天国の証明

峻一

天国の証明

 そのニュースはすぐ世界中に広まった。某大学の学者が、天国が存在することを証明する論文を発表したのだ。彼の論文によると、天国の世界では、魂から幸福ホルモンであるセロトニンが、トレビの泉から暖流するように美しく沸き上がり続ける。また、春穏やかに降りてくる陽光が穏やかな波のように辺り一面を覆い、誰も笑顔以外の表情を作らないとのことだった。人々はそのニュースに唖然とした。天国と科学など、全く正反対のものではないか。誰もがそう考えた。もちろん、世界中の学者たちも同じことを思った。天国の存在を科学的に証明するなど、そんな馬鹿な話はないと呆れた。しかし、試しに学者たちが彼の発表した論文を読んでみたところ、その内容は学術的レベルが非常に高く、数学的かつ論理的であることが認められた。つまり、科学によって天国の存在が確かなものになったのだ。

 人々はこのニュースに歓喜した。人類はついに、死の恐怖を克服した。死後、我々には素晴らしい世界が待っている。人々の生活が活気づく一方、自殺者は急増したが、それは悲しい出来事ではなかった。彼らは先に天国に行っただけだ。葬儀の参列者は故人が今頃どれだけ幸せかを想い、笑顔を浮かべた。しかし葬儀の中、誰よりも笑顔だったのは棺桶に収まった故人本人だった。

 一方では、凶悪犯罪が急増した。中途半端な犯罪をして捕まり、長い間牢屋に入ることになるくらいなら、派手に犯罪を起こして死刑になった方がいいと犯罪者たちは考えたのだった。しかし最も奇妙なことは、彼らが起こす犯罪に巻き込まれた人々の死体が、屈託のない笑顔を作っていたことだ。死刑にされ首を括られた犯罪者もまた同じ。死刑制度はむしろ犯罪者を天国に送る儀式と化したため、廃止された。

 医者が必要なくなった。医学の代わりに必要になったのは、安楽死だった。いかに苦しまず、楽に天国に行けるか。そこに焦点が定められた。病気になり、苦しい闘病生活を続けるくらいなら、さっさと天国に行った方がいいのだ。

 誰もが死を待ち望んだ。人類史上新たな価値観が産声を上げた。


 天国の存在が証明された論文が発表され、一年が経った。死は幸福の始まりで、素晴らしいもの。社会全体にそんな価値観が完全に浸透した。そんな時だった。ある学者が天国の存在を証明した論文から、科学的根拠に基づいて新たな事実を見つけた。その論文の内容はあまりにも残酷で、恐ろしいものだった。

 彼は地獄が存在することを科学的に証明した。彼の論文によると、地獄の世界では、魂からストレスホルモンであるコルチゾールが、アンヘルの滝から奔流するように荒々しく沸き上がり続ける。また、太陽が目の前にあるかのような灼熱が鋭利な針のように辺り一面を刺し、誰も苦痛以外の表情を作らないとのことだった。しかし最もたちが悪いのは、死後天国に行けるか地獄に落ちるかは、完全に運任せであることだった。それも、難解な計算の結果、科学は地獄に落ちる確率の方が高いことを示した。宗教であれば良き者が天国に行き、悪しき者が地獄に落ちると語られるだろうが、科学は違う。科学は自然法則に基づき、感情を介入させない。科学は冷徹で論理的、故に真実なのだ。

 人々はこのニュースに絶望した。人類はまた死の恐怖に怯えることになった。それも、以前のような虚無に対する恐怖ではなく、果てしなく深い苦しみに対する恐怖に。天国の存在は、圧倒的な恐怖の前で影を薄くした。人々の生活が暗くなる一方、自殺者が極端に減った。例え今の生活がどれほど苦しくても、万が一死後地獄に落ち、永遠の苦しみを味わうことになる方が怖いのだ。葬儀の参列者は故人の行く末を気にかけ、涙を流した。しかし葬儀の中、誰よりも表情に暗い影を落としていたのは、棺桶に収まった故人本人だった。

 死刑制度が復活した。死刑ほど恐ろしい罰はないと、人々は再び痛感した。以前に増して死刑は犯罪の大きな抑止力となり、凶悪犯罪は一気に減少した。犯罪を犯さずとも、自然現象として存在する地獄に対する恐怖が、すべての人を裁くようだった。

 深刻なのは、人々の心情それだけではなかった。天国の存在が証明されてから地獄の存在が証明されるまでの一年間で、世間では病気にかかると安楽死を選ぶことがすっかり常識となっていた。そのため医者の数が相当減っており、急に増えた患者に病院が対応できず、医療崩壊が起きた。治療を受けられるのは裕福な一握りの人々だけとなった。加えて気分が沈めば体調も崩しやすく、人々の間で加速するように病気が蔓延していった。相変わらず安楽死だけは誰もが低価格で受けることが出来たため、病気が悪化し、どうしようもなくなった人々は、崖から飛び降りるような気持ちで安楽死を選んだ。彼らは苦虫を食い潰すような表情で死んでいった。


 なぜ、科学は地獄が存在することを証明してしまったのか。その存在を知らないまま生きていたかった。その存在を知らないまま死んでいきたかった。しかし、知ってしまった。天国と地獄、どちらも現実のものなのだ。それは、熱が温度の高いところから低いところへ移動する熱力学第二法則のように。電磁誘導により発生する起電力は、単位時間当たりの磁束の変化に比例するファラデーの法則のように。赤道付近のペルー沖で数年に一度、海水温が高くなるエルニーニョ現象のように。科学の強力な裏付けによって、天国と地獄は確かに存在するのだ。

 耐えがたい恐怖から人々を救い出したのは、宗教だった。宗教は寛容で、優しかった。宗教は人々が天国に行くことを約束してくれた。人々は神の深い慈愛に心から感謝した。

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