ハッピー エンド
とがわ
第1話 欲望
“愛してるよ”
まただ。
十一月の風に髪を靡かせながら銀杏の並木道を一人歩いていた。真っ黒の長い髪に隠れた耳はスマホに繋がったイヤホンで更に蓋をされていた。
愛してるの言葉は素敵だ。家を出る時から、好むいくつかのアーティストの音楽をシャッフルで聴いていた。今ので何回目の“愛してる”だろう。中には失恋をうたう歌もあるのに、それらもみな“愛してる”らしい。愛を注いでも返ってこないのを承知の上で“愛してる”らしい。そんな人もいるのか。それともそんな人で溢れてる世界なのだろうか。
そんなことを思いながら、洒落た美容院のドアを開けた。
「すみません、予約した関野ですが……」
「関野様ですね、こちらにどうぞ」
初めましての美容院は全体的に白く、客も割といた。見渡してみると鏡があちこちにあってどれが本物の人間なのか迷ってしまうほどだった。暫くして可愛らしい美容師がやってきて、希望を聞かれた。
「肩までバッサリ、色も明るくしてください」
私は即答していた。
会計時には、少し明るくなった髪がトリートメントでつやつやになり照明の一つ一つを綺麗に反射していた。
「初回サービスなので七千円です」
サービスで七千円とは高いなと思いつつもこれで私の人生が報われるならば安いものだと言い聞かせ財布に中身を吐かせた。
二時間前に歩いた銀杏の並木道を折り返す。スゥと風が吹くと露わになった首元が寒さを訴えた。試しにイヤホンをしたまま軽く頭を動かしてみる。実に軽かった。さっき見た鏡に映る自分は確かに垢ぬけていた。髪で印象は変わるのだとテレビの誰かが言っていたけれどそれは正しいらしい。
イヤホンから流れる音楽は相変わらず愛とか好きとか嫌いとか、そんなことを歌っている。曲が変わる毎に私の心は色を変えて感傷している。何を勘違いしてるのだろう。私は音楽の中のヒロインではないのに。
ふと腕時計に目をやると十二時を回っていた。時間を認識すると急に空腹な気がしてきた。とはいってもこの辺の飲食店はどこも混んでいた。
どこか奇跡的に空いてる店はあるかと歩き続けた。すれ違う人々の中には恋人同士もいて私は羨ましく思った。隣に好きな彼がいたら空腹も忘れるくらいに胸がいっぱいになるだろうに。
スマホの画面を見つめる。彼からの連絡はなかった。幾度と溜息を漏らす内に、昼食もとらずに夜が街を飲み込んでいた。
髪が短くなって色が変わったけれど、翌日を迎えても私の人生はまだ変化がなかった。いつも通り大学に向かって、一限の教室に入り、友人を待った。家から距離があり、時間に余裕を持ちたい私は早めに大学に来るが、まだ斑にしか人はいない。
暫くしてぞろぞろと人が揃ってきたけれど、友人の姿はまだなく、LINEで送ったメッセージも読んでくれていなかった。仕方なく通話を繋げると寝起きの
『ん、はぁい』
「今起きたの?」
瞼の重い眼を擦りながら返事をしているのが手に取るようにわかった。
『あ~ン~おはよう。今起きたよ』
またか、と呆れながらスマホ越しに届くようにため息をつく。
「先週もこの講義遅刻してたよね? 出席大丈夫なの?」
『ん~今日は行くよ。起こしてくれてありがとね』
そういうと通話が切れた。
美里とは大学一年の前期でたまたま同じ講義をいくつも取っていて知らぬ間に顔見知りになったと思えば、気づけばいつも一緒にいた。仲のいい人ほど、出逢いをあまり覚えていないものだった。とはいえ友達初期、彼女はこんな寝坊の常連ではなかったはずだった。いつからか、寝坊魔になって毎回私が電話をして起こすのが日課になっていた。
「どれだけ寝れば満足するのさ」
時間ギリギリになって漸く美里は教室にやってきた。
「おはよ~。いつもありがとね」
寝坊はするけれどその他はきちんとしている子だった。私なんかよりも容量が良くて知識も豊富だ。なにより、可愛かった。遅刻しそうになっても身だしなみはしっかりしていて言葉遣いも綺麗だった。サラサラなブラウンの髪はいつもトリートメント仕立てのようで、美里にあった淡い色の服にナチュラルなメイク、そしていつでもいい香りが漂っていた。
美里を見ていると、美里もこちらをじーと見つめ始めた。
「え、なに?」
「ううん、せっちゃん髪きったんだなぁって思って」
