013 善なのか悪なのか(他視点)

 学校の長期休暇、それは生徒にとっても長期休暇だが、教師にとっても長期休暇期間となっている。普段は規則正しい教師も、生徒がいなくなればただ一人の人間でしかなく、笑い、怒り、噂に興じ、娯楽に興じるのだ。

 学校には教職員用の寮も完備されており、学園に残る教師も少なくない。また、用事があるため学園を訪れる教師も少なくない。

 長期休暇、それは2か月の間レディランジュミューア様に会えないということ。

 これは神が私にお与えになった猶予なのかもしれない。

 私は今、神への信仰と、レディランジュミューア様への想いで揺れ動いている。彼女は、愛を選ぶことは悪ではないというが、それは真実だろう。

 神官の中にも結婚する者は多くいる。ああ、でも神よ。私は彼女への愛を理解した瞬間、胸の苦しみに息が止まるかと思いました。

 神の与えた罰なのだと、そう思ってしまったのです。

 彼女の琥珀色の目で見つめられるたび、淡いピンク色の唇で名前を呼ばれるたび、近づくたびに香る花の香りを感じるごとに、私は彼女に捕らわれ神への信仰に迷いを抱いてしまったのです。

 ああ、神よ。彼女は愛を選ぶことは悪ではないといった。けれども、神への信仰を揺さぶる彼女は悪なのでしょうか?

 劇に出てくる誘惑をする悪役のように、彼女は私を愛へと誘惑してくるのです。

 いいえ、違います。私が彼女に溺れていこうと進む足を、止めることが出来ないのです。

 この体たらくで迷える子羊を救う聖職者とは、笑えますね。

 愛と信仰そのどちらを選ぶのか、または天秤が傾かないようにバランスを取るのか、きっと私は今神に試されているのでしょう。

 今朝も朝の礼拝を終え、教職員の寮に向かいます。学食などは閉鎖されておりますので、食事はこちらで取らなけれななりません。


「あら、レジス神官じゃない」

「久しぶりです」

「おや、ベルナルダン先生にルイクロード先生ではありませんか。お早いですね」

「今日はこれかあら外に出て歌劇の練習があるの。ランジュミューア様を招待している歌劇だから、気合が入っちゃってね」

「俺はこの後王室図書館に行って、ランジュミューア様と古代文字の研究があるから、早めに食事をとってる」

「そう、ですか…」


 お2人はレディランジュミューア様と親しくなさっているようですし、長期休暇の間も交流があるのですね。

 私はこの学校から出ることはないでしょうし、彼女に会うことが出来ないでしょう。羨ましいと思ってしまうのは、なんと自分勝手な思いなのでしょうね。

 彼女が神殿の礼拝堂に来るたび、私は優越感に浸っていたのです。あの歌声を聞くことが出来るのは、2階でドアを開けて聞いている私だけなのだと、そんな優越感に浸っていたのです。

 しかし、それは彼女の望むところではないでしょう。彼女は奥ゆかしく、歌を聞かれることを恥ずかしいと思っているようですので、私の行いを知れば軽蔑するかもしれません。

 ああ、でも彼女に軽蔑でもいいから眼差しを向けてほしい、感情を向けてほしいと望むのは、彼女と神への冒涜なのでしょうか?


「ランジュミューア様ってば人気よね。あの歌声は素晴らしいもの。今度の歌劇を見てもらって、ぜひアタシの歌劇団に入ってほしいわ」

「彼女は俺と古代文字の研究をするのに忙しい。趣味以上の歌は必要ない」

「なによ、ちょっとあの子と王室図書館デートしてるからって調子乗って。あの子を誰がゲットするかはまだ決まってないのよ」

「レディランジュミューア様はそんなにも人気があるのですか?」

「やだっ知らないの?生徒の間でも大人気よ。ほら、レジス神官は知ってるか知らないけど、グェナエル様の禁断の恋の相手が彼女なんじゃないか、っていう噂もあるのよ。敵対勢力の彼女に恋なんて、まるで舞台の物語みたいで素敵じゃない?しかもグェナエル様の婚約者のヴァランティーヌ様は、自他ともに認める大親友じゃない。それを応援してるんじゃないかっていう噂よ。でも、婚約っていうのなら、元婚約者のバスティアン様もまだあきらめてないみたいよ」

「婚約を白紙にしたというのにですか?」

「ああ、その話しは知ってる。いまだに未練たらたらで、バスティアン様がランジュミューア様を追いかけてるって話しだろう?俺の授業の後も待ち伏せみたいに張り込んでたぞ、ヴァランティーヌ様に阻止されてたけどな。あの目は未練たらったらって感じだったな。まあ、ランジュミューア様はああ見えて天然というか、鈍感だから気が付いてないけど。魔法使いの問題が解消したら、復活させる気なんじゃないか?」

