明るいモノクローム

菱田 悠

第1話 ボストン眼鏡の後ろ

僕はいつも堅物と思われる事が恐い。

それでも堅物に見える落ち着いた生き方が好きだ。


朝に出勤時間ギリギリに間に合うように起き、枕元のボストンスタイルの眼鏡を手に取って洗面所に向かう。歯を丁寧に磨く。歯医者に行った時に歯科助手の女性に歯周病が悪化しつつあると言われたからだ。

水で寝癖を直した後にシトラスの香りのする整髪料でどこまでもストレートな髪を少しふんわりとさせる。キッチンに移動しオートミールにプロテインを混ぜて食べて、鞄に昼食を突っ込んで駆け足で出勤する。



事務所の自分のデスクに座り、すぐにデスクライトを点ける。

仕事が好きだ。

広告の仕事をしているが、理論的にデザインを組み立てるのが好きだ。

紙にデザインに必要な要件を徹底的に書き出し、それらがどのような関係性にあるのかを丁寧にボールペンで辿っていくと、何を作り上げないといけないのかが見えてくる時がある。


単純そうに見える「ポスターを作ってくれ」というクライアントの要望の背景には、おびただしい情報、考え、感情が溢れ、それを辿っていると深い海に引きずり込まれていく感覚がある。

落ちていくことから逃げて安直に水面の見える方に泳いではいけない。底まで一度降り深淵を見つめながらただただ全てのものを感じる。そこである一定の時間を過ごすとすべき事が前触れなく鮮明になる。


日常的に訪れる小さな啓示のようなものだ。


この啓示が導く未来は、桶に張った水に顔をつけて感じる死と生と未来のそれとはまるで色が違うものだ。


物を作る人はみんなだいたいそんな日常的な深い潜水しているのだろうけれども、事務所の人達とその話をする事はなかった。できれば自分が感じている事、考えた事、好きなものについて話をしたかったが、この熱量は自分でも面倒臭いな、と思う。何か熱が込み上げて来た時にはボストン眼鏡の位置を直して出来るだけ静かに話すように努めている。



事務所から帰ってきて何も生けていない花瓶に目をやった。最近、花瓶に声をかけると返事をしてくれるようになった。

「今日も頑張ったよ。」

「それは良かったね。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る