魔女の黒猫

ナカ

01

『黒猫は、魔女の使い』


 いつからそんな噂が流れていたのだろう。

 気が付けばその噂は、当たり前のように誰もが知っているものになっていた。

 それは、一人の女性と一匹の猫に対して囁かれているもので、この街に住む者ならば誰でも知っている。

 何故その噂が当たり前のように受け入れられてしまっているのか。それがずっと不思議で仕方が無い。しかし、それに対して説明をしてくれる人など残念ながら一人も居ない。所詮、噂話は噂話。出所など非常に曖昧……と、そういうことなのだろう。

 その噂話を聞く度にいつもこう思う。


『猫なんてただの猫』


 色が黒いから魔女の猫だなんて、決めつけるのも良いところだ。虎だろうが三毛だろうが、猫は猫に変わりないのに、何故黒い猫だけが使い魔と称されてしまうのか。

 それに対して口を開いたとき、誰かはこう言って理由を付けた。


『黒い猫は不吉だから』


 たったそれだけの理由で良くない物だとレッテルを貼られた黒い猫。真っ黒な中に二つの金色が不気味に光るのが悪いのか、瞼を伏せれば闇に紛れて分からなくなってしまうのが拙いのか。ただの猫は今じゃすっかり魔女の猫という肩書きを持ってしまっている。

 みんなはこの猫のことを魔女の猫だって疑わなかった。どんなに否定してもそうじゃないと説かれてしまう。

 でも、もしかしたらそれは、『疑う事自体が怖い』と。無意識にそう思っていたからのかも知れない。



 その建物は入り組んだ路地を抜けた先にあった。

 大通りから脇に反れた筋道。そこを直進して一つ目の角を左に曲がる。暫く歩くと突き当たり三叉路が現れる。二股に分かれる道の真ん中。目の前に立つされているカーブミラーは色褪せており、鏡面は薄汚れて常に濁っていた。

 この三叉路は実に見通しが悪いというのに、安全を確保するために設置されたカーブミラーの鏡面が磨かれることは一切無いようで。いつだって濁った向こう側の世界がそこにあり、その像はとても不鮮明だったのをとても良く覚えて居る。

 その三叉路から右の道へと進み三つめの角を右に曲がる。すると、道幅の更に狭い脇道へと続いていく。本来ならば、この道は通る者が殆ど居ない。普段から薄暗く、日が高い時分でも陰湿な雰囲気が漂っているのだから、好んでこの道を使用する人間など限られていた。

 ただ、この不気味な脇道は使ってみると分かるが実に便利なのである。

 この町の歴史は随分と古いようで、道路事情はお世辞にも宜しいとは言えない。よく言えば情緒があるのだが、悪く言えば生活に不便を感じる。その結果、目的地によっては主要道路を使う方が距離と時間が掛かってしまうため、このような路地を使用することはとても便利だと感じてしまう。そんな理由から、薄暗く不気味だと感じながらも、この道を使う人間は少なからず存在しているのだ。

 そんな細い道を抜けると少し開けた裏の道へと出ることが出来る。ここを右に曲がり、あとは道なりに真っ直ぐ進んでいけば、緩やかな坂道へと繋がっていた。

 何故こんな不便だと感じるところに店を構えようと思ったのか。店主の考えはよく分からない。それでも、毎日と言うほど通い慣れた道を歩き、その場所に向かうことは嫌いでは無い。

 坂の途中で足を止め振り返ると見えてくる不思議な光景。何の変哲も無い町の姿な筈なのに、何故かこの坂の上から見ると、少しだけ雰囲気が異なって見える。視点が変わることで新鮮だと感じるからなのか、本当に町の異なる姿が見えていたのかは分からない。それでも、この奇妙な感覚を味わうために、必ず一度、坂の中腹で立ち止まり振り返ってしまう。

