学生の一存
@ritarita283
第1話
「青春」とはなんだろう。
多くの辞書で索いてみれば「季節の春を示す言葉、または生涯において若く元気な時代、主に青年時代を示す」と書かれている。
しかし実際に使ってみれば青春という言葉にはそんな大きな枠組みではなく、学生時代の甘酸っぱい1ページだとか若気の至りの過ちなど、そういう若い時代の一場面を表すことが多いのが見受けられるだろう。
よく年配の人が若者に「貴方の青春は何ですか?」なんて質問をすることが多く見受けられるが、辞書的な意味でこれを聞けば「貴方の青年時代ってなんですか?」ということになる。これでは意味が通じない。だがこれを後者の意味で紐解けば、「貴方の青年時代の思い出ってなんですか?」と質問の意図が通じるようになる。つまりは世間一般的には青春という言葉は後者の意味をこめて使われることが多いということだ。
では公に定められている意味と一般的に使用されている中での意味が異なる場合、一体どっちが正しいと言うのだろう。
まず「青春」の文字の由来から考えてみる。
「青春」とは元々は「春」を表す言葉であるとのこと。
調べてみると、なんでも古代中国の陰陽五行思想に基づいた言葉であるらしく、「春」には「青」の色が割り当てられたことでこの言葉が産み落とされたとのことだ。
そしてその思想の中では「春」は人間の15歳から29歳までの年齢の範囲のことを指すらしく、これが辞書的な意味の語源となったのだと思われる。(また諸説あるが、日本でも奈良時代から「青春」とは年齢が若いと言う意味で使われていたようである)
では、なぜこの意味合いが世間一般では浸透せず、「青春」とは青年時代の思い出を表す言葉になったのだろう。
改めて調べてみると、なんとその理由は近代文学に名を馳せる稀代の文豪が関わっているとのことらしい。
と言うのも、その文豪の有名な著書内に「青春」と言う言葉が使われており、その著書が若者の不安や迷い、恋愛感情を大いに描いた内容であったため、それが広まり現代では「青春」とは学生や若者の時に起きた思い出や感情の起伏を表しすようになったとのことらしい。
こうして調べてみて私はわかったことが「青春」の由来以外にもう一つある。
それは、言葉と言うものがあまりにも適当に言い伝えられていると言うことだ。
元々は季節を表す言葉であるにもかかわらず、一つの思想から意味が変わり、さらには1人の人間によってさらにその意味が狭められるとは、言葉とはなんと儚いものなのだろう。
多くの人は知っているだろうか。今では「そうきゅう」と読まれている「早急」という言葉は、元々は「さっきゅう」という読みであったことを。
「重複」は「ちょうふく」だけの読みだったのが「じゅうふく」も含まれるようになったことを。
これらの漢字の多くは言い間違いや世間一般の人の間違った普及によって広まり、間違いだった意味や読みを仕方なく正しいものとして扱うようになった歴史をもっているのだ。
この間違った歴史をこれからも続けていいものなのか。
私の回答は、否である。
たとえ現在の慣用的な使用方法が一般的なものだとしても、それが間違って伝えられた歴史を持つ意味なのだとすれば、それは間違った使用方法なのだ。私は正しさを好む。正しい人間でありたいからだ。ゆえに私は言葉も正しく使いたいのだ。
ここで最初の問題提起に戻る。
「青春」とはなんだろう。
この問いに私は高らかに答えよう。
「青春とは今私がこのレポートを書いているこの時間、この季節、つまりは春です。…と言うのが君が出したレポートの内容だけど、間違いない? 福永さん?」
「えぇと、間違い無いです…」
放課後。
一般的には学校のホームルーム終了後の学生の自由な時間を指すこの言葉だが、「放課」という単語が日本の東海方面ではまた別の意味合いを示すことがあるらしく、一部地域では異なった意味を持つ場合があるとのこと。
これもまた私が出したレポート内容に即す言葉だなと思いながら、私はその放課後の時間に自分のクラスの自分の席に座っていた。
私の目の前には前方の席の椅子をこちらに向け直して座るクラス担任の姿があり、彼は今私が課題として出したレポートの内容を音読して、それが私が書いた内容かどうか確認した。
私、福永護はとりあえずそれに肯定しながらも、目の前で自分が書いたレポートを音読しないでくれ、と少し不機嫌に思った。
そんな私の感情の機微を鋭く察知したのか、私の担任、木下弥二郎先生はごめんねと、謝罪を入れてくれる。
