虚空
僕は最近、恐ろしい事実に気づいた。生まれてからこの方、一度も人と会ったことがないのだ。自分の肉親にさえ。
僕は孤児ではない。暖かい両親に、愛情を持って育てられた。小学校では友達がたくさんできたし、今働いている職場でも、上司や同僚との仲は幸いにも良好だ。しかし、一度も彼らに会ったことがないのだ。
それは、僕の生きる時代における人と人とのふれあいが、すべて画面越しで行われるためだった。物心ついた頃には、一畳ほどの部屋にひとり横になっていた。ベッドはふかふかで柔らかい。天井には超高解像モニターが付けられ、意識があるときは、そこしか見るところがない。食事は一日に三回、壁の一部が開き、栄養のとれた美味しいものが出てくる。夜眠ったときに見る夢はいつも運動しているものだが、それはどうやら、脳に何らかの作用を及ぼすことで運動不足によるストレスを歪んだ形で解消しているようだった。そんな生活を不幸だと思わなかったのは、それが当たり前だと思っていたからだ。そしてそれは、この時代に生きる誰もがそうなのだ。
僕がどうやって、この不自然さに気づいたか。それは、最近かかった病気のためだった。長らく続いた吐き気によって、僕は食事を全くとれなくなった。それにより体調と気分は最悪だったが、一方では、人として当たり前な、原始的な直観のようなものが目覚めてくるのを感じた。これはおかしい。ここはどこなのか。どうして、人と直接触れ合うことができないのか。今まで不自然な生活様式を当たり前に感じていたのは、食事に何か含まれていたためのようだ。
僕はそれから、定期的に食事を抜くようにしている。どうしても空腹はやってくるので、食事を全くとらないわけにはいかないのだが、とりすぎると、狂った生活が自然なものに思えてくる。そのたびに、僕は食事を拒否し、しばらく絶食状態に入る。
正常な頭になるたびに、どうして、と考える。どうして、ひとり狭い部屋に閉じ込められているのか。壁を突き破って逃走してやろうかと考えることもあるが、そもそも起き上がることができない。筋肉が退化してしまって、どうしようもないのだ。頭がまともになると、あまりの孤独に発狂しそうになる。限界が来ると、食事をとり、友人にチャンネルを合わせ、語らいを始める。僕は、誰にも恐ろしい事実を伝えようとしなかった。それは、あの食事をとった人間には、どうしても理解できないことだから。僕自身、恐ろしい事実を知っていながら、食事を三日も取り続ければ、奇妙な夢を見た朝のように、何もかも忘れてしまうだろう。
僕は絶望していた。作られた人生に。モニター越しの人々は、もはや心のない人形のようにしか見えなかった。僕はそんな気持ちを抱きながら、画面越しの恋人と他愛のない話をしていた。そんなときだった。モニターにノイズが混じり、別の画面に切り替わった。そこに現れたのは、見ず知らずの男だった。彼は自分を救世主と名乗り、目覚めた人間を解放する活動を行っていると言った。僕は溺れるほど涙を流し、ただ一言、助けてほしいと言った。救世主の男は、三日後に君を助け出すと言い、モニターは再び恋人を映した。恋人は、モニターが故障したことに慌てふためき、涙にぬれた僕に気づかない様子だった。
三日後、深い眠りから突然目覚めたのは、本能が騒ぎ立てたためだ。壁に目をやると、大きな半円を描くように、刃物が線を入れていた。刃物の線が円を描き切ったところで、壁が丸く切り出され、空洞ができた。凍るように冷たい外気が部屋に流れ込んできた。そして、救世主の男も。呆然とする僕に、彼は言った。
「さあ行こう。本物の世界に」
僕は、平べったくない人間を見るのが初めてだった。僕は驚きで言葉を忘れそうになったが、用意していた質問を投げかけた。
「この世界は、どうしてこんな風になってしまったのですか」
救世主の男は、威勢を張りながらも、何かに怯えるように、暗闇を映す開けられた壁の穴をちらと見た。そして、一息ついてから言った。
「これが、最適解だったからさ。最も人道的で、最大多数の最大幸福を実現するには、これしか方法がなかった」
僕は頭がつぶされるように痛かった。
「これが、幸福ですって。この生活が。みんな頭がイかれてる。僕らは、自分の力で地面に立つことすらできない。立とうともしない。これが、人間と呼べるのでしょうか」
救世主の男は、中傷的に鼻を鳴らした。
「変化は、徐々に起きた。だから、誰も気づけなかったんだ。モニター越しの娯楽、モニター越しの友情、モニター越しの愛。それらは手っ取り早く、安価で、ストレスのかからないものだった」
僕は呆然と男を見つめた。男は続けて言った。
「モニターを挟まなくても、フィルターはかかるものだ。外は辛いが、それが人間の有り方だと感じるなら、一緒に行こう」
僕は差し出された彼の手を取った。そして、脚に力は入らずとも、目一杯に彼の手を握りしめ、絶対に離さないと決めた。そうして僕は、男に引きずられるようにして部屋を後にした。
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