珈琲と賭博
メロンちゃん。
「cafe&bar あだん堂へようこそ」 木曜日の賭博師
都会の片隅にひっそりと佇む喫茶店、「cafe&bar あだん堂」。
昼は喫茶店、夜は酒場。
時間帯によって異なる表情を見せるこの店で、マスターを勤めるのは
初老に差し掛かりながらその相貌は、妖艶と評せるほどに美しい。
衰え知らずのその魅力にあてられた者は少なくないだろう。
さて、この安壇征四郎の営むこの店に、木曜日の12時から13時の間だけ姿を見せる2つの影があった。
うち一つの影は、老年の男のもの。
男は毎週木曜日、決まった時間に喫茶店の扉を開く。
紺色のスーツに僅かばかり禿げあがった頭。
そして気難しそうな仏頂面のこの老人は、決まって木曜日の12時15分にこの喫茶の扉を開く。
「……珈琲。それからカツカレーだ」
カウンター席に座るや否や、男は安壇に手短に告げると、鞄から一冊の小説を取り出し無言で読み進める。
「かしこまりました」
そんな男の様子に眉を顰めることもなく、マスターは何処か微笑ましげに熱い珈琲を淹れる。
老人は差し出された珈琲には手を付けず、カツカレーが出されると、小説を閉じてカレーに匙を伸ばす。
そして無言で食べ続けること十数分。不意に、老人が口を開いた。
「……あの小僧は来とらんのか」
その言葉に、思わず安壇は微笑を浮かべた。
「ご心配なさらずとも、もうすぐ来るかと思いますよ……ほら」
安壇は店のドアに目を向ける。
入り口のベルが鳴り、扉は訪問者の存在をあだん堂に知らしめる。
「げっ、爺さんいんのかよ」
何とも苦々しいと言った様子で近づいて来るのは、これまたこの喫茶に木曜日の昼時のみ訪れる若者である。
「あいも変わらず礼儀がなっとらんな」
「ちゃんと“さん”って付けただろ。それよかマスター、いつもの頼むよ」
軽快な口調を崩すことなく、若者は安壇に注文を飛ばす。
アイスコーヒーとフレンチトースト。
これが彼の言う、いつものメニューである。
そして若者は、頼むや否やポケットから、500円玉を取り出した。
「始めようぜ」
「さっさとしろ。表だ」
若者に見向きもしない老人をよそに、若者は指先でコインを弾いた。
ーーコイントス。
投げた硬貨が落ちた際、その表裏で物事を決める、ちょっとした
そして彼らが賭けているのは、お互いの昼食代であった。
「あ、ああァァァァァァ!!?」
「やかましい」
落ちた500円玉が示す面は表。
若者が敗北した形になる。
項垂れる若者の姿に微笑を浮かべながら、安壇はアイスコーヒーとフレンチトーストを差し出した。
「うっめぇ! マスターんトースト、やっぱ最高だよ。素材は他とそんな変わんねえのに、何でこんな美味いんだ?」
落ち込んでいたのも何処へやら。
若者は半分ほど齧りとったトーストを目前に持ち上げ、中をまじまじと見つめる。
「……珈琲だ。フレンチトーストの甘味を上品な苦味がかき消す事なく引き立てている。だから、余計美味く感じるんだ」
若者の行為に目を細めながら、老人は緩くなった珈琲を啜る。
「流石は
若者は最後の一欠片を口に入れ、満足げにコーヒーをストローで吸い上げる。
「ふん、最適解? お前さんのそのメニューがか?」
「んだよポワロ、文句あんの?」
口の端を歪めた老人に、若者は何処か楽しそうに反論を促す。
「確かに、お前さんのメニュー選びは悪くない。珈琲を主軸にメニューを考えるのであれば、俺のカレーよりも魅力的だろう」
ーーだが。
老人は言葉を区切り、コーヒーカップを手に取った。
「お前さんは間違えたんだよ……最適解を名乗るなら、コイツじゃなきゃなぁ」
言うと、既に冷めはじめたホットコーヒー に、老人は再び口を付けた。
「ま、待て待て待て! んなもん好みじゃねえかよ! カツカレーが僻んでんじゃねえぞ!」
「お前さん、珈琲の良さは何処にある?」
「はぁ?」
不意の問いかけに、若者は逡巡する。