「そんな!」


 そのような事があってはなりません。


「でも、ランジュミューア様に婚約の申し込みが殺到してるって噂よ。サロンのマダムたちの噂は侮れないから、真実なんじゃないかしら?でもそうなると、本当に誰が彼女を手に入れるのかしら?アタシも諦める気はないけど、彼女は誰が好きなのかしらね?」

「え!?」

「なぁに?彼女も年頃の女の子、しかも婚約白紙になったフリーの状態なんだから、恋の一つや二つしてもおかしくないじゃない」

「それはない。彼女は研究で忙しいから」

「なにいってんのよ。その合間にするから燃え上がるんじゃないの。って、レジス神官?顔色が悪いけど大丈夫?」

「ええ、大丈夫です」


 彼女が誰かに恋をしている。ああ、何故そのことに気が付かなかったのでしょうか?彼女の歌う歌には、恋の歌も多かったというのに。あれはきっと恋する相手を想って歌ってたのでしょう。

 ああそうすれば私のこの想いは、彼女にとって迷惑以外の何物でもないのですね。

 独りよがりとはこのことを言うのでしょうか。

 ああ、神よ。これもアナタが私にお与えになった試練なのでしょうか?

 彼女のあの眼差しを受ける誰かがいるのですね、彼女のあの唇で名前を紡がれる誰かがいるのですね。あの芳しい香りを、私よりももっと近くで感じることのできる誰かがいるのですね。

 ああ、これはきっと神への信仰が揺らいだ私への罰なのでしょう。この胸の痛みは罰の証なのでしょう。

 レディランジュミューア様。今この名前を想うだけで、胸が締め付けられそうなほど苦しく思えてなりません。


「でも、ランジュミューア様ってお兄様と二人暮らしでしょう?使用人はいるけど、ちょっと親密すぎるわよね」

「ああ、あいつのシスコンは昔から。同じ学年だったけど、有名だった」

「同じ学年だったのね。アタシは学年が被らなかったし知らなかったわ。でも同父母だし安全と言えば安全よね。あれで異父異母だったら結婚しちゃってたかもしれないわよ」


 確かに、彼女の話しによく兄君の話しが出てきます。如何に素晴らしい兄君なのか、話を聞いているだけでも伝わってくるほどです。

 ダンスの練習相手をしていただいているとか、リードがうまく、まるで舞姫になったかのような気分になるなど、本当に幸せそうに嬉しそうにお話になっておりましたね。

 ああ、お2人が同父母の兄妹でよかったです。もし異父異母の兄妹なら結婚していた可能性もあります。男女が、使用人がいるとはいえ二人っきりで過ごすなど、同父母だからこそでしょう。

 けれどそのことにすら、今の私は嫉妬してしまいます。私の知らない彼女を兄君はたくさん知っているのでしょう。

 それは当然のことだというのに、羨ましく恨めしい。こんな感情を今まで抱くことになるとは思いませんでした。

 やはり彼女は私にとって、神の信仰を揺るがす悪役的存在なのでしょうか?それとも、これを乗り越えてこそ、神への信仰を真に理解できるのでしょうか?


「リングフィアル様とスティーロッド様のランジュミューア様への愛着具合はすごかったみたいだな。というか、髪と目の色こそ違うけど、あの二人って顔立ちが似てるし、又従兄って関係だけど双子みたいって噂になってた。いっつも一緒に行動してたしな」

「そうなのね。まあ、どっちもイイ男よね。アタシ好みだけど、今はやっぱりランジュミューア様が一番のお気に入りね。あの蔦模様見たことある?銀色で細工物みたいに細かくてきれいなのよ。全身に広がってるって話しだけど、あの模様を綺麗に見せるドレスとか着せてみたいわ。あの子は模様のことを気にしてるっていうか、嫌な気分にさせるんじゃないかなんて思ってるけど、うちのクラスの子は皆気に入ってるのよ。もうね、本当に銀細工みたいでお人形みたいなのよ。運動で頬が上気して汗が流れるじゃない?扇情的っていうか、色っぽくってたまんないわ」


 なっ!私でも見たことはないのに、ベルナルダン先生は見たことがあるのですね。確かに仮面をつけたまま運動するのは大変でしょうが、銀細工のような蔦模様、私も見てみたいです。

