最後の水~後編

打ち上げまであと3日。クドリャフカは、当日までロケットの先端に設置された小さな気密カプセルの中で待機させられた。そのカプセルには小さな窓がついており、担当員がその観察窓からクドリャフカの状態などを細かく確認。私も同席したが、彼女の呼吸や心拍数は全て一定の数値を保っており、ストレスなど懸念されるような要素は何一つ感じられなかった。元々基地で働いていた研究員達はそのようなクドリャフカの優秀さに驚き、また大変な感心を寄せていた。


私はまるで自分のことのように喜ばしい気持ちでいっぱいで、また誇らしかった。基地での一日目はこのように、クドリャフカの身体確認を始め、ロケット、カプセル、その他専用機器の入念な確認などが行われ、それは日付が替わるまで夜通しで続けられた。夜のバイコヌールは極寒だ。酷い日は氷点下四十度まで気温が下がる。少しでも肌を露出しようものならその部分が凍ってしまう程の寒さだ。クドリャフカが待機しているカプセルの周りには暖房機が置かれ、常に二人の研究員が彼女の様子を見守ることになっていたが、私はその一人に自ら名乗りを上げた。


「オリガ、大丈夫なのかい? 打ち上げまではまだ日にちがある。それまでに君が体を壊しては大変だよ」


「大丈夫よ、心配してくれてありがとう。私は彼女のパートナーだもの。最後までしっかり彼女をサポートしたいの」


「……分かったよ。君ならそう言うと思ってたけど」


そう言って彼はクスリと笑った。そして、くれぐれも無理はしないように、と一言だけ釘を差すと自分の持ち場へと戻っていった。私は頭の先から足の先まで分厚い防寒着に身を包み、ロケットの先端へ上った。何もない荒野は一面真っ白な雪に覆われている。その中にぽつんと立っている射場は、周りに遮るものが何もない為かびゅんびゅんと音を立てて風が強く吹き付けていた。幸いにも空は穏やかで、見上げると満天の星空が広がっていた。私はもう一人の研究員に連れられて、やっとの思いでロケットの内部に入ることができた。内部はとても狭かったが、人間が二人で座っているには充分な空間だった。私はカプセルの観察窓の側に座り、中を覗き込んだ。彼女は凛とした表情でじっと前を見つめていた。


「クドリャフカ、元気にしてる?」


私が明るく声を掛けると、彼女は耳をぴくりと動かしこちらを向いた。口を大きく開けて、目を輝かせた。今にも寒さで凍えそうだったけれど、とても嬉しそうな彼女のその姿に、私は自分自身の心が温かくなるのを感じた。反対側に座っている女性研究員はそんな私とクドリャフカの様子を見て、「噂に聞いていたけど、あなた達は本当に仲が良いのね」と微笑みながら言った。


そして、いよいよ打ち上げ当日を迎えた。まだ日も昇らない夜明け前、私はクドリャフカの元を一旦離れ、基地内へ戻るとイワンを探した。彼は管制室で一人、モニターに映るロケットの姿をじっと見つめていた。室内には彼の他には誰もいなかった。私は彼の背中に向かって声をかけた。物思いに耽っていたのかイワンはとても驚いた様子で咄嗟にこちらを振り返った。


「……誰かと思ったら、君か」


苦笑いをしながら安堵の表情を浮かべている。私は彼に微笑みかけ、前方のモニターに目をやった。そこには夜明け前の漆黒の闇に溶け込むロケットの姿があった。この先端にクドリャフカがいるのだ。そして彼女は間も無くこの場所から遥かなる旅に出る。時間がない、私はそう思った。何故なら、私は最後に彼女の為にあることをしてあげたいと思っていたからである。