「……カフェイン、なんぞ浅い答えは期待していないぞ。確かにカフェインを効率良く取れる飲料ではあるが、それならば粉のカフェインでも買えば良い話だ」
「……じゃあ、やっぱ味、とか?」
「悪くない。だが、それじゃあ答えになっていないな。味なんてもんは、大抵の飲料が最低限保っているもんだ。俺が求めてるのは、もう一歩先。珈琲だけが持つ良さだ」
若者は多少考える素振りを見せるも、すぐに両手を上げ降参の意を示した。
老人はそれを見て、楽しげに口元を歪める。
「後味だよ。珈琲の苦味が、喉の奥を通り過ぎて少しずつ意識が覚醒していくあの感覚。熱い珈琲は、後味と熱量が一緒に込み上げてくる。他方アイスは、一瞬で味わい尽くしちまう」
「つまり、何? ホットがアイスより優れてるとでも言いたいわけ?」
「違う。食後の休憩時間によって、両者の飲み分けをするべきだと言っているんだ」
老人は、古びた腕時計に目をやった。
時刻は12時45分を少し回った頃合いだ。
「お前さんが今すぐ席を立たないなら、残された時間、余韻の残るホットコーヒーを飲んだ方が良いに決まっている。つまり、ホットを頼んだ俺の方が最適解に近いってわけだ」
「け、偏見ジジイが。データを出せデータを!キャッカンセー?を示しやがれー!!」
絶えず結論の出ない論争を続ける2人。
そんな彼らを前に、喫茶店の主、安壇はやはり微笑んでいる。
木曜日の12時から13時の間。
彼らは毎週、安壇の前に座り、
「っと、そろそろ仕事だ。じゃな、マスター。ついでに爺さん」
時計の短針が1に近付いた頃、若者はそそくさと席を立つ。
そしてやはり楽しげに、あだん堂を後にする。
「……行ってしまいましたね」
「あぁ」
「彼、来月から転勤するらしいですよ」
「あぁ」
「九州、暫く帰ってこれないとか」
「……あぁ」
力なく、老人は残った珈琲を飲み干した。
「……良いんですか、このままお別れして」
安壇の表情は、やはり優しげだ。
しかし老人は俯いて、彼と目を合わせようとしない。
「……良いんだ、もう」
安壇が店を開いた頃からの付き合いになるこの老人には、十数年前、子供がいた。
当時、初任給で安飯を奢られたと悪態を吐きながら笑っていた男の子供は。
僅か数年後、この世を去った。
「あの子を、見ている気になる。赦された気分になるんだ。俺が、俺が気付けなかった……あの子の、あの子の」
握りしめた拳から血が滲む。
目は最早焦点が合わず、近くで見ればその異変には誰しもが気付く。
けれど今、彼の近くにいるのは安壇のみであった。
「……転勤の話。彼、わざとらしく僕に伝えるんですよ。こんな紙まで残して」
安壇は、胸ポケットから一枚の紙片を取り出した。
汚い右肩上がりの字で、書き殴られていたのはメールアドレス。
しかし老人は、その紙を見ようともしないで席を立った。
「……仕事の時間だ」
安壇はそれ以上何も言わず、ただ黙って老人を見送った。
安壇は、知っていた。
子を亡くした老人がいるように、父を亡くした青年が、ここ最近、父の忘れ形見を求めて喫茶に通い始めたことを。
子を無くした親。親を無くした子。
2人の常連客は、どちらも多少偏屈ではあるが、お互い惹かれるものがあったのか、すぐに喫茶で話し込む間柄になった。
そしていつしか彼らは互いが確実にいる時間帯のみ、姿を見せるようになったのだ。
そんな彼らを繋げたのは、一杯の珈琲についての論争と、その代金を賭した
安壇は知っていた。
彼らの間には、本当は珈琲も、
けれども彼らは珈琲を頼み、論争をし、賭博をして、何も言わず別れる。
互いが、互いを。
失った何かの代替品としていることに、彼らはとうに気付いていた。
彼らに、本当に必要なのは時間だ。
安壇は一人何も言わず、彼らの座っていた席を拭きあげる。
ーー後味。
願わくば、彼らの関係が後味良く終わりますように。
安壇は静かに祈った。
珈琲と賭博 メロンちゃん。 @oidonyade
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