 ……いけませんね。人を羨むなど浅ましいことです。


「それでいうなら、古代文字の研究の時の彼女の真剣な顔もいいと思う。俺と解釈で対立することもあるけど、一緒の解釈になった時の無邪気な笑顔とか、かわいいよ。一緒に魔法陣組む研究もしてるんだけど、俺ってほら目に模様があるからこんな眼鏡かけてるじゃん?風属性だから植物属性とは合わないし、なんか俺の魔法でも役に立てたいんだけど、こんな暑い日に風を起こして涼しくするぐらいの力しかないんだよ。ってのをさ、弱音で言っちゃったことがあったんだけど、ランジュミューア様ってば笑って十分だとかいうんだよ。俺ってこの魔法の能力がコンプレックスで、古代文字の力で増幅できないかとか思ってたけど、なんかそういうのなくなったんだよなあ。あの時のランジュミューア様の笑い顔はかわいかったぞ。真剣に机に向かって古代文字の研究してる姿とのギャップっていうんのか、キュンときた」


 そんな笑顔を見たことがあるのですか。こちらも羨ましいですね。ほほ笑んだ顔や照れた顔は見たことがありますが、笑い顔というのは見たことがありませんね。

 今度お会いした時には、何かジョークでも言って笑っていただくことはできますでしょうか?

 あ、いえ……彼女には想う男性がいるのですから、私のこのような浅ましい思いは迷惑でしかないのでしたね。

 恋愛という感情は、こうも心を揺さぶり神への試練となってしまうのでしょうか。ああ、今も胸が苦しくなってしまいます。

 今すぐにレディランジュミューア様のお顔を拝見したい、お声を聴きたい、歌声を聞きたいと思ってしまうのです。


「お2人は本当にレディランジュミューア様と親しくしていらっしゃるのですね。エジッヴォア先生も、彼女にスランプを解消してもらったと感謝しておりました。彼女はまさに神は遣わされた天使なのかもしれません」

「エジッヴォア先生が?でもこの間、林で妹のアレクシア様とデートしたって言ってたわよ。モデルになってもらうとか言ってたわね。木漏れ日の中のモデルならランジュミューア様だけど、湖畔にはアレクシア様が似合うって言ってたわ」

「そう、なのですか」


 確かにレディランジュミューア様の妹君と親しくなさっておりましたね。夏季休暇の間にお2人の間に何かあったのでしょうか?

 モデルとなると、秋の収穫祭の祭りで発表する絵のことでしょうか?妹君がモデルですか。レディランジュミューア様でなくてよかったです。モデルになれば時間を使わなくてはいけませんので、彼女のお邪魔になってしまいますよね。

 それに、男女が二人っきりでモデルの仕事とはいえいるのは良くありません。いえ、合意ならばいいのですが、レディランジュミューア様がそのようなことを承諾するとは思えません。

 レディランジュミューア様をモデルに絵を描く、それは魅力的ですが、あいにく私には画才がございませんので、彼女を見て祈りを捧げるしか……。

 いえ、いけません。このような邪な想いを抱いては神にさらなる罰を受けてしまいます。


「お2人は長期休暇中も、レディランジュミューア様とお会いできるのですよね。私がお会いできるのは休暇明け。この時期の少女たちの成長は驚くほど速いものです。2か月も経てばきっと彼女は美しく開花しているのでしょうね」

「そうねえ」

「そうかなあ」


 毎年、長期休暇明けの女子生徒の変貌ぶりには驚かされることもあります。レディランジュミューアもきっとあの美しさに磨きがかかり、さらに人を引き受ける甘い蜜のようになるのでしょう。

 その蜜を味わうことが出来る男性が、羨ましくて仕方がありません。

 ああ、駄目ですね。こんなにもいけないことだと自分を律しているのに、気が付けば人を羨み妬ましく思ってしまっています。

 神の与えた試練を乗り越えなくてはなりません。迷える子羊を救う聖職者として、きっとこの試練こそ乗り越えるべきものなのでしょう。


「それで、レジス神官はラジュミューア様をどう思ってるの?さっきから気が付いてないみたいだけど、随分百面相してるわよ。恋する男、ううん、愛に迷う男って感じじゃない。いいわぁ、聖職者の愛への苦悩なんて、劇の題材になりそう」

「なっ……わ、私はそのような。それに彼女には想う相手がいるのですから」

「まあそうよね。あの子の想い人って誰なのか知らねえ。あの琥珀色の眼で熱く見つめられちゃうのよ?たまんないわぁ」

「うん。確かにそれはいいかも。想い人かあ、今度聞いてみようかな」

「そうしてよ。興味あるわ」

「そのようなっ、人の秘密を暴くような真似をしてはなりません!」

「だって、レジス神官は気にならないの?ランジュミューアの想い人。案外レジス神官だったりして」


 そんなはずはありません。私は彼女と彼らほど親しくしてはいませんからね。

 彼女の悩みを聞いたことはありますが、家族を想う真摯なもので心を打たれてしまいました。その後の私の問いかけにも真剣に答えてくださり、彼女は神の使いなのかそれとも悪の使いなのか、本当にわかりません。