「音読して聞いてもらう必要はなかったね。ごめんごめん。ちょっと内容が特殊だったからか僕も動揺してたみたいだ。レポートを見せて福永さんに直接確認して貰えば済む話だったよ。いや、悪かった」
「いえ、そんな謝って頂かなくても…」
しきりに頭を下げる木下先生を不憫に思い、私は気にしていないことを伝える。
そうすれば先生はようやく頭を上げるが、私を見るその目は先ほど謝罪をしていた時との申し訳なさそうな目とは異なり、とても真剣なものへと変わっていた。
「それで、これからが本題なんだけど…福永さん、このレポートの課題文を覚えているかな?」
「えぇはい…覚えています…『初めての高校生活1ヶ月を振り返り、今後の青春の目標について』だったかと…」
先生の真剣な目に押されて、私は少し肩を竦ませながら自分が出したレポートの元々の課題文を口に出す。
そして口に出して思ったのが、高校生にもなってなんでこんな課題文を出されなくてはならないのか、という疑問だった。
正直レポートとしての内容が高校生への課題としてあまりにも幼すぎると感じてしまう。こんな課題を出されてやる気を出して文章作成に取り組む生徒などいるものだろうか、と思いもしたが、今ここに真面目に取り組まなかったせいで居残りをさせられている生徒がいるのを思い出し、なるほど不真面目な生徒を炙り出すための罠だったかと自分で勝手に納得を得た。もちろん、目の前の木下先生がそんな狡猾な手口ができる人だとも思っていないので、結局はふざけたレポートを出した自分が悪いのだけれど。
「そうだね、それでその課題文で君が提出したのがこの内容だった。正直かなり驚いたよ。1ヶ月担任をして福永さんを見ていたけど、君は僕の生徒の中でも落ち着いていて勉学にもとても励んでいる子だったから…まさかこんなレポートを出すなんて夢にも思わなかった」
「はぁ。そうなんですか」
木下先生は胸に手を当ててその心中を吐露する。
私としてはそうでしょうね、という感想しか出てこないけど。私自身なるべく目立たないようにこの1ヶ月学生生活を謳歌していたし、そんな生徒がいきなりこんなレポートを出してきたらもし自分が先生の立場だとしたらどこか頭打ったのかと心配もすると思う。
だからこそ私は、今こうして先生に呼び出されたことには納得している。叱られるにせよ、心配されるにせよ、こんなふざけたレポートを出してしまった自分の行いのせいなのだから、そこはしっかりとご指導を頂き、なぜこんな行動をしてしまったのか弁明させてもらおう。
そう決心して、いざ先生へ目線を向けると、なぜか木下先生がとても涙目になってるのに気づく。
え、なんで、と疑問を抱く間も無く木下先生は口を開いた。
「だからね、僕は思ったんだ。この文章は、福永さん。君のSOSだったんじゃないかと」
「は?」
いきなり何を言い出すんだこの先生は。
唐突な木下先生の言葉に思わず淑女らしからぬ声を出してしまうが、それも気にせず先生はまだ話を続ける。
「本当に申し訳なく思う。初めてクラスの担任を任されて、僕も周りが見れていなかったんだろう。生徒たちのことをよく見れていなかったんだ…! だからこそ、この支離滅裂な文章は福永さんが僕に向けた暗号なんだと理解した時は、本当に自分を責めた。福永さん、もういいんだ。心の内を全て僕に曝け出したまえ!」
「………」
そこまで聞いて私はようやく気づいた。
先生が私のレポートを読み、私がクラス内で不条理な目に遭わされてその救難信号としてこのレポートを出したのだと、勘違いしていることを。
「いえ、あの。本当にすみません。そんな気はなかったんです」
「大丈夫だ!もう隠さなくてもいい!君のことを全部僕に教えてくれ!」
先生の勘違いに気づきすぐに訂正を挟むが、先生はお構いなしに手を広げ胸を貸す体勢を作り上げる。
いやいやなんでそうなる。
確かに先生の言う通りこれは支離滅裂な文章だ。
何が「青春とは今私がこのレポートを書いているこの時間、この季節、つまりは春です。」だろうか。レポートを出した先生がそんな回答を求めているわけないだろう。
というかなんだこのレポート、高校生活の1ヶ月を振り返ってないし、今後の目標についても一切触れてなく、ただ青春の意味とか由来だけつらつら書き連ねて最終的には世間一般の青春なんて知るか!と投げっぱなしにしてるだけじゃあないか!こんなのレポートでもなんでもなくただの怪文書だよ!
だと言うのに、先生も先生でなんでこんな怪文書を読んで私がクラス内で不憫な目に遭ってると思ったんだ!
思い込み激しすぎるでしょう!もし書くとしてももっと直接的なことを書くよ!こんな怪しい文書からそんな曲解しないでよ!
