがございまして、お時間よろしいでしょうか?」

「かまいませんけど……。いいよね?」

「うん。俺も大丈夫」

「ありがとうございます」

 友人同士だという男子生徒二人組に、早速恩田のことを尋ねてみる。

「恩田君? そういえば最近見ないなぁ」

「見ないっていうか、月曜から休みだよ」

「月曜から?」

「うん。なんか家の用事らしくて」

「それは、恩田君本人から聞いた話ですか?」

「いや? 月曜の朝に担任がそんな風に言ってたよ。まぁ、恩田君の家は今すごく忙しそうだしね」

「なるほど……」

 恩田と同級生という彼の話を熱心にメモする鳴嶋。彼の話が本当なら、家庭の事情というデリケートな問題に首を突っ込むことになるが、とりあえず聞き込みを続けてみる。

「その恩田君は、休む前、何か変わった様子はありました?」

「変わったというか、すごく落ち込んでたよ。先週くらいからかなぁ。普段は元気だから、余計気になった」

「あれか? 噂の女にこっぴどくフラれたとか」

「どうだろ? 僕はそうは思えないけど」

「女……ですか」

 恩田の同級生に話を聞くうち、もう一人の男子から気になるワードが飛び出した。

「うん。親同士が勝手に決めた婚約相手がいるけど、恩田君も相手も全然乗り気じゃなかったみたい。当時は贅沢な話だと思ったけど、今思うと本人にしかわからない悩みもあったんだろうね」

 同じく贅沢な話だと共感しつつ、メモを取りながら話を整理する鳴嶋。その女の情報が手に入れば、話は確実に前進する。そう直感した鳴嶋は、一か八かで訊いてみる。

「その女性がどのような方かまでは、ご存じないですか?」

「ご存じも何も、相手は大グループ市川の御令嬢、市川いちかわ円花まどかだよ」



 翌日の放課後。柊と二人で下校しながら聞き込みの結果を報告した鳴嶋は、その足で柊家に連れ込まれる。居間に行くよう指示だけして、二階に直行した彼女に従い進むと、安嘉理が正座して待っていた。

「おかえり。今日もお疲れ様」

「ただいま……って、別に俺ん家じゃないけど……」

「細かいことはいいじゃない。それより、じゃーん! どう?」

 家族ぐるみの付き合いなのに粋じゃないツッコミを入れる鳴嶋に、安嘉理が一着の作業着を見せる。得意気に差し出したそれは、有名なクリーニング業者のユニフォームに酷似しており、胸元には〈山井〉と刺繍されている。

「相変わらず器用っすね、安嘉理さんは」

「私はこの器用さだけでやってきたようなものだから。ほら、こっちが志寿玖と澄香ちゃんの分」

 安嘉理はそう言って、隣に畳まれた二着の作業着を指差す。それぞれ〈川上〉〈山本〉と名付けられたそれらを見ながら、鳴嶋が今後の計画内容を察する。

「薄々気付いてたけど、やっぱり潜入捜査か~……」

「まぁまぁ。志寿玖も楽しそうにしてるから、もうちょっとだけ付き合ってあげてくれる?」

 肩を落とす鳴嶋を励ますように、安嘉理が優しく声を掛ける。

「それに、陸八君に対して二人も女の子がいるなんて、贅沢な話よ? 両手に花じゃない」

「花ったってねぇ……。水井さんはともかく、シズクは薔薇みたいなもんですよ。綺麗な薔薇には棘があるってやつ」

「ふふっ。そうかもしれないわね。だけど、その棘に触れることができるのはあなただけよ、陸八君」

「なんだ? 何の話をしている?」

 二人の会話に、家着のTシャツハーパンに着替えた柊が割って入る。直後、姉の力作を見た柊が嬉しそうに笑うのを見て、鳴嶋は雑念を振り払うようにぶんぶん首を振った。



 作戦決行の日、金曜日の朝九時。用意した作業着に身を包み、恩田邸の前に立つ柊、鳴嶋、水井の三人。

「で、デカい……」

「今から気圧されてどうする。ほれ、早く入るぞ山井班長」

 大企業の御曹司が住まう、洋風の屋敷然とした豪邸を前に圧倒される鳴嶋の背を、柊がポンと叩いて催促する。老け顔という理由だけで班長設定を付け加えられた彼が、インターホンを強く押す。

「おはようございます。サラシナクリーニングの者ですが、清掃にあがりました――」

 鳴嶋の声の直後、オートロックが開錠される音が、静かな空間に冷たく響く。三人は門を潜り、恩田邸に入った。

「こんな簡単に入れるんだね……」

「まぁな。姉貴の裁縫技術とリクヤの老け顔が為せる業だ」

「……老けてはないと思うんだけどなぁ、俺の顔」

 感心する水井、鼻高々な柊、周囲の評価に納得のいかない鳴嶋が、家の中をそれぞれ見て歩く。

「それに、屋敷の関係者は揃って懇親会に夢中というのもあるだろうな」

 歩きながら窓の景色の下を覗くと、広すぎる庭の中心に人だかりが見える。

「平日の朝からパーティーなんて、良いご身分だなぁ」

「実際良い身分だがな」

「でも、それにしたって誰もいないっていうか……きゃあっ!」

 人っ子一人居ない屋敷内を不審がる水井が、何かに蹴躓いて転んでしまった。

「いたた……」

「大丈夫ですか!?」

「ありがとう。私は平気だけど、カーペットが……」

「……ん? この切れ目は……」

 転んだ水井に寄り添う鳴嶋を睨みつけていた柊の目に、絨毯の切れ端が不自然に映る。剥き出しになった床をよく見ると、廊下の端から端まで線が走っていた。柊は立ち上がると、周囲の壁をくまなく調べ始める。