 気落ちしながら食堂を出て神殿の自室に戻ると、一通の手紙が届いていました。手紙と言っても神殿の神官の間でのみ扱われる水手紙というもので、水盆を伝って手紙が送られてくるのです。不思議とこの水で文字が滲むことはありません。

 内容は、貴族が魔狼を飼うために洗礼を行ってほしいというものでした。魔物の一種である魔狼ですが、その見た目と能力から自分のものにして、飼いならそうという貴族は多々居ります。

 名づけの契約と洗礼を持って飼い主に縛り付けるのですが、またどこかの貴族が飼おうとしているのですか。

 魔物を飼うなど、何の意味があるのでしょうね。権威の為という神官もいますが私には理解しかねます。

 そもそも、魔物がいる場所にまで行って確保するのは冒険者や騎士、兵士であって飼い主になる貴族ではないでしょう。

 危険を冒さず手に入れるなど、本当に理解できません。

 断ってもいいとあったので、断ろうかと思いましたが、場所が王城の神殿であることで、もしかしたらレディランジュミューア様にお会いできるのではないかという邪心が湧き上がり、気が付いたら了承の返事をしておりました。

 我ながら浅はかですね。

 このような私が神官を続けることなどできるのでしょうか?ああ、神よどうかこの浅はかで愚かな私をお許しくださいませ。


 数日後、久しぶりに学校の外に出て馬車で神殿に向かうと、車止めのところにデルジアン家の紋章の描かれた馬車があり、王室図書館にレディランジュミューアがきているのではないかど、一瞬胸を躍らせましたが、彼女の父君が文官として勤めていると聞いたことがありますので、父君が乗って来た馬車なのでしょう。

