第20話 恭子1

「迷子?」


 ぼんやりとしていた。


 駅の建物を背にして、人混みを眺めていた。いや、最初は眺めていたのだけど、そのうちただ目を開けているだけになっていた。


 頭の片隅に昨夜の騒がしさが残っていて、それが今目の前にある現実を侵食しようとしてきている。


 まず自分に声がかけられたということ。そしてその単語が迷子であるということ。


 それらを理解するのに時間がかかった。


 目の前に人が立っている。

 ロールアップしたデニムの裾から、綺麗に日焼けした肌がのぞいていた。


 顔を上げる。

 目の前には男性が立っていた。


 二十代だと思った。

 背が高い。

 色の淡い茶髪。

 甘い顔立ち。

 その取り合わせでもチャラチャラしているようには見えない。

 奇跡的なバランスで爽やかさが勝っている。

 シャツにデニムというファッションも清潔感があった。


 ナンパだと理解するまでに、さらに時間がかかった。いつもなら声をかけられても聞こえないふりをするのに、ぼんやりしていたせいで反応してしまった。


 私は無言で、視線を足元にそらす。


「まー、なりたくてなったなら別に良いけど。でも、先人から言わせてもらうなら、その道は進まないこと」

「え?」


 視線を男性に戻してしまった。男性はどちらかというと冷たい目でこちらを見ている。


「道じゃない? 橋とか、崖とか」


 俺の場合はバスだけど、と男性は続けた。


「あの」


 どうやらナンパではないらしいと、ようやく思い至る。頭の回転が遅い。舌打ちしたくなったけれど、品がないからやめる。


「もし知らずに今の状態になってるなら、悪いことは言わないから選択はしないこと」

「洗濯?」

「チューズ、セレクト」

「ああ」


 疲労感が増した。座り込んでしまう。急に何も聞こえなくなった。しばらく腕の間に顔を埋める。そのうち、街のざわめきが蘇ってきたから顔を上げた。腕が冷たい。見ると、男性が水のペットボトルを当てている。私は思わず手に取った。


「それ飲んで」

「ありがとう」


 蓋を開けようとするが、力が入らなかった。不思議だ。私がなかなか開けられなかったので、男性がかわりに開けてくれた。


「ありがとう」


 再びお礼を言った。男性は「ん」と返しただけだった。


 水を一口飲む。すると、喉が渇いていたことに気づいた。だから、二口めは一気に半分ほど飲んだ。


 冷たさが喉から胃に落ちていく感覚がした。頭が少しだけすっきりした。


「俺はもう行かなきゃだから。大丈夫?」

「はい」


 立ち上がろうとすると男性が助けてくれる。


「きみは高校生?」

「はい」

「なら、やっぱりならないほうが良いよ。どんな事情があるかわからないけど」


 なる? なるとは?


「だから、その道は進まないこと。あと、血液を見ても口にはしないこと。栄養にはならないし吐くから。美味しくもない。衛生的にもよくないし」


 血液の話を聞いて、気分が悪くなりそうだった。口にすることなんてないだろう。


 目を閉じてしまう。


「ねえ、聞いてる? きみ吸血鬼になりかけてるんだよ」

 

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