というかもし何かあったとしてもこんなレポートを臆面もなく提出できる肝っ玉があるのならソイツは何かあってもおそらく大丈夫だしクラスに馴染めなかったとしてもそれはソイツの人間性の問題だよ!誰だよこんなレポート書いたのは!私だよ!
「さぁ! 福永さんの胸の内を存分に僕にぶつけるんだ!」
「すみません、本当にすみませんでした…」
心中で自分と先生に愚痴をこぼしながらも、なおも勘違いし続ける先生を前に、私はもう申し訳なさでいっぱいになり、ついには謝るだけのロボットに変貌した。
もうこの場を収められる人はいないのだろうか。だとするならこの混沌とした状況を作り上げたレポートの作者である、私が事態収集のために頑張らないといけないのだろうか。
そのことを自覚してしまい。なんだか本当に嫌になってしまい。あぁもう。本当に。
(消えて無くなってしまいたい………)
そう心から強く願っている自分がいることに、私はさらに嫌になった。
***
「それじゃあ本当に何もないのかい? 無理しなくてもいいんだよ?」
「本当に………何も………無いんです………」
先生の勘違いによる暴走から十数分ほど。
暴走する先生を押さえ込み私の話に耳を傾けてくれるようになったところで、先生はようやくこのレポートが私の気の迷いによって創り上げられたものであると言うことを理解してくれた。
先生はそれでも、なぜそんな気の迷いが起きてしまったのか、悩み事はないのか、と聞いてくれたが、ここまでで私も心的疲労がとても溜まっているので、正直早く帰りたいという一心で、私は先生の言葉を受け流していった。
「そうかい…だったらいいんだけど。何か相談したいことがあったらすぐに言うんだよ。僕はいつでも生徒たちの味方だからね」
そう言う先生の顔は柔らかな笑顔で、本当に生徒のことを深く考えている良い先生なのだろうと言うのがわかる。
そんな先生にふざけたレポートを出して心労を患わせてしまったことに罪悪感を覚えながら、私もはい、と頷き、レポートについては後日新しいものを用意するように伝えて、ようやく教室を後にした。
後ろ手で教室の扉をしっかりと閉め、廊下に誰もいないことを確認すると一息をつく。
まったく、らしからぬことはするものじゃないな、と今回の件を踏まえて自分に言い聞かせる。
レポートについて、あれは本当に気の迷いによって生まれたものだった。
誰しもあるだろう。授業の課題で文章の作成が出されて、こんなことを書いたら先生面白がってくれるんじゃないかなぁという暗黒の歴史を。いやないか。まぁそういうものだったんだ。
正直その場のノリだったので出来上がった時は本当にこんなもの出していいのかと思いもしたけど、不思議といざ提出する時には心穏やかに提出できたものだった。案外私は本番に強いタイプなのだろう。意外な発見ではあったが、こんな面倒ごとになってしまったのでもう二度とこんなことはしないと心に誓う。
そんなことを思いつつ、私は帰路へとつくため廊下を歩き始めて昇降口へと向かった。
私の通う高校、郡ヶ丘高校は街の高台に建てられた3階建ての校舎であり、三年生や二年生の教室が1階や2階にあるにもかかわらず、なぜか一年生の教室は校舎の3階部分に存在する作りになっていた。入学したての生徒に校舎の入り組みを知ってもらうためなのか、それとも新入生への可愛がりのためなのかは知らないが、そのせいで私たち1年生は昇降口から最も遠い場所に学び場を置かれ、登校の際は上級生よりも遅刻のリスクが高く、下校の際も長い廊下を歩いて昇降口に向かわなければならない面倒を負っていた。まったく腹立たしいことだ。
まぁ今更そんな愚痴をこぼしたところで意味もないので、トボトボと足を運ばしていれば、窓から西日がチラと私の目を刺す。
窓の外の空を見てみると、すでに空は西日が織りなす光により茜色の色彩を描き、綺麗な夕焼け空になっていた。
この時間では部活動や委員会の生徒たちも帰る準備をしている頃合いだろう。ましてや教室に残っている生徒などいるはずもなく、そうした中で自分だけがこうして一人で廊下を歩いていることになぜだが無性に虚しさを覚えしまう。
そんな虚しさをため息を吐いて振り払い、気分を紛らわせるために今度は窓から階下を見てみる。この廊下の窓からだと、校門の隣で元気に生えている欅の木を横に帰宅している生徒の姿が見えるだろうなと予想していると、そんな私の目に入り込んできたのは、少し信じられない光景だった。
「何してるのあの人…」
廊下の窓から階下を覗いた私の目に映ったのは、先ほどの欅の枝に座っている男の後ろ姿だった。