「イワン、お願いがあるの」


「この間は僕だったけど、今度は君か」


「そうよ、でもお願いはこれで最後。時間がないから単刀直入に言うわ」

そこまで言うと、イワンは急に真剣な眼差しを私に向けた。


「最後に水を飲ませてあげたいの、クドリャフカに」


「……」


私の言葉にイワンは黙ってしまった。片手を口元に当て、たった今、私が発した言葉を受け入れようと必死に考えを巡らせているようだった。


「無理なのは分かってるわ。打ち上げまであと僅かしかないものね。だけど、クドリャフカはここに来てからゼリーの餌しか食べさせて貰ってないの。せめて……水でいいから、何か飲ませてあげたいの」


「……ダメだと言っても君はどうせ引き下がらないんだろうね」


「当たり前でしょう」


私は必死だった。彼はそんな私の姿を目の当たりにして、少し圧倒されたようだった。苦笑いを浮かべて、うーんと唸っている。そして、しばしの沈黙の後、観念したようにこう言った。


「分かった。僕が何とかしよう」


「ありがとう……!」


すると、彼は早速目の前にあるコンピュータをいじり始めた。あまりの決断力と実行力の早さに自分で懇願したにも関わらず私は酷く驚いてしまった。


「な、何をしてるの?」


「彼女に水を与えるにはまずカプセルを開けなきゃいけない。だけど、それはタダじゃ出来ない。何かしら理由がないと許可が下りないんだ。だから、その『理由』を今、僕は作ってるのさ」


そう説明するイワンの表情は得意げだった。まるで悪戯を考えている子供のようだと私は思った。


「……理由って?」


「カプセルの中の気圧を変えるんだよ。そうすれば何が起こったのか、確認の為に一旦開けざるを得ないだろう?」


彼は素早くコンピュータを操作し、画面に視線を向けたまま言った。


「……そんなに急に中の気圧を変えて、クドリャフカは大丈夫なの?」


「大丈夫だよ。変えると言っても微量だからね。あまりに大きく変動させると逆に不自然になってしまうから」


そして、腕時計に目をやると素早く椅子から立ち上がった。


「……もうすぐヤコフやここの職員達が休憩から戻ってくる。カプセルを開けて中を確認できるよう交渉してみよう。水の件は伏せたままでね」


イワンがそう言い終えて間も無く、管制室の扉が開いた。ヤコフを先頭にぞろぞろと職員達が中に入って来た。皆、何も言葉を発さず表情を引き締めている。室内は一気に張り詰めた緊張感に包まれた。ヤコフは私とイワンの顔を見ると笑みを浮かべて口を開いた。


「いよいよだな。イワン、何か変わったことはあったか?」


緊張感はあるもののヤコフは機嫌が良いようだった。彼にとっては待ちに待った打ち上げだからだろう。


「カプセルの内部の気圧が変化しています。微量ですが、何かあっては大変なのでカプセルを開けて確認した方がよろしいかと」


イワンがそう言うと、ヤコフの表情が一変した。眉間に深い皺を寄せている。


「おい、打ち上げまでもう時間がないんだぞ。今更カプセルを開けている余裕などない」


「打ち上げ目前だからこそです。無事に発射させる為には、どんな些細なことでも入念に確認するべきです。私達はこのミッションを成功させる為に今まで命を懸けて来たんです。それはあなたも同じはずです」


イワンの口調は今までにないくらい強く、この計画における彼の気持ちが伝わってきた。何よりもその言葉の裏に、彼がクドリャフカのことを大切に思う気持ちがあるのだということが痛い程に分かり、私は胸が熱くなった。彼の熱意に心を動かされたのか、ヤコフは表情を歪めて唸っている。そして、はぁとため息を吐くと言った。


「分かった。お前の言う通りだ。カプセルを開けることを許可しよう」


「ありがとうございます」


「ただし、すぐに作業を終わらせるように」


ヤコフはそう言うと、隣に立っている青年に声をかけた。


「一緒にカプセル内部を確認しに行ってくれ」


青年は無表情のまま、はい、と答えた。彼の名前はロラン。ここ、バイコヌール宇宙基地の管制室を統括するリーダーだ。イワンとは旧知の仲で、働く場所は違えど、同じリーダーとして悩みを打ち明けたりすることもあるそうだ。ヤコフは私達を「監視」する意味でも彼を同伴させることにしたに違いない。クドリャフカに水を与えるのはやはり難しいかもしれないと、私は一瞬不安に思ったが、イワンは実に堂々としており迷いや不安等は感じられなかった。再び分厚い防寒着に身を包み、射場へ向かう。まだ夜も明けない闇の中、クドリャフカの元を目指した。誰も口を開かなかった。