「急がなきゃ」

 何故その光景に見入るのかは分からないが、一度それに囚われた後、我に返り再び坂を登り始める。そうして漸く見えてくるのが、目的の建物の外観、と言うわけだ。

「着いた」

 目の前には大きなお屋敷。それが目指していた目的地。開かれたままの門を通り抜け屋敷の敷地へ足を踏み入れると、涼しい風が頬を撫でる。

「はぁ……疲れた……」

 体感出来る温度が下がったと感じるのは、庭に植えられた木々に寄るものだろうか。外壁で区切られたこちら側と向こう側。この場所に来る度に味わう不思議な感覚はなんだろうと首を傾げながら、改めて建物を眺める。

「凄い建物らいしんだけどなぁ」

 迫り来る威圧感。毎回この建物を見る度に思う感想が変わる事は無い。

『この屋敷には歴史がある』

 以前、祖父からその様に聞いたことがあった。

 モダンな造りの洋館は、見た目通りにずいぶんな広さと高さがある。建てられたときはとても美しいかったと祖父は言っていたが、壁を這う蔦が表面積の半分以上を覆い隠してしまっている為、今ではすっかり不気味な見た目に。一応手入れこそされては居るが、背丈の長い樹木の影も相まって、随分と暗く重たい空気を醸し出してしまっているから質が悪い。

「なーん」

 ぼんやりとそんなことを考えているところで聞こえてきた猫の鳴き声。声の主を確かめるべく視線を足下に移すと、目の前で行儀良く前足を揃えて座る一匹の黒猫の姿が目に止まった。

「こんにちは、クロ」

 しゃがみ込んで手を伸ばせば、人差し指の先に鼻を近づけ匂いを嗅がれる。

「今日も来たよ」

「うるるっみゃっ!」

 黒猫は嬉しそうに眼を細めてから、撫でろと催促するように顔をすり寄せてきた。

「今日も元気そうだね」

「んみゃ!」

 艶やかな真っ黒の毛並みを軽く撫でてやると、黒猫は返事をするように小さく答え、ご機嫌な様子で喉を鳴らす。ぴんっと立った長い尻尾は緩慢な動きで右へ左へ行ったり来たり。前に向いた髭もいつも以上に機嫌が良いらしく、どうやら甘えたい気分の様だった。

「おいで」

 両手を広げ声を掛ければ、猫は嬉しそうに距離を縮めてくる。両脇の下に手を差し込み持ち上げると、抵抗する気は無いのだろう。だらんと四肢の力を抜き、されるがまま腕の中へと納まってしまった。

「あははっ!」

 何処までも近い距離。鳴らされた喉の音は更に大きくなり、何処を撫でても小さな振動が手の平に伝わる。

「甘えん坊だなぁ、もう」

 噂では悪いように色々言われていても、やっぱり可愛いものは可愛い。この猫はこの場所に通うようになって出来た小さな友達。

「芽生さんは居る?」

「んなぁんっ」

 言葉の意味を理解しているのかは定かではないが、質問に対して相槌を打つと、尻尾を二回、大きく揺らして目を閉じた。

「居るって事だね」

 猫を抱えたまま向かうのは目の前の建物。シンプルな装飾の木製ドアは両側に開くタイプの観音開き。獅子頭の形をしたドアノッカーを動かしノックを三回叩いた後、鍵の掛かっていない右側の扉を手前に引っ張り中に入る。

