第32話


 世の中には、ブラック部活という言葉がある。

 ブラック企業の部活版だ。その部活は、顧問が生徒の人格を否定したり、体調不良になるほど生徒を拘束したりする。


 翔子が所属していた陸上部は、まさにブラック部活だった。

 厳密には――翔子にだけ・・・・・ブラックだった。


「おい美空ぁ! そんなんじゃ優勝できねぇぞ!!」


 翔子は毎日のように、陸上部のコーチに怒鳴られた。

 翔子がいた陸上部には、学校の教師である顧問の他に、外部から呼んだ名うてのコーチがいた。

 問題があったのはそのコーチだ。


 そのコーチは成果に餓えていたらしい。

 聞けばここ数年、どの学校のコーチになっても成果を出すことができず、職を失うことを懸念していたそうだ。

 今年も成果を出せなければ、またクビになってしまう。

 そんな不安に駆られていたようだ。


 だから、そのコーチは翔子と出会った時――目を輝かせた。

 翔子をエースにしたら、自分は安泰だと確信したのだ。


「ちゃんとやれよ。お前はエースなんだからよ」


 それがコーチの、翔子に対する口癖だった。

 翔子は別に、望んでエースになったわけではない。

 ただいつものように適当に走っていると、いつの間にか色んな人に担ぎ上げられて、気がつけばそう呼ばれるようになっていただけだ。


 翔子は何も考えずに、自分の思い通りに走るのが好きだった。

 しかしエースと呼ばれるようになってからは、大会には全て参加させられるし、走りたくもないところを走らされるし、結果を出さないと監督や他の部員に怒られた。


 負けたらもっと努力しろと怒鳴られて。

 勝っても気を抜かず更に速くなれと怒鳴られて。


 他の部員は好きなように走れるのに、翔子だけがいつも自由を許されない。

 好きに走ることを認められなかった。

 そんな日々が続くうちに、心が摩耗していった。


 ――最初は、推薦を受けたから仕方ないと思っていた。


 なにせその学校では推薦を受けると学費が無償になる。

 翔子が学校に通うにはそれしかなかったので、推薦を受けた以上は、相応の責任を背負わなくてはならないと思っていた。


 でも――仕方ない・・・・で納得するにしても、限度はある。


 果たしてあのコーチは、翔子のことを世界一の天才とでも思ったのだろうか。

 努力と拷問の境目が曖昧になって、翔子にとっての部活は地獄と化した。

 結局……翔子は、壊れるまで・・・・・走らされた。




 ◆




「ずっと疑問だった。好きなようにやっちゃ駄目なのかって。勝ち負けに拘らないと走っちゃいけないのかって」


 過去を一通り語った翔子は、視線を下げながら続ける。

 ここまで真剣に……鮮明に語ったのは初めてだった。


「多分、そういう半端な気持ちだったから罰が当たったんだろうな。……結局、大会の前日に足を壊して、俺はそのまま退部した」


 足が壊れた原因は間違いなく走りすぎによるものだが、コーチはこれを翔子の自己管理不足とみなした。

 休憩も、病院での検査も許可せず、ひたすら走らせ続けたのはコーチの方だが……自己管理不足と言われると翔子も何も言い返せない。


 当時、翔子はそれなりに有名な走者となっていたため、大会の棄権と突然の退部には様々な反応があった。無責任だの我儘だの、色々と言われたことを思い出す。


 が、もう十分だろうと翔子は考えていた。

 おかげでもう――この足は走れないのだから。

 義理は果たしたはずだ。これ以上、支払えるものはない。


「今となっては遅いが……俺は、競争とか勝負とか、そういうのが苦手なんだと思う。陸上部に入るまではずっと一人で走っていたから、それに気づくことが遅れた」


 感情を言語化することで、翔子も考えを整理することができた。

 なんてことはない。要するに、今回も遅れてしまったのだ。

 翔子は正直に、花哩へ謝罪する。


「ごめん、花哩。やっぱり俺は一年後、普通科に転科する。……元々推薦状を使ったのも、一般入学の受付が既に終わっていたからだし、俺には自衛科として戦うための覚悟が足りなかったみたいだ」