ロケット先端に辿り着いた。人間が二人いるだけでも狭い空間に今日は三人。ぎゅうぎゅうだった。ロランは少し苛立った様子で、何も言わずにカプセルを開けた。急激な明るさに驚いたのかクドリャフカが体をぴくりと動かし、目を見開いてこちらを見た。


「おはよう、クドリャフカ。大丈夫よ、何もしないから、安心して」


私がそう声をかけると、彼女は安堵の表情を浮かべて口を大きく開けた。イワンもクドリャフカに、おはよう、と声をかけた。その隣でロランがカプセルの内部を入念に確認している。


「……特に異常は見られないな。閉めるぞ」


すると、カプセルを閉めようとするロランの手をイワンが止めた。


「クドリャフカに、水を与えたい。構わないかな?」


ロランは酷く驚いてイワンの顔をじっと見つめた。勘が良いのか、彼はイワンのその一言で全てを悟ったようだった。


「お、お前……まさか……その為にこんなことを……?」


「ああ、そうだよ。全部僕がやった。今、君に長々と訳を話している暇はない。責任は全て僕が取る。だから、今から僕らがやることを許して欲しい。そして、誰にも言わないで欲しいんだ」


イワンは先ほどヤコフを説得した時と同じ強い口調で言った。そして、ロランの返答も待たずに持ってきた水筒の蓋を開け始めた。


「俺がダメだと言っても聞かないんだろうな。仕方ねぇな。分かった。誰にも言わないよ」


ロランはやれやれ、と、ため息を吐いた。そして諦めた様子で、何も言わずにイワンの行動を見守っていた。イワンは底の浅い小さな皿に水を注ぐと、こちらに差し出した。私はそれを受け取り、私達の様子を不思議そうに眺めているクドリャフカの口元へ持っていった。


「クドリャフカ、私とイワンからのプレゼントよ。さぁ、飲んで」


彼女はしばらく私の目をじっと見つめていたが、やがて理解したように水に口を付けた。最初は恐る恐る舌先で遠慮がちに舐めていたが、その内、大きく音を立てて飲むようになった。彼女はこの三日間、ゼリーの餌しか与えられず、ひたすら我慢していたのだ。久しぶりに口に含んだ水はとても美味しく感じられたに違いない。


彼女が嬉しそうに水を飲む姿を見て、ああ、こんな彼女の姿を見られるのもこれで最後なんだ、と私は様々な思いが込み上げてきて、今すぐクドリャフカにそれらを全て打ち明けたい衝動に駆られた。しかし、私は自分を抑えた。

さよならは言わない。そう決意した。


「クドリャフカ、本当にありがとう。たくさんの星を眺めてきてね。そしていつか私に教えてね」


代わりに口にしたのは感謝の言葉。今にも溢れそうになる涙をぐっと堪えながら、精一杯に笑顔を作ってみせた。水を飲み干したクドリャフカは、私の顔をじっと見つめていた。私の気持ちが今、彼女に伝わっている、そう思った。


「君は僕たちの希望、そして未来だよ。宇宙に携わる者として僕たちは君を尊敬しているし、何より君に出会えたことを心から誇りに思うよ。ありがとう、クドリャフカ」


イワンがそう言ってクドリャフカの頭を優しく撫でた。彼も涙を堪えているようだった。いつもは自信と優しさに満ち溢れているその声が微かに震えていた。私もイワンに続いて、彼女の頭を優しく撫でた。よく手入れをされた、きめ細やかな毛並み、私はこの彼女のぬくもりを決して忘れない。クドリャフカは私とイワンの顔を交互に見つめると、口を大きく開けた。まるで笑みを浮かべているようだった。合図をするようにロランに視線を向けた。彼は目にいっぱい涙を浮かべて私達の様子を見つめていた。彼は口調や態度は少々乱暴だが、情に厚いところがあるようだ。何も言わずに小さく頷くと、カプセルをそっと閉じた。