 このような邪な気持ちを抱えたままでは、魔狼を洗礼するなどできませんね。しっかりしなくてはいけません。

 神殿に行くと、王城の神殿に住まう神官が出迎えてくれました。彼らは優秀ですが、私よりは立場が下になります。

 神託を受けるというだけで神官の格が上がるのです。

 この神殿にも神託を受けることのできる神官は今しますが、彼は私よりもずっと格が上で、魔狼の洗礼などはせず、この王城の守護の結界の維持に常に力を注いでおります。


「魔狼の名付けはすんでいるのですね」


 資料を読んで魔狼ではなく、魔狼人であるとの文字を見つけて、思わず眉間にしわを寄せてしまう。

 魔狼からの進化形といわれている魔狼人ですので、格の違いから準備に必要なものが変わってくる。

 まったく、と思いながら洗礼の準備を整え直すと、飼い主となるべき人物がやってくる時間になり、洗礼の間の扉が開かれる。


「レディランジュミューア様」

「まあレジス神官様。本日はアインスの洗礼をどうぞよろしくお願いいたします」


 そう言って頭を下げるレディランジュミューア様に、反射的に頭を下げ、改めてその姿を見る。

 洗礼の間は、白で埋め尽くされた何もない四角い空間に、天秤に乗った剣と杯の絵が描かれた魔法陣が床にある。

 洗礼に必要なものは神への信仰のみ。出来る限り不要なものを取り除いたほうが良いということからこのような部屋になっている。

 洗礼に必要な道具や清めるための聖水の入ったガラス瓶など、そんなものが乗った棚が異質に思えるほどの部屋だ。


「そのものが魔狼人ですか」

「ええ、アインスともうしますの」


 銀色の、人の背丈ほどもある大きな魔狼人。比較的小柄なレディランジュミューア様と並ぶとその大きさが際立っている。

 彼女が酔狂で魔狼人を飼いたいと思うとは思えない。森で暮らしていた間に、兄君かその侍従がしとめたのでしょう。それを彼女に譲ったと考えるべきですね。

 そのような危険な魔物もいる森での修行、彼女は厳しい修行を自らに課してきているのですね。

 しかし、銀色の魔狼人を撫でる姿は、どこか悪魔的な雰囲気があり、清廉な彼女がどこか妖艶な女性に見えてしまいます。

 いけません。早く洗礼をして始めなくては。


「洗礼をいたしましょう」

「お願いいたしますわ。アインス、すぐに終わりますわよ」


 魔法陣の中央に歩いて座った銀色の魔狼の額に、瓶から聖水を垂らす。


「この魔なる存在に、神の慈悲をお与え賜え。この者が主たる存在の助けとなり、支えとなることを許し賜え。この者の名はアインス。神よ、この者に洗礼の名をお与え賜え」

『シュテルン』

「……汝、アインス=シュテルンなり」


 神の声がその名を呼ぶことにより、この魔狼人は浄化され、レディランジュミューアの真の所有物となりました。


「シュテルン。まあ!素敵な名前。アインス、貴女は一番星ですわ」


 そう言って駆け寄って魔狼人を抱きしめるレディランジュミューア様の姿は、先ほどの妖艶さはなく、純真な少女のようで、彼女はいったいどれほどの顔を持っているのでしょうか。


「ありがとうございます、レジス神官様。これでこの子を街に連れていくことが出来るようになりましたわ。一緒にお買い物に行きましょうねアインス」

「街に買い物に?」

「ええ、兄様と一緒に行くこともありますのよ。私は今実家を出て暮らしておりますし、いつかその家も出る日もあるかもしれませんでしょう?今から慣れておこうと思いまして。もっとも、森で暮らすかもしれないのですけど。あっその場合もどちらにせよ街での買い物が必要ですわね」

「大丈夫なのですか?」

「え?」

「その、貴族令嬢が出歩くのは危険ではないのでしょうか?」


 もしあなたに何かがあったら、私はっ、いいえ私だけではなく多くの人が心を痛めてしまう。


「大丈夫ですわ。これでも私、強いんですのよ」


 そうほほ笑む顔に、思わず見惚れてしまい頬に熱が集まってしまう。ああいけない。彼女には想う人がいるというのに、私には神がいるというのに、このような邪な思いを彼女に向けてはいけない。

 こんな私の心の中を見透かすように、熱のこもった目で詰められてしまい、ますます顔が赤くなっていき目が潤んで彼女の周囲が輝いているように見える。


「あの、レジス神官様はこの後ご予定はございますか?」

「いいえ。特にはありませんが」

「で、ではよろしければ、私にお付き合いいただけませんでしょうか?」

「え?」


 これは悪の誘惑でしょうか?彼女と共に時間を過ごすことが出来るなど、なんという幸福な時間になる事でしょう。


「なぜ私なのでしょうか?」

「今日は、兄様と一緒に来たのですが、兄様はスティーロッド様のご用事にお付き合いしておりますので、お帰りになるまで王城の温室でお茶でもしようと思っていたのですが、良ければそのご一緒にお茶を…」

「問題ありません」

「うれしいですわっ、ありがとうございます」


 艶やかにほほ笑む顔に、また見惚れてしまう。

 ああこの瞬間、確実に私は神よりも彼女を選んでしまっている。なんと罪深いことなのだろう、この私の心を奪っていく彼女は、なんという悪的存在なのだろう。

 魔狼人は流石には連れていかないのか、馬車まで送ってくると言って、一度別れ温室で待ち合わせをすることにした。

 洗礼の道具を片付けながら、彼女のことを考える。禁欲的なまでに肌を見せないドレスなのにもかかわらず、そのレース越しに感じる肌に思わず触れたいとすら思ってしまう。このような想い、彼女にとっても神にとっても冒涜的だ。

 しかし、私は彼女との時間を選び取ってしまった。2人で過ごす時間、2人で行う会話、それを選んでしまったのです。

 片づけを終えて、洗礼が終わったと報告をして温室に向かう私の足取りは酷く軽いもので、彼女との邂逅を楽しみにしているのだと自分でもわかる。

 すでに温室に来ていた彼女のメイドがお茶の準備をしてくれる。温室の鳥籠のような休憩所に、メイドが少し離れた場所にいるとはいえ、初めて向かい合って何かを口にしながら話す。


「改めてアインスの洗礼を行っていただき、ありがとうございます。あの子は森で私が飼いならしたのですが、危険なことをしないように言っていますのに、兄様や森で一緒に暮らしていた者たち以外は信じてくれなくて、洗礼をすれば額に神の証が現れますので、危険ではないとわかりますえでしょう?ですから兄様にアインスの洗礼をしたいとお願いいたしましたの。最高の神官様に洗礼をしていただくように手配するとおっしゃってたのですが、まさかレジス神官様とはおもいませんでした」

「最高というのは大げさですね、ちょうど手が空いていたのです」

「でも私はうれしいですわ。夏季休暇の間にこうしてレジス神官様にお会いできたのですもの。2か月の間ずっと会えないと思って、寂しく思っておりましたの」

「そうですか」


 彼女もそう感じてくれていたのだと思うと嬉しく思えます。

 こうして一緒に話しているというだけで、神の神託を受けているときのような幸福感を味わうことが出来るのです。これはもう、なんと表現すべきなのでしょうか?