「こんにちはー……」

 軽やかなドアベルの音がエントランスに響けば、それに釣られるようにして不思議な旋律がどこからとも無く聞こえてきた。

「……何? アンタ、また来たの?」

「あっ! 芽生さん。こんにちはー」

 ホールの奥に配置されている幅の広い階段。その中腹で足を止め振り返ったのは、この建物の主であるいとがら芽生めいという女性である。

「毎日毎日飽きないの? こんなつまんないところに通ってきたりなんかして」

 音を立てて閉じられた一冊の本。盛大な溜息とと共に降りてきた芽生さんは、露骨に嫌そうな顔をしてこちらを睨み付けてくる。

「僕は楽しいよ? 芽生さんの話、とっても面白いもの」

 腕の中で丸くなる猫に同意を求めるように声を掛けると、それに頷くように黒猫は高い声で返事を返す。

「やめろ。こっちは全然面白くとも何とも無いね」

 それが心底嫌だと。そういう気持ちで吐かれた悪態。芽生さんはやれやれと首を振り背を向けると、そのままキッチンへと姿を消してしまった。

「……待ってろってことなのかな?」

 その呟きに答えが返ってこない事は分かっては居た。

「いつもの場所で一緒に待ってようか」

「なぁん」

 芽生さんが姿を消した方向とは反対側。応接セットの置かれている客間に向けて進める足。

「それにしても……また、種類が増えてる?」

 玄関ホールには如何にも高級そうな調度品の数々が無造作に展示されている。

「もうすこしレイアウトを考えれば良いのに」

 置かれているものの値段的価値なんてしっかりしたものは分からないが、多分気軽に触れるのは宜しくないという事くらいは理解している。だからこそ、適当な場所に置いていますという印象を与える配置の仕方はどうなんだろうと、この場所に来る度に思ってしまうのだ。

「こういう所はズボラなんだよなぁ、あの人」

 女の人なのに。思わず口に出そうに鳴ってしまった言葉を慌てて呑み込んだ時だった。

「ズボラで悪かったわね」

「わっ!?」

 いつの間にそこに居たのだろう。振り返ると直ぐ側に芽生さんが立っていて、凄い勢いで睨まれてしまった。

「女だから几帳面とか、綺麗好きとか。整理整頓が得意だとか、それが当たり前だろうとか言ったらぶん殴るからね」

 明らかに漂う不穏なオーラ。

「そ、そこまではいってないよ」

 慌てて口に出した言い訳も、彼女には直ぐに嘘だとばれてしまうだろう。

「一瞬でも考えただろ?」

「か、考えて無いってば!」

 何度も何度も首を振りながらそんなことはないと必死にアピールすると、未だ納得できないと目で訴えながらも彼女はソファに腰掛ければと指示を出す。

「で? 今日は何しに来たの?」

「何しにって……」

「用もないのにこんなトコなんて来ないでしょ? 普通」

 応接セットのソファに腰掛けたタイミングで出された飲み物とお菓子。

「知ってんのよ。アンタ、学校で魔女の下僕とか言われてんでしょ?」

 出された飲み物は一人分。芽生さんはというと、書斎机の引き出しに片付けられていた煙管を取り出すと、慣れた手つきで刻み煙草を丸めて詰め、今時珍しいマッチを擦ってそれを軽く火で炙っている。一瞬だけ燃える焔は小さく、着いたオレンジは直ぐにかき消え細く頼りない煙がゆらゆらと揺れる。煙管の中で刻まれた煙草の葉が燻る度、独特の匂いが部屋の中へと広がっていった。

「その煙草、好きだよね、芽生さん」

 正直に言えば、煙草の匂いは苦手だった。

「別に好きでも何でもないわよ」

 それでも、この建物の主はこの女性なのだ。彼女が煙管を吸う間、野暮な口出しは御法度だということは、暗黙の了解なのである。

「好きじゃないなら、何で吸うの?」

 それでも、出来れば煙草は吸わないで欲しい。そんな淡い期待から、質問という形で告げる非難の言葉。

「それ、アンタに言う必要ある?」

 ゆっくりと近付き腰を屈めて目線の高さを合わせると、芽生さんは口に含んだ煙を一気に外へと押し出す。

「げほっ、げほ、げほっ!!」

「あーら。ゴメンネ」

 ケラケラケラ。芽生さんの口から吐き出された苦い煙が顔に掛かったことで、思いっきり噎せて滲む大粒の涙。

「何でいつもこんな事するのさ!?」

 苦しさに胸を押さえながら怒号を上げれば、悪びれる様子もなく芽生さんはこう言い放った。

「嫌なら此処に来なければいいじゃない」

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