第3章 最後の水

最後の水~前編

翌日、私は研究所へ足を運んだ。久しぶりに私が姿を現したので、イワンを始め、トレーナーたちが目を丸くして驚いていた。


「オリガ、よく来てくれたね」


イワンは私の顔を見ると微笑んだ。元々スマートな体格をしていたが、久しぶりに会った彼はまた一段と痩せたようだった。その姿を見て、数日前に本部に行った時のことを思い出した。彼には酷く迷惑をかけてしまった。私はとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「イワン……色々と迷惑をかけてしまってごめんなさい」


「いいや、いいんだよ。君がまた戻って来てくれて僕は嬉しいよ。さあ、そんなことより、相棒がお待ちかねだよ」


彼はそう言うと、後ろを振り返って手招きをした。広い訓練室の奥から軽やかな足音が聞こえてくる。


「クドリャフカ!」


夢中で飛び込んで来たその体を私は大きく両手を広げ、全力で受け止めた。小さな体を思い切り抱きしめて私は言った。


「クドリャフカ、どうもありがとう」


彼女は私の頬をぺろぺろと舐めると、小さな尻尾を左右に大きく振った。彼女は何も言わなかったが、喜びを全身で表現してくれた。こちらを見つめるその大きな瞳はとても輝いている。私は昨夜のことを思い出し、彼女のことをより一層愛おしく思った。


明日の出発に備え、私達トレーナーは一日様々な事柄の最終確認に追われた。もちろん、クドリャフカの身体検査やトレーニングも怠らない。彼女は皆が驚く程、堂々としていた。打ち上げが間近に迫り、不安に包まれていた研究所内は彼女のその凛とした姿のおかげでみるみる内に活気を取り戻していった。今や研究所にいる誰もが、犬であるクドリャフカに尊敬の念を抱いていた。


慌ただしい一日が終わり、一息を吐こうと休憩室で暖かいコーヒーを飲んでいると、イワンがやって来た。私の隣の椅子に座ると、ふと周りをきょろきょろと見渡した。


「今ここには私以外、誰もいないわ」


「……それなら良かった」


ガランとした休憩室には私と彼の他に人影はなく、カーテンもない剥き出しの窓ガラスは外の寒さで薄っすらと雲っていた。彼はその曇りガラスをしばらくじっと見つめていたが、大きく息を吸い込むと私の方に体を向けた。唇をきゅっと結んだその表情は何かを決意しているかのようだった。彼のその真剣な眼差しに圧倒され、私は思わず息を飲んで姿勢を正した。


「オリガ、君にお願いがあるんだ」


「……なに?」


「今晩、クドリャフカを僕の家に連れて行きたいんだ……構わないかな?」


「……えっ」


彼の言葉に、私は思わず拍子抜けしてしまった。その間、一瞬の沈黙があったが、椅子の背もたれに大きく体を預けて私は言葉を続けた。


「……なんだ、もっと深刻なことかと思ったわ。」


「どういうことだい?」


「クドリャフカについてもっと悪い知らせか……もしくは私が彼女の担当をクビになるとか……」


イワンは私の言葉に目を丸くして驚いていた。そして、そんなことはあり得ない、とでも言うように首を大きく横に振った。


「厳しいヤコフでもさすがにこのタイミングで君をクビにすることはないよ。むしろ彼は君に期待しているようだ。それから……」


そう言うと彼は一旦言葉を切って、私の目をじっと見つめた。何かを口にするのを躊躇っているようだった。私はそれを何となく感じ取り、彼より先に口を開いた。


「これ以上、悪い知らせなんてある訳がないわよね!」


あえて明るい調子で口にすると、彼は少しだけ驚いた顔をした。その瞳は、私が本心で言っているのかを探っているかのようだった。確かに、数日前までの私はクドリャフカに対して、どうしようもないくらいネガティブになっていた。けれど、昨夜の彼女との出会いが私を変えてくれたのだ。自分の気持ちに偽りがないことを伝えるため、私は彼に心からの笑顔を見せた。


「クドリャフカにしっかりお別れを……いいえ、ありがとうって言ってあげてね」


「……ああ、分かったよ。本当に……君の言う通りだね」


イワンはそう言って微笑みながら頷いた。しかし、その瞳はやはりどこか悲しげだった。


「僕はクドリャフカに、少しでもいいから彼女の為に……何かしてあげたいと思ってるんだ。僕の家には妻と子供がいる。彼女達にはずっとクドリャフカのことを話してきたから、この機会に会わせたい。彼女達と一緒にクドリャフカに楽しい思い出を作ってあげたいんだ」


私は何も言わずに彼の話を聞き、深く頷いた。すると、イワンは表情を一変させた。申し訳なさそうに俯いている。


「クドリャフカとここで過ごせる最後の夜なのに……君から彼女を奪ってしまう形になってしまって、本当に申し訳ないと思ってる」


「イワン、気にしないで。彼女は私だけのパートナーじゃないわ。彼女にとって、あなたは大切なパートナーの一人なのよ」


「オリガ……」


「だから、申し訳ないなんて言わないで。彼女、きっとあなたと、ご家族と過ごせることをとても嬉しく思ってくれるはずよ。彼女に楽しい思い出を作ってあげてね」


私がニコリと笑ってそう言うと、イワンは目に涙をいっぱい溜めて、ありがとう、と呟いた。その夜、クドリャフカはイワンの家族に暖かく迎えられ、楽しい夜を過ごした。イワンの子供達はクドリャフカのことを大変気に入り、片時も傍を離れようとはしなかったという。クドリャフカもまるで子供に戻ったかのようにはしゃぎまわり、家族によく懐いたそうだ。この幸せが長く続けばいい、いっそのこと、クドリャフカをこのまま自分の家に住まわせてしまおうかと、心からそう思ったと、イワンは後に私に語ってくれた。


翌日の早朝、私達はカザフスタンにあるバイコヌール宇宙基地へ向かった。モスクワから専用機で約三時間半の長旅だ。小型の専用機といえども遥かに巨大な飛行機を見上げて、クドリャフカは驚いた様子を見せたがすぐに慣れた。長年の訓練のおかげだろう。フライトに問題はなく、一行は無事に基地へ到着。ヤコフの采配によってそれぞれが持ち場を割り振られ、休む間もなく本格的な打ち上げ準備に入った。


午前10時過ぎ、私とクドリャフカは最後の散歩を終えた。彼女と並んで歩く、最後の道のりは私に様々なことを思い出させた。初めて彼女と歩いた日のこと、初めて心を通わせることができた日のこと……様々な感情が胸に沸き起こり、私はその度に言葉に詰まってしまったが、クドリャフカはそんな私を見上げ、私の目をじっと見つめた。それはあの夜、彼女が私に自分自身の決意を語った時と全く同じ、迷いのない真っすぐな瞳だった。私は彼女の瞳の奥にあるその決意に満ちた思いを感じ、ハッと我に返った。そして、彼女の頭を優しく撫でて、ニコリと笑ったのだった。


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