第14話 霧雨止む

 アメリアが八歳に都会の街からリンガン村へ越してきた頃、彼女はすでに絵を描いていた。街にいた頃も目の前にあるものなら何でも写生していた。街の石畳に咲く一輪の花。黒地に白いラインが入ったタクシー。蔦に覆われたレンガ壁で休憩するヤモリを怯えながら描いたこともある。ただ、必ずしも美しい絵を描こうとか、誰かに作品を評価されたいといった欲求はあまりなかった。村に越して来てからもただひたすらに花や草木を描くほかに空想の世界を描くこともあった。これは街にいた頃の彼女にはなかった試みである。街には絵を描く題材がたくさんあった。行き交う人、競うようにすれ違う車、どこか可愛らしさも感じられる流線型の赤い路面電車、グラフティの落書きがされた看板、残飯をむさぼる食欲旺盛なカラス。村の景色はそれらがなかった。その代わりに四方にそびえる山々、止むことのない風にもたれかかる草木にたくさんの大木。彼女にとって村の最初の印象は少々退屈だったようだ。だから絵の題材に自分の頭の中のクローゼットから見繕うことにしたのだ。


 彼女は絵を書き出すと、脇目も振らず集中する。授業や食事の時間を除いての大部分をそれらの時間に充てた。学校に転校してからひと月、二月、三月と経っていった。彼女がふと絵を描くのを止めて広い教室を見た時、自分とクラスメートの間には大きな隔たりができていた。好かれているかどうかもわからず、嫌われているかどうかもわからず、彼女は戸惑った。恐怖すら感じた。初めて自分が教室に紛れ込んだ異物だと「自覚」した瞬間、溜息をついて[[rb:俯 > うつむ]]くしかなかった。ただ、俯いた視線にはスケッチブックはなかった。


その時だった。彼女の横で明らかにこちらに向けられた少女の声がした。


「その原っぱってあそこだよね。北へ進む道を曲がったところの」


「ええ。ラベ公園のところ。よくわかったわね。」


 村の北外れに唯一の公園があった。公園とは言っても遊具はなく大部分が草原広がっており、それを木々が天然の仕切りとして周辺に生えていた。アメリアは休みの日に父や母とここに来ることがあった。両親はここで寝転がって過ごすのを好んでいたが、彼女自身はのんべんだらりとする親を後目にひたすら絵を描いていた。


「ここって行くまでがしんどいよね。坂道とかあってさ」


「そうね。あなたもここによく行くのね」


「うん。たまに一人で行くんだ」


「一人で?!親御さんは心配したりしないの?」


 アメリアは驚き、少女に向けて初めて視線を合わせた。実際アメリアが驚くのも無理はなかった。彼女がこの公園に行く時にも自宅から車で三十分ほどかかり、無理ではなくとも八歳やそこらの子供が歩いて行くような距離ではなかった。


「よく心配はされるよ。でも遠くに行くのが好きだから」


少女は笑ってそう答えた。その少女こそリリだった。彼女自身、今思えばリリはサラのような万人に向けられる社交性はなかった。ヤンや自分のように一つのことに没頭するタイプでもなかった。だた、好きな事が視界に入ればそこに向かって着実に進んでいける強さがあった。


「アメリアはなぜ絵を描くようになったの?」


転校時に自己紹介をしてクラスメートは少なくとも名前は知っているとはいえ、いざ口に出されると彼女自身照れくさいものを感じた。ただ、「なぜ」と言われると言葉に出ない。だからアメリアはこう答えた。


「絵を描くのが好きだったからよ」


「そうか。私と一緒だ」


「私も知らない場所へ行くのが好きだから」


リリはまた、あの笑顔を見せた。屈託のない純粋な笑顔を。


「私はリリっていうんだ。よろしく!アメリア!」


そういってリリは手を差し出した。


「よろしく」


 アメリアも気恥ずかしさが入り混じりながら手を差し出した。お互いに握手した瞬間、アメリアは胸の内の干からびた地面に水が入り潤っていくのを感じた。他のクラスメートはアメリアに人を寄せ付けない雰囲気を感じていただろうし、彼女自身もそういった雰囲気を醸し出していることは重々理解していた。だが、リリは彼女自身や他のクラスメートがこじ開けるのも難しいと感じていた止水板を、いとも簡単に粉砕しアメリアの心に水を行き渡らせたのだ。


******************************


 当日、まだ朝日も昇らない頃、四人は広場に集まった。空からは腕にまとわりつくような霧雨が降り、広場にはモヤがかかっていた。人のいない広場には風の音とそれに応える小さな風車が回る音しかなかった。


 広場の側にある子供が五人ほど入れるくらいの大きさのごみ収集箱に早起きなカラスが複数屯していた。広場は常に電灯が淡く照らしていたが、四人はあえて明かりの影がある場所を集合場所にした。早朝とはいえあまり目立ちたくなかったからだ。早朝に集まろうと言い出したヤンが一番遅れてやってきた。アメリアの「遅い!」という言葉に苦笑いをしながらリュックを下ろした。


「まずはみんなの持ち物を確認しよう」


 四人はそれぞれ持ってきた持ち物をリュックから出した。全身を覆うレインコート、少し寒さを凌げる羽織もの、歩く途中で飲める水、腹の足しになる程度のお菓子。ヤンは他の三人にそう伝えた。


 皆それぞれしじどおりのものを持っていることを確認したヤンは、ひとつ間をおいてから三人にこう言った。


「今回の件は僕に責任がある。もし下見を提案しなければ、そもそも『ピクニック』に皆を誘わなければこんなことには…」


「そうじゃない!」サラが遮った。


「もうここまできて責任がどうとか、誰も考えてないんだ。みんなリリを助け出したい思いでここに来ている。みんなリリに会いたいんだ!」タムが続いた。


「あんただけが重荷を背負っているつもりになっているんだったら、その考えは止めることね。ここに来ている以上、みんなでそれを背負っているんだから」アメリアがそのまま進もうとした。


「最後に」ヤンが言った。


「一番の目的はもちろんリリを見つけ出すことだけど、山に入る以上、自分の命も守らなくちゃいけない。夕暮れ前にはここで解散する。それでいいね」


他の三人はそろって頷いた。霧雨が止み、空は赤色に染まり始めた。

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