せっちゃんとは私の呼び名だった。
関野のせをとった呼び名で、そう呼ぶのは唯一美里だけだった。
「あぁうん」
「可愛いね~似合うな~」
思わず照れくさくなり笑って見せた。けれど照れただけではなく嬉しかった。美里の言葉は私の全身に染みていった。切ってよかったと思える。
「ありがとう」
そういったすぐあと、教授がやってきて教室は一気に静まり返った。美里も、ルーズリーフを用意して集中モードへと入っていた。
三限を終え、美里と別れたのは十五時前だ。帰りの電車はまだ明るいうちだからか、あまり混んでいなかった。空席がいくつかあり、その内の一席に腰を下ろした。イヤホンで音楽を聴きながらスマホを開く。昨日は疲れて連絡を返せなかった友人らに返事をした。最後に一人が残った。
私には付き合って一年五カ月の彼氏がいた。
二限の途中、スマホの画面が光った。待っていた彼から返信がきたのだ。そのメッセージは予想していた返事とはまるでかけ離れていて、私はひどく落胆した。
髪切りに行くんだ、と私。
付き合って初めて髪を切ったのだ。見たいと言ってくれると思ったのだ。見てほしかったのだ。
いいじゃん、とだけの彼。
付き合い立ての頃はこうではなかったはずだ。ただの片思いならよかった。なんのために付き合っているのか、想い合っているのか分からなくなっていく。
“愛してるよ”
綺麗な旋律に綺麗な歌声を乗せて綺麗な言葉を歌う人々。胸がズキンと痛んだ。
「別れたらどう? 前から思ってたけど」
週末、講義終りに美里と夜ご飯を食べに近くのカレー屋に入った。
「やっぱり? でもさ、もう少ししたら一年半なんだよ。別れたくない自分がいるんだよね」
「本当に好き? って思っちゃうな、彼。社会人で忙しいっていったって、そんなずっと会えないことはないと思うよ。好きなら時間作ろうとしない? 忙しいって言い訳してる人はあまり良くないと思うよ、私は」
美里のいうことは正論で、私もそう思うことは度々あった。けれど手放せない自分がいた。
「面倒くさいなぁ恋愛って」
「……そうだよね」
美里が一瞬息をのんだのを私は気づいたのに何も言えなかった。
「ねぇ、次私の話聞いて?」
今度は美里の話だった。美里は普段からあまり自身の深い話はしなかった。話してくれないのは信用されていないからだろうかと考えることもあった。勿論言いたくないなら言わなくていいし今の関係で十分だと思っていたけど、言ってくれるなら聞かない手はない。ほんの少しでも美里の世界に触れることができるのならこの上ない喜びだった。
頼んだカレーが運ばれてきてまずはスプーンいっぱいに掬った一口を食べる。
「うまっ!」
思わず声がでるほどにそれは美味しかった。カレーは詳しくないし特別好きと言うわけでもなかったけれど、曇っていた心が一拭きされて少しばかり鮮明になったせいか、それとも単純に空腹だったのか分からないけどとにかく美味しかった。美里も美味しそうに食べていて、いつの間にか話すことを忘れてしまっていた。
「美味しかったね」
結局美里の話を聞けずに店を出てしまった。美里はもう話したくないだろうか。大学生になってここまで自分を曝け出せる友達は美里だけなのにこの距離感にまた心が曇っていく。
「さっきの話だけど」
そう切り出した瞬間、私の心が曇りを晴らすのを感じた。なんて現金なのだろう。でもそれは一時で、いつもすぐ曇っていく。どこか、そういう不安定な関係だった。
「話す必要もないかなって、思ってたんだけど」
美里は重たそうな口を開いて話し始めた。
「実は昨日写真撮りに電車に乗ってたんだけど、偶然ね、初恋の人にばったり会っち
ゃったの」
美里は私と出逢ってから暫くして、一眼レフを購入して度々一人で写真を撮りに出掛けていた。
「初恋?」
美里の恋愛事情など微塵も知らず、いつの間にか美里は高嶺の花で恋とは無縁だと決めつけていたのだと気づく。
「うん。今はもう好きじゃないけどね? 初恋っていっても気持ちも伝えてないし、向こうからしたらただの先輩だったんだけど」
「年下がタイプなのか」
「いや! そういうわけではなくて……」
珍しく美里が頬を赤らめて照れていた。
「それで?」
「うん。向こうが気づいてくれて、話しかけてくれたんだけど、私無視しちゃって」
