唇と蝶の記憶

Len

第1話 記憶

「勉強は一番大切よね」

「そう、塾に毎日通っていらっしゃるの。雅史も頑張らないとねえ」

そう口にして、母は僕と目を合わせた。幼さを残す顔に不釣り合いな制服を身につけた女の子の頬が、嬉しそうに上気する。

彼女らの先輩であり美しい母が羨望の目を集めているのは、傍らの僕には一目瞭然だ。そんな女が、息子である僕に微笑む。どこか誇らしかったし、期待に応えたいと思った。応えられると思っていた。

「女学校だからあなたは入れないのが残念ね。でも将来役に立ちそうなことが一杯あるでしょう?」

実際、僕は興奮していた。笑顔で挨拶する生徒の統制された足取り、めくるめく色とりどりの看板、変わった形のガラスの器具が煌めく部屋…



その中で、一つ、ポツンと離れた立札を見つけたのは、偶然だった。連れられるままに歩き回り、子供の集中力にはおのずと限界が来る。母と生徒の絶え間ない会話への興味がふと途切れた瞬間、目に入った。

美術室。

四階建ての校舎の、廊下の一番端。人気のない道をふさぐように、木の椅子が置かれていた。背もたれに張り付けられた白い紙に、無造作に書きなぐられた、しかし流麗な文字。


美術室。


他の物が眩しいほどの飾りつけを施された中で、一つ、異質な。

単なる好奇心だった。僕はそろそろと母の背から離れ、近づいた。

それはやっぱり、ただの紙と椅子だった。媚びる要素は微塵も無い代わり、何か意思を持つような、質素で明確な案内。

それは、閉じられた正面のドアを指示している。

僕は躊躇いながら、手をかけた。


ちらりと母に目を送ると、未だ僕が離れたことには気が付いていないようだった。いつもより甲高く、はしゃぐような声が僕のところまで響いている。

「少し…だけ。」

言い訳するように、ひとり呟いた。僕が少し力を込めただけで、戸は流れるように開いた。

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