 花哩たちについて行くには、熱量が不足していると翔子は思った。

 しかし、花哩は――。


「……違うわよ」


 小さな声で、花哩が否定する。


「あんたが、謝る必要なんてないのよ……! ぐす……っ」


 花哩は涙を堪えながら言った。


「……泣いてるのか?」


「泣いてにゃいっ!!」


 花哩は顔を真っ赤にして怒鳴った。

 涙が垂れ落ちる前になんとか手の甲で拭おうとするが、翔子には泣いていることがバレバレだった。


 なんてことだ、と花哩は思う。

 花哩は、翔子の強さ・・にばかり注目して、翔子の弱さ・・には気づくことができなかった。



 美空翔子は――才能を酷使されたことがトラウマなのだ。



 果たして、本人にその自覚があるのかは知らないが。

 いずれにせよ、花哩は翔子のトラウマを突くような真似をしてしまった。その事実に気づいた花哩は、悔しさと罪悪感のあまり涙を堪えきれなかった。


 それでも、訊かなければならない。

 何故なら花哩は、古倉班のリーダーなのだから。


「……翔子。もう一度だけ、真剣に聞いてちょうだい」


 花哩は、真っ赤に腫れた目で翔子を見る。


「あんたの才能は本物よ。あんたならきっと、金轟や銀閃にも負けない、この空のエースになれるわ。それでも……あんたは、ただ自由に空を飛ぶだけでいいの?」


 決して強要ではない、純粋な質問だった。

 翔子は、ゆっくり首を縦に振る。


「ああ。それ以上のことには、興味がない」


「……そ。なら仕方ないわね」


 花哩は小さく呼気を漏らした。


「翔子。あんたが自衛科を辞めるというなら、止めはしない。でも……できれば、もうちょっとだけ希望を捨てないで」


 花哩は語る。


「初めて会った時にも言ったでしょ。空を飛びたいなら、自衛科に入ったのは正解だって」


「……でも、代わりに戦わなくちゃいけないだろ?」


「そうね。でも、今あんたが自衛科を辞めたがっているのは私のせいよ。自衛科のせいじゃないわ」


 翔子は首を傾げた。

 花哩は自責の念に駆られながら告げる。


「自衛科の生徒にも熱量の差はある。命懸けでEMITSと戦う気の人もいれば、興味本位で入った人も沢山いるはずよ。……私は前者だから、ついあんたにも同じ熱量を求めてしまったわ」


 そもそも浮遊島で生きている人や、天防学院に通っている人に、戦いに参加しなくてはならない義務が生じるわけではない。

 元よりこの浮遊島は、戦わなくてもいいから沢山の人に来てほしいというスタンスを示している。そのための税金緩和や学費無償である。


 だから当然、翔子のようなタイプも大勢いる。

 なのに、花哩がそれを意識できなかったのは――それだけ翔子の才能が大きかったからだ。


「本当にごめんなさい。あんたは既に、普通の人以上に努力してる。それ以上を求めてしまったのは私の我儘よ」


「……悪いな。期待を裏切って」


「あんたは裏切っちゃいないわよ。私が勝手に期待して、外れちゃっただけ」


 落ち込んだ様子で花哩は言う。


「……でも、私、ちゃんとあんたと向き合うから」


「ん?」


「エースっていうのは、色んな人を率いなくちゃいけないでしょ? だったら、翔子みたいなタイプともちゃんと向き合わなくちゃいけないわ」


 古倉班のリーダーとして……そして、翔子の才能に気づいた人間として、花哩は翔子という人物と向き合わなくてはならないと思った。


「だから……こ、これからも仲良くしてくれると、嬉しいわ」


 花哩は視線を逸らし、照れくさそうに手を差し出した。

 翔子はすぐにその意図を察して、自分も手を差し出した。


「ああ。こちらこそ、よろしく」


 互いに握手する。

 そして、小さく笑い合って寮へ戻った。


 これで蟠りは消えた。

 きっとこれからは、今まで以上に快適に過ごしていけるだろう。


 ――本当にこれでいいのか?


 ピタリ、と翔子は飛翔を止める。

 頭の中に湧いたその疑問に、翔子はまだ何も答えられなかった。

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