それを聞いても、本当に美里の話なのか疑ってしまうほどにはその光景が全く想像できなかった。
「でもね、無視したのにその子もう一度話しかけてくれたの。それで気付いたの。友達を傷つけたいのかもしれないって」
美里は何度も言葉をつっかえながらもなんとか言葉を紡いでいた。
「どういうこと?」
私は、理解出来なかった。
「高校の時ね、友達に優しいってよく言われてたんだ。でも昨日ね、なんで友達に優しくしてるんだろうって考えたら、分かったの」
美里は一呼吸を挟んでから再度口を開く。
「それって優しさじゃなくて傷つける準備だったの」
美里から漂う緊張感の重さが、伝染する。けれどやはりわからない。美里には優しいと思う瞬間が多くあった。短い付き合いでも美里は優しい子だと捉えるのは容易い。
美里は重たい口を開き続ける。
「優しくしたり仲良くするのって、それ全部傷つけるためなんだって気付いたの。普段優しい人がさ、急に連絡途切れたりしたら“どうしたの? なんで? あの子が?”てなるじゃない」
「まぁそうだねぇ」
「そうでしょう。普段からそういうのだらしなかったら、いつものことだってなるだけだもの」
美里はとても思い詰めているように見えた。いや、思い悩んでいる。
「仲良くなるってさその分距離が近くなるってことでしょう? それはつまり抱きしめられる距離にあって、だから心臓を刺せる距離なの」
車が行き交う大通りを歩きながら、美里は真剣な表情でそう言葉にした。物理的に近ければ確かに心臓を刺せる距離だというのは分かる、けれど。
「私、初恋の子のこと、もう想ってないけど、私あの時好きだったんだよって分かってほしくなった。親しくしてた私が無視することであの子を傷つけて、それでも話しかけてくれて幸せな気持ちになった」
予想外で返答に困った。美里は普段は平和な子でふわふわしてるけれど、自分をしっかり持っている人だった。ただのマイペースな子じゃないことはなんとなくわかっていたけど、私が思ってもいないようなとんでもなく暗い闇を抱えているらしかった。
「傷つけるのはもちろん嫌だけど、でも欲望として傷ついた状態の相手が尚自分を求めることに愛を感じてるみたいなの。究極の愛がほしいから、ぎりぎりを攻めていたいから心臓一刺しにはしないの。変だよね」
私は「あー」とか「うーん」とか返事にならない声を発しているだけだった。
そこまで話してちょうど駅についた。私の乗るべき電車が数分後には到着する。美里は大学傍のアパート住まいだから、ここでお別れだった。内心、ホッとしていた。
「えっと、帰る?」
「もう少し聞いてたいけど、もう帰らなきゃ」
そういってなんとなく居心地の悪さを漂わせながら私たちはバイバイをして別れた。
中途半端で終わってしまった。来た電車に乗ると奇跡的に席が空いていて座ることにした。どっと疲れを感じた。溜息がこぼれでる。
美里に助けられたことは多くあった。最近は寝坊しているけど、それ以外はすべて尊敬できる人だった。可愛くなろうと努力する、興味のあることには自ら掴みに行くところ、そして周囲の人にストレスを与えない朗らかさ、さりげない優しさ。後半二つは、嘘の美里なのだろうか。ナイフを持たない代わりに、綺麗な言葉で相手の心に漬け込んでじわじわと傷つける準備をしている。何一つ理解できなかった。でも一つ分かるのは、それはつまり、私も該当するのだろうということ。私の心は一気に曇り、何も見えなくなっていった。そして、それに気づかれることを懸念して美里は最初話すことを躊躇したのだろう。それでも話すことを選んでくれたことは素直に嬉しいのに、やはりどうしようもなくもやもやした。
電車が最寄り駅に着く頃、私は眠りから覚めて慌てて降りた。ホームに降りた瞬間、電車の中がどれだけ温かかったかよくわかる。震えながら定期を出して歩きながらスマホの電源をつけた。するとそこにはいくつかのメッセージが入っていた。一番最初に目に入ってきたのは彼氏の名前だった。予想外の返信に一日遅れで「いいでしょ」と送ってから今日は三日後だった。
“会いたい”。