「……お前らは凄いな。自分の家族同然に育ててきた犬っころを笑顔で送り出してやれるなんて……うちにも犬っころがいるが、俺には到底真似できないぜ……」


ロランはそう言って真っ赤に腫らした目を擦りながら、管制室へ戻っていった。私とイワンは気持ちを落ち着かせる為に、一旦休憩室に入り、熱いコーヒーを飲んでいた。長い長い沈黙。すると、イワンがゆっくりと口を開いた。


「……君はどうして研究所に来てくれたんだい? 僕はもう二度と君は来ないと思ってた」


「…そうね、私もそのつもりだったわ」


私は言葉を続けた。あの夜のクドリャフカの姿を思い出しながら。


「信じてもらえないかもしれない。だけど、あなたには本当のことを話しておくわ。研究所に行く前の日の晩……いいえ、あれは明け方だった。クドリャフカが私の家に来たの」


「……えっ?」


彼は声を上げた。信じられない、といった様子で目を丸くしている。


「私がどうしようもないくらい落ち込んでいたから、来たんだって。彼女、私を叱咤激励しに来たのよ」


「叱咤激励って……彼女は犬だろう?」


「ええ、犬よ。だけど、人間の言葉を喋ってたわ」


イワンは首を大きく振って、そんな馬鹿な、と呟いていた。しかし、なだめている暇はない。私はあの時のことを詳しく語って聞かせた。クドリャフカが、自分は地球に戻れないこと、それについて覚悟を決めたこと、前向きに考えていること、そして研究所の皆のことを愛し、感謝しているからこそ宇宙に行くのだということを。


「そんな……彼女は自分の運命を受け入れてたっていうのか?」


「そうよ。だから私の元に来たの。大丈夫だからって。自分の素直な気持ちを伝えに来たのよ。私は彼女のおかげで立ち直ることができたの。あの子は私達が思っているよりもずっと賢くて大人だった。私は自分が恥ずかしくなったわ……」


イワンは尚も首を振って俯いた。犬が人間の言葉を喋り、ましてや自分の過酷な運命を受け入れていたというのだ。無理もないだろう。


「彼女、あなたが一人で悩んでいることも全て知ってたわ。あなたの為に何も出来ない自分を歯痒く思っていたそうよ」


彼はハッと顔を上げ、私の顔をじっと見つめた。驚き、戸惑い、色々な感情が彼の瞳に表れていた。


「あなたに伝えて欲しいって言われたわ。『自分を責めないで、私のことを心配しないで』って」


「……彼女は、全て分かっていたんだ。だからあんなに凛とした顔を……なんということだ、僕は彼女のことを理解しているつもりだった、彼女の為に、と……出来るだけのことをやってきたつもりだった。それなのに僕は……」


彼の瞳から大粒の涙が溢れた。それを隠すように彼は咄嗟に眼鏡を外して俯いた。嗚咽を漏らして激しく肩を震わせている。何も知らなかった自分に対する悔しさ、そして自分の無力さと惨めさ……彼は、こういった様々な感情を挙げながら後にこの時のことをこう語っている。


「自分はリーダー失格だと思った。それと同時に、彼女がどれだけ賢くて、優しくて、そして勇敢な犬なのか改めて分かった。いや、彼女は犬じゃない。立派な一人の人間だよ」


私は何も言わずに、ただ彼の隣に座っていた。何度も涙が溢れそうになったが、堪えた。クドリャフカを笑顔で見送ってあげたい、今の私に出来ることはただそれだけだった。

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