 恋愛の酩酊感とでもいうべきなのでしょうか?このままずっとこうして居たいと思う、そんな罪深いことを望んでしまう。


「私、ずっと思っておりましたの。レジス神官様はとても紳士的で素晴らしい方だと。兄様にもお父様にもお話ししましたのよ。お2人ともぜひお会いしたいとおっしゃって」

「それは光栄なことです」

「秋の収穫祭の時には、ぜひ私の兄様とお父様にお会いしてくださるとうれしく思いますわ」

「ええ」

「えっと………あっ、そうですわ。私の妹のアレクシアなのですが、レジス神官様のご助言通りに話し合いましたら、お互いの間に合った誤解が溶けたように思います。今は心の底からアレクシアとエジッヴォア先生の恋愛を応援しておりますの。今日も湖畔で絵のモデルをするとかで、おしゃれをしてお弁当を作ってでかけましたのよ」

「お弁当を?妹君が自分で作ったのですか?」

「あ…はしたないと思われますか?でもあの子は自分で作ったものを食べてほしいと思っての事なのです。悪く思わないでくださいませ」

「ええもちろんです。少々驚きましたが」


 高位貴族の令嬢が厨房に立つなど、普通はありえませんからね。お弁当を作るなど、初めてなのではないでしょうか?

 それまでにエジッヴォア先生のことを想っているのですね。

 手作りの食事、もしレディランジュミューア様の手作りのものでしたら、毒であってもすべて頂ける気がいたします。


「実は、私も指導いたしましたの」

「え!」

「森では、私もキッチンに立つことがございましたので、つたないながらもこれでも一通りの食事を作ることはできるのですよ。はしたないでしょうか?」


 森での生活では使用人の数も少なかったのですから、そういうこともありますね。


「兄様は美味しいと言ってくださったのですが、兄様は私に甘いのでお世辞が入っていたのでしょうね」

「そんなことはないでしょう。私も是非一度食べてみたいです」


 言ってから、馬鹿なことを言ったと反省してしまう。家族や想い人ならまだしも、ただの神官である私に手料理を振舞うなどないでしょう。


「ではっ、ご迷惑でなければ、またこうしてお会いしたときにでもぜひ!あっ……えっと、ごめんなさい。レジス神官様にもご予定がございますわよね」

「いいえ、夏季休暇の間も変わらず学校の神殿で過ごすことがほとんどですので」

「そうなのですか」

「レディランジュミューア様からすれば、きっと私の暮らしなど退屈な日々に見えるのでしょうね。しかし神の傍にいるというだけで、神官である私は幸せな事なのです。私は聖職者として心のすべてを神に捧げております。そうであるべきなのです。迷える子羊を救う聖職者に迷いがあってはいけない」

「そう、ですわね。とっても立派なお考えだと思いますわ」

「しかし、私は最近惑わされている。……ほかでもない、貴女にです、レディランジュミューア様」

「え?」

「貴女の姿を見るたびに胸が高鳴り、声を聴くたびに胸が締め付けられ、その琥珀の目で見つめられるたびに、なんともいえない幸福感に包まれる。そしてそれと同時に、私はなんと罪深いのだろうと苦しく思うのです。ああ、レディランジュミューア様。貴女はまるで私を堕落させようとする悪のような蠱惑的な魅力があるのです。しかし同時に聖女の如き清廉な魅力も持ち合わせている。私分からなくなってしまいました。神を愛しているのに、貴女を愛してしまっているのです。これほど罪深いことはないでしょう」

「レジス神官様…」

「申し訳ありません、このような感情を向けられても迷惑でしょう。貴女には想う人がいるというのに」

「えっ!」


 ああ、やはり本当なのですね。ばら色に染まった頬に潤んだ瞳で、思い浮かべている人物はいったい誰なのでしょうか。


「こんな感情は捨ててしまうべきですね。神に対しても貴女に対しても、冒涜的で失礼だ」

「私は!私は……。私はレジス神官様が好きです!恋をしています!あ、愛しています!」

「は?」


 まさか、彼女がそんなことを?これは幻聴?嘘をつかれているのでしょうか?けれどそんなことをする意味はない。ではやはり、私の望む幻聴なのでしょうか。


「こんな感情を清廉な魂を持つレジス神官様に向けるのは、失礼だと思っていました。でも、もしレジス神官様が私を愛してくれているのなら、私はレジス神官様に自分の想いを告げるべきだって、今思ったんです。神を憎く思っている私を、レジス神官様は嫌悪するかもしれません。私はレジス神官様の心をとらえてはなさい神が憎く思えてならないのです」