私は現金な人間だった。彼からのその一言でどれだけ満たされただろう。会いたいとか好きとか、そういう言葉は安心した。私ばかり好きなのだと思っていたけど、彼もちゃんと好きなのだと確認できる。愛されているのだと分かるのはすごく安心するから好きだ。
そう思って、気づく。美里の愛されたいの欲望に。
改札を出て寒さに耐えながら夜道を一人歩いた。“会いたい”というメッセージを見るたびに口元が緩んだ。愛されたい、それは私の中にもある感情だった。愛した分だけ愛情を返してほしい、それは当然だった。だからこそ、アーティストの“愛してるよ”に違和感があった。
愛を求めることは当たり前だ。
吐く息が真っ白で曇っていたけど、それは普通のことだった。
家についてから美里にメッセージを入れようとスマホを取り出した。帰り道で気付いた私の愛の欲望を伝えるためだ。美里の傷つけたい、とは私にとっては相手を試すことに近いのだと解釈した。本当に私のことを好きでいてくれているのかを試すもの。例えば別の男といる写真をSNSに上げるとか、そうやって相手を傷つけて愛情を求めたい衝動は私にもあった。メッセージを打ち込みながら、昔経験した不思議な感情を思い出した。それは高校の友達への感情だった。
文字をうつことをやめ、直接美里に電話を繋げた。秒で既読をつけてくれていたので、着信にもすぐに応答してくれた。一度断りを入れてから、私は自分の話を始めた。
「思い出したんだけどね、私そういえば高校の友達にすごい嫉妬してたんだ」
同じ年の女の子だ。彼女は髪が長くて友達が多くて、どちらかといえば私とは分類が違った。どちらかと言えば彼女は一軍にいるような人。そういう中で私たちは仲良くなった。毎晩遅くまで連絡をし続けていた。学校では同じクラスでも一緒にいるグループが違って、接するタイミングはほぼなかった。それでも小さな悩みも恋愛の相談だって全部言い合って、支え合っていた。彼女はよく言ってくれた、「ありがとう」「大好き」「一生大切」って。それは私だって同じだったけど、そういわれることも思われることも嬉しかった。彼女のことが友達の中で一番大事で大好きだった。でも、やっぱり私たちは生きる世界が違った。大学生になって会う事も連絡の頻度も徐々に減っていった。向こうには私よりも大切な友達が沢山いるのだと思い知らされた。所詮そんなものだと口ではいっても、私は酷く傷ついていた。彼女の一番でありたかった、その子だけに唯一嫉妬していた。
話し終えると美里はとても共感してくれた。美里もこんな気持ちでこんな感情を抱いているのだと共感し合えたことを誇りに思った。
「その子が私の誕生日も忘れて当日祝われなかった時なんて本当に落ち込んだよ。繋がってるSNS全部消して消息不明にして、そしたら“どうしたの?”て心配してこっち向いてくれるかなって思ったこともある」
『わかるなぁ。せっちゃんもそう思うことあったんだね』
これが相手を傷つけてでも愛がほしいということなのだ、と理解した。私の中にも美里と似たような感情が存在していたらしい。それに気づいてしまったことにはショックだ。自分の中にこんな憎たらしい感情があったことに落胆した。今では高校の子にはもう期待しないようにして諦めている。そうやって人に愛情を注ぐことに臆病になっているのだろう。それなのに、私は一歩踏み出してしまったのだ。
『つらいよね』
美里がいう。
「愛されたいよねやっぱ」
『うん』
その後はいつもの私たちのように大学の話や趣味といったそんな他愛ない話をした。
通話が終わると小さな部屋は一気に寂しくなった。もともとそこにあった静寂が顔を出す感覚。寂しさにつられて、あの頃の嫉妬心を思い返す。彼女に対するあの感情は初めてのものだった。初めてだし、あれ以来同じような感情は現れない。恋愛とも違うと思う。でも限りなく近いもののような気がする。とにかく彼女の一番でありたくて、そのために彼女のためならなんだってした。一番になりたいがために彼女のことを想っていたのかもしれない、と今なら一歩立ち止まって考えられる。
しかしそうすると、私の彼氏への想いは何モノだろう。
あのメッセージを再度見て頬を赤らめた。
スマホからは相変わらず愛してるの言葉が響いていた。
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