第3話 山の笛
リリは見上げた。自分よりはるかに高い木々が立つその場所、奥へ続く石畳の階段を。そして首元まで伸びた後ろ髪をリュックから取り出したヘアゴムでくくり、両手で頬をパチンと叩いた。叩いた後の頬はわずかに熱を帯びながら、今立っている場所を彼女に五感をもって教えてくれた。
「よしっ」小さく口の中で呟くと、山への一歩を踏み出した。
石畳の階段は、それぞれの段を通り過ぎた人が踏みしめた数だけ角が取れて艶に変わっていた。露で湿り所々に苔が潜んでいる。近くには小川が流れる音が聞こえた。鳥や小動物が木の高いところでやり取りを交わし、木と木の間を渡り歩く。背の高い木は頭の部分で日光の多くを独占していたため、暑さのピークを過ぎていたとはいえ少し走れば汗ばんでしまう季節に長袖でも無いと肌寒く感じてしまう。その冷たい空気は多くの湿気をはらんでいた。それは今、村の道とは段違いに大きな木が連なる山道か、空の遠い深い谷底の違いでしかない景色だった。
流石のリリも長袖の薄いジャケットを取り出して羽織った。この道は二度目に歩く。一度目に歩いた時は山道の物々しさに圧倒されて頂上から半分辺りのところで引き返した。冒険は好きだが、怖いものにはめっぽう弱い。リリにはそんなジレンマにも似たところがあった。
時折山道には笛が鳴る。山が奏者となって山道に響かせる。最初はかすかに聞こえる小さな音だが、徐々に大きくなり、過ぎ去るようにまた小さくなる。それでも風の方向と温度湿度などの条件さえ合えば、美しいアルトの音色を聴かせてくれる。石段から先ほどと比べて上り傾斜が緩やかになった山道を歩くリリの耳にも届いた。村中の山道を歩いてきた彼女にとって屋台の移動飯屋が使う笛の音よりも親しみのある音だった。台所で沸騰するヤカンから出る笛の音を茶の間で聞く感覚に似ていた。風の止まない家の中とは程遠い環境の森の中で、近くとも遠くとも似つかない、距離感を曖昧にする安心感があった。
山道を入って一時間近くになるがリリが歩く道に人がすれ違うことはなかった。途中遠くの木の間から鹿が、崖の下に土色の毛色をした兎が二羽いるだけだった。木漏れ日が道を照らし、短い時間の道標を作ってくれるが、なんとか水溜りができる程度に凹んだ地面には目新しい足跡が何一つない。足を止めて一度振り返り、自らが歩いた場所を眺めてみるが、彼女が踏み締めた足跡だけが残る。羽虫が右耳を通り過ぎた後、リリは少し不安になった。今まで村の山道を歩いてきてこんな気持ちになったのは初めてだった。引き戸を少し開けた時のような太陽の光、人気のない曲がりくねった薄暗い道。それは彼女にとって見慣れた風景のはずである。前を見ると遠くが見える。向こう側が。延々と見える。リリはこのまま自分は永遠に目的地に辿り着けず歩き続けなければならないのかと思い始めた。
また笛が鳴る。さっきよりは少し高い音で鳴る。リリは気持ちを落ち着けるため、水筒の水を一口、勢いよく飲んだ。胸に手をやると普段の心拍数とは違っていた。
「とにかく気持ちを落ち着けよう」そう言って細い木の幹で作られた階段に座って、汗を拭い、今朝母からもらった焼き菓子を食べた。自家製マーマレードが練られていて酸味を含んだ甘さがリリの口の中で広がった。
腕時計を見る。緩やかにカーブを描いた針が三本、それぞれ違う長さで違う速度で回っている。正午まではまだ時間がある。
リリは後ろを振り返った。遠くに宙に浮いたレールが崖の隙間に通っていた。
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