「私はレディランジュミューア様が悪のように思えて仕方がありません。神という絶対的な存在から、私を堕落させようとする悪。私が最も愛すべきは神であるべきだというのに、貴女とこうしている時間は、神が私の心から遠ざかり、貴女が私の心を支配するのです」

「愛とはそういうものではありませんか。私は、今こうして一緒にいるだけで鼓動が高鳴り、頬が熱くなり、胸が苦しくなり、嬉しさで頬が緩んでしまうのです。愛と神、どちらを選ぶのかと以前レジス神官様はおっしゃいました。私は答えました、愛を選ぶと、神は愛という感情をお与えになったのですから、愛するという行為は罪ではないと答えました」


 ああ、そうです。貴女のその言葉に私は救われ、同時にさらなる罪を自覚したのです。私を好きだと、愛していると言ってくれる貴女を今すぐ抱きしめその艶やかな唇を奪いたい。

 そんな欲情を抱いてすら仕舞う私が恐ろしいのです。貴女を穢してしまうかもしれない私自身が恐ろしくて仕方がない。


「レジス神官様。私は、今まで様々なものを諦めました。けれど、この愛を諦めたいと今は思えないのです。いつか諦める日が来るかもしれません、疲れてしまう日が来るかもしれません。若さゆえの過ちだと、そういう人もいるかもしれません。けれど、もし私とレジス神官様が、お互いに同じ想いを抱いているのなら、どうかこの私の想いを受け入れては下さいませんでしょうか?」

「レディランジュミューア様」


 立ち上がり、私の隣に立ったレディランジュミューア様に合わせて、私も立ち上がり、互いに見つめ合う。


「私は今まで、悪役という役から逃げていました。それこそ全力であらゆることをして逃げていました、いいえ、今もその悪役から逃げている途中です。けれど、レジス神官様が私のことを、神から信仰を奪う悪だと思うのであれば、私はその悪役を受け入れ全力で、レジス神官様を誘惑して堕落させる悪になります。だって私はレジス神官様を愛しているんですもの。私の愛を甘く見ないでください。命だって奪う愛も、命を捧げる愛も、なんだってよくわかってます。私は情熱的なんです。感情的なんです。独善的なんです。だから、私は悪役になります。レジス神官様を誘惑して神から奪う悪役令嬢になります」

「レディランジュミューア様、それがどれほど罪深いことなのかわかっているのですか?貴女に神の罰が下されるかもしれません。私はそれを見るのは嫌なのです。ですから、私は貴女に誘惑されたくないのです。レディランジュミューア様、貴女を愛しています。けれど私の心は神のものでなくてはならないのです。ああ、どうかこの私をお許しください。私は神と貴女の間で揺れ動く不安定な天秤そのもの。だからこそ、レディランジュミューア様に心を奪われるわけにはいかないのです」


 そうすればきっと神から私にもレディランジュミューア様にも罰が下ってしまう。

 私はいい。この愛を抱いたしまったのは私の心なのだから、どれほどの罰であっても受けましょう。けれどもレディランジュミューア様は、こんな私を愛してくれるという慈悲深い方なのです。

 私のせいで罰を受けるなどあってはならない。


「レディランジュミューア様。私はこの辺で失礼します」


 そう言って逃げるように温室を出た瞬間、一人の青年とすれ違った。どこかスティーロッド様に似ている顔は、恐らくレディランジュミューア様の兄君なのでしょう。

 視線で追ってみれば、兄君はレディランジュミューア様を優しく抱き留め、慰めているように見えます。

 噂通り兄弟仲がいいのですね。思わず嫉妬してしまうほどに、仲がいい。


 心に苦しい思いを抱えたまま学校の神殿に帰り、神に一心に祈りを捧げる。

 ああ、神よ。迷える私をどうかお許しください。私の心は神に捧げられております。そうでなくてはならないのです。

 聖職者であり、若輩者であるこの私が、神以外を愛するなど、あってはならないことだというのに、神以外に心を動かしたことをお許しください。

 ステンドグラスの天秤の剣と杯が、陽の光に照らされて美しく輝くさまを見ながら、一心に祈りを捧げる。

 善と悪は隣り合わせで背中合わせで、鏡に映る自分の姿なのだと聖書にはあります。

 悪を恐れてはいけない、憎んではいけない、恨んではいけない、拒否してはいけない。けれども、受け入れてはいけない、と聖書に書かれているそのままに、今の私は悩んでいるのです。

 彼女は悪役令嬢になると、悪役に、悪になると宣言してしまいました。

 魔法使いであるレディランジュミューアの宣言です、意図せず神への誓約になってしまったのではないでしょうか?