「何してんだ?」

「しっ……あった、ここだな?」

 柊は壁に繰り返しノックしていた手を止め、壁の一部を強く押す。すると、クリック音と共に壁の一部が開き、黄と黒の警戒色に縁取られた赤いボタンが登場した。ニヤリと笑む彼女が迷いなくボタンを押した瞬間、大きなモーターの駆動音が響いたかと思うと、水井の転んだ場所から階段が出現した。

「うわ……すげぇ……」

 埃一つ立たず現れた巨大階段の先は天井で埋まっているが、一切の躊躇なく階段を上がっていた柊が手を添えると、半畳程のサイズの板が外れ、屋根裏への入口が現れた。

「えっ、あなたは!」

「界斗君!? そこにいるの!?」

「澄香さんまで!!」

 床からひょっこり顔を出した柊に驚く恩田と、彼の声を聞きつけて衝動的に階段を駆け上がる水井。二人は、久しぶりの再会に抱きあって喜んだ。

「しかし、学校を休んでまでどうしてこのような所に?」

 屋根裏部屋とは思えない豪華な内装に驚きながら、最後に上がってきた鳴嶋が尋ねる。

「いや、それが、実は……」

「そこまでだ!」

 鳴嶋から視線を逸らした恩田が答えあぐねていると、階段の下から男性の大声が飛んできた。慎ましくも華やかな格好をした使用人、警備員らに囲まれて、恩田の父・天彦あまひこが階段を上がり、腕を組んで立ち止まる。その表情には隠しきれない怒気が滲み出ていた。

「界斗、誰だこいつらは」

「と、友達だよ!」

「こんなことをして、まだ自分の立場がわかってないのか!!」

 実の息子相手にも容赦なく凄む天彦に、恩田も怯まないように振る舞うのが精一杯だった。

(ちょっと! なんかヤバい雰囲気になってんだけど!?)

 修羅場特有の緊迫した空気に耐えられず、鳴嶋が柊にアイコンタクトを送るが、彼女は不敵に口角を上げるだけだった。

「どけどけ~っ! ですわっ!」

 天彦が恩田と水井ににじり寄り、一触即発という中、女の子の甲高い叫び声がこだまする。階下から聞こえてくるその声は、どんどん大きく鮮明になったと思うと、またたく間に屋根裏部屋に乗り込んできた。

「まっ、円花さん!?」

「あら界斗さん? ごきげんよう」

 恩田の言葉に振り向いた天彦の目には、黒髪縦ロールの女の子が、両側の執事が撒く紙吹雪を浴びながら仁王立ちをしていた。

「これはこれは円花お嬢様。どうなされ――」

「いいですこと? 私も界斗さんも、お互いに結婚するつもりは一切ございませんので」

「え……」

「私と界斗さんを結婚させてご自分の会社を大きくするおつもりなのでしょうが……。親の言いなりで結婚相手も選べないなんて、古くさすぎますわ!」

 突然現れ、媚びる間もなく自分の考えを全否定された天彦は絶句する。凍り付きそうな空気を高笑いで吹き飛ばす円花の存在感に圧倒されていた鳴嶋だったが、隣から袖口を引っ張られていたことに気付く。柊の方を見ると耳を貸すようにジェスチャーされたので、そのまま顔を寄せる。

「帰るぞ」

「えっ! このタイミングで!?」

「しっ! 当たり前だ。周りの意識があのお嬢様に向かってる今だけがチャンスだ」

「でも、水井さんをほっとくわけにも……」

「彼女ならなんとかなる。行くぞ!」

 戸惑う助手の手首を掴んだ柊は、警備員らの死角に回り込みながら、静かに屋根裏部屋から脱出する。その間にもいくつかやりとりがあったのを鳴嶋は聞いていたが、最後に見たのは、天彦が円花の前で膝をついて崩れていた、そんな光景だった。





『本日正午、市川グループと恩田株式会社の合併が取り止めになったと発表がありました。この報道を受けて、経済界は混乱を極めており――』

 恩田邸への潜入捜査から三日後、月曜日の放課後。BGM代わりのラジオがそんなニュースを伝える間、柊はおやつのバナナを食べ、鳴嶋はソファに座ってだらだらしていた。

「しっかし、好きでもない相手との結婚を呑むまで軟禁なんて、お坊ちゃまはマジ大変っていうか」

「あの後聞いた話だが、あの親父、ゆくゆくは市川グループを乗っ取る魂胆で息子を紹介したそうだぞ。相当な野心家だな」

 理解できない世界に呆れる鳴嶋の呟きに、柊が裏事情を付け加える。

「まぁでもいいんじゃないか? この件をきっかけに、水井との交際を正式に認められたようだし」

「そうなんだ。それじゃひと安心……かな」

 水井の後日談が気になっていた鳴嶋が、その点については胸を撫で下ろす。

「ていうか、この合併騒動に恩田君が関わってるなんてよくわかったよな」

「情報収集は基本だからな」

「まさか市川のお嬢様の連絡先までゲットして、あの場に呼び出しておくとはねぇ。俺ァあんたが怖いよ……」

 まるで全ての事象を見透かしているような柊の頭脳に、頭の後ろで手を組んだ鳴嶋が冗談めいて怖がってみせる。その言葉に胸を張って誇らしげにする柊であったが、天井を見つめていた彼にその姿は映らなかった。

 二人の会話に続くように、廊下から足音が聞こえてきた。

「お、新たな依頼人のおでましだな」

「次は学校を休まない程度の依頼であってほしい……」

 食べ終わったバナナの皮を捨てる柊と、立ち上がってお茶の準備をする鳴嶋。完璧美少女探偵と頑丈な凡夫助手の元に、小さな悩みを抱えた依頼者が、また一人――。

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