 レディランジュミューアは神の言語をお話になることが出来るほどの魔法使いなのです。

 私などが彼女の道を邪魔することは許されないことです。神が彼女に魔法使いの才能をお与えになったのは、彼女が魔法使いとして大成するようにと、神が望まれたことなのでしょう。

 ではそれを邪魔せんとする私こそが、悪そのものなのではないのでしょうか。

 ああ神よ、罰するのならどうか私だけを罰し、彼女をお守りください。

 私は神の従僕であり続けると誓います。


 そう誓って、長期休暇の間一度もレディランジュミューア様と会うことなく、ただひたすら私は神に祈りを捧げました

 けれども会えない日々が長くなるほど、私の心の中でレディランジュミューア様の存在が大きくなっていく。

 朝は、彼女はもう起きたのだろうかと考え、夜はもう寝たのだろうか?この月を星を見ているのだろうかと考えてしまうのです。

 ベルナルダン先生は、恋とはそういうものなのだと笑いました。だからこそ悲劇的で美しく、感動的で美しいのだと笑っておりました。

 ああ、なんと罪深いものなのでしょう。この苦しみを乗り越えて、愛する人と結ばれた先人たちの偉大さを改めて思い知らされます。

 どれほどの苦悩があったのでしょう。けれどもきっと乗り越えた先に見つけ出した愛だからこそ、結婚した聖職者たちは幸せに満ち溢れていたのでしょう。

 私はまだ神とレディランジュミューアの間で心を悩ませる未熟者。

 ベルナルダン先生から、レディランジュミューアが驚くほど美しくなったと聞かされました。まるでつぼみが開いた花のようにほんの少しの間に、少女から女の顔つきになったと言っておりました。

 それは、彼女の言う悪役として覚悟を決めた証だということなのでしょうか?

 だとしたら、私はなんと罪深いことを彼女に決心させてしまったのでしょう。

 しかし、彼女はどれほど美しくなったのでしょうか?これまでもあれほどに美しかった彼女が、さらに美しくなったとなれば、ほかのだれもが彼女を放っては置かないでしょう。

 そう、今まで以上にレディランジュミューア様に惹かれる人が出てくることでしょう。そうすれば、きっと彼女の中で私という存在は薄れ、いつしか消えて新たな恋に胸をときめかせるに違いありません。

 ……ああ、いけません。

 考えただけで胸が張り裂けそうなほど苦しくなってしまいます。彼女が私以外に愛を告白するなど、気が狂ってしまいそうなほど狂く思えてしまう。

 もうすぐ長期休みが終わってしまい、彼女に会うことになるかもしれないのに、私の心はいまだに揺れ動いたまま、いいえ、むしろ前よりも大きく揺れ動いています。

 レディランジュミューア様に会いたい。会ってはいけない。その2つの想いが揺れ動いて、波打って、私は胸を描き抱くほどに苦しく思ってしまう。

 そんな思いを抱いている中、夏季休暇の終わる直前、レディランジュミューア様の妹君と、エジッヴォア先生の婚約は発表されました。

 有名芸術家のパトロンとしても今後動くということで、教師と学生という間柄ではありますが、2人の婚約は世間に思いのほか、すんなりと受け居られることが出来ました。

 その知らせに、私はほっとしたのです。エジッヴォア先生はレデォランジュミューア様に好意を抱いておりましたので、一人彼女に集まる男が減ったとそう安堵してしまったのです。

 そして安堵した直後に、自分の心の醜さに、なんと愚かしいのだろうと私自身を嫌悪しました。

 祝福すべきところを安堵するなど、なんという醜い心を持っているのでしょうか?これも彼女が、レディランジュミューア様という存在が成せることなのでしょうか?

 神が私の唯一であった時には、こんな醜さなど知らなかったというのに。

 ああ、彼女は本当に私を堕落させる悪のような存在。けれども、私は今その存在を欲してやまない。

 ああ、天秤が揺れ動く。どちらに傾くにせよ私はきっと喪失感に絶望するのでしょう。


 そう苦悩している私の前に、夏季休暇を終えたレディランジュミューア様が現れた。

 羽化した蝶のように、開花した花のように美しく微笑み、私に愛を囁くのです。


「私は覚悟しましたの。レジス神官様を誘惑する悪役令嬢になりますわ」


 甘い香りに甘い声。ああ、神よ。私はこの蠱惑的な花に、捕らえられてしまいそうです。

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