一瞬不審者かと思い、身をすくめるが、よく見てみるとその男の服装が白いシャツに黒いズボンという学校の指定の制服であること気づき、また座っている隣に生徒用の鞄が置いてあることから生徒で間違いないことに気づいたので、少しホッとする。
と思ったが、木の上に座っている生徒もこれはこれで不審者なのではと思い、窓の向こうから見つからないように身を隠しつつ、観察を続行した。
見れば欅のかなり高いところに座り込んでいるようで、3階から偶然外を覗いた私以外の人たちはまったく気づいていないようである。
一体何をしているんだろうと観察を続けてみるが、見えるのは後ろ姿だけで顔はわからないし、一向に動く気配もないので得るものはまったくない。
このまま観察していても意味がないことにようやく気づいたので、先生に報告しようかと思ったが、私はどうしてか、その男のことが気になって仕方がなくなっていた。なぜ木の上に座っているのか、そこから何が見えるのか、その疑問の答えにどうしようもなく心が惹かれ、気づけば私は廊下を走り、昇降口へと向かっていた。
下駄箱に到着した私はすぐに靴を履き替えて、件の欅の元へと向かう。普段から特に運動をしていなかった私であるため、たどり着いた頃には膝に手をついて息を切らしたが、すぐに息を整えて木の根本から見上げる。
先ほどの男は、変わらずにそこに座っていた。
そこで私は急に、どうしようと困惑してしまう。好奇心に押されてここまで走ってきたけど、正直自分が何をしたいのか分からない。なんでそこに座っているのか、何が見えるのかは気になるけどそのために声をかけるのもとても怖いなぁ、やっぱり先生に伝えるべきだったかなぁと今更になって考え込んでしまう。そうして急に現れた不安に頭を抱えていると、不意に上空から声をかけられた。
「福永さん? そんなところで頭抱えて何してるの?」
自分の名前を呼ばれたことか、はたまた聞き馴染みのある声だったからか、もしくはその両方からか私はかけられたその声に驚いて顔を上げると、そこには同じクラスで隣の席に座るクラスメイト、水瀬界人くんの姿があった。
「水瀬くん!? 何してるのそんなところで!?」
「いやその質問僕が先にしたんだけど…」
不審人物の正体が同級生という驚きの事実のあまり、私は水瀬くんがした質問をそのまま返してしまい、それを受けて彼が苦笑するのが遠目で見えた。
水瀬界人。彼は私の同級生にしてクラスメイト、そして私の隣の席に座る男子生徒だった。
口数が多く、同級生との関わりも入学1ヶ月にすればかなり広い、人好きされるタイプの人だなと言うのがこの1ヶ月彼を見ていた私の印象だった。かくいう私も、隣の席であることからペアワークの授業の時には話したり忘れ物をした際には物を貸し借りしたりするぐらいには交流があり、もし街で顔を見かけたら挨拶を交わすぐらいには仲ではあるだろうと思ってるぐらいではある。
そんな彼が人知れず木の上に座り込んでいることに私は一抹の驚愕を得ながら、しかし謎の男の正体が本当の不審者ではなく顔見知りだったことに少しホッとして、ようやく彼の最初の質問に答えた。
「廊下の窓から誰かが木に座っているのが見えたんです。気になったから見にきたんですけど、まさか水瀬くんだとは思わなかった」
「へぇーそうなの」
「なんでそんなところいるんですか。危ないから早く降りてきてください」
私の声に空返事をする水瀬くんに、私は呆れながら降りるように注意を促す。
そうすると、意外にも水瀬くんは私の注意を素直に聞き入れ、はーい、とだけ言葉を返すと鞄の取っ手を口に咥えて、お猿のようにスルスルと木を駆け降り、一瞬にして私の目の前まで降り立ったのだった。
あまりの早業に私は再び驚いていると、水瀬くんは何事もなかったかのように私へ声をかけた。
「というか福永さん誰かも分からずに木の上に座っている不審者に話しかけようとしてたの? 普通に危ないから先生に伝えればよかったのに」
「その不審な行動を取ってた張本人に言われたくないです!」
水瀬くんの完全なる他人事のような発言にさすがに私も、何ですかもう、と憤りを露わにする。
けれども当の水瀬くん本人は気にもしていないようで、じゃあ僕は帰るね、とだけ呟いて立ち去ろうとした。
あまりにも自然な態度だったから私もそれを見て、また明日、と返そうとしてしまったが、いやいやそうじゃないと、自分がなぜこの木の下までやって来たのかを思い出し、帰ろうとする水瀬くんの手を後ろから捕まえた。
その私の急な行動に水瀬くんは驚いたのか、教室ではあまり見せない表情を私に向けたのだった。
「…どうしたの、福永さん急に」
「聞きたいことがあったんです。水瀬くん、何であの木の上にいたんですか」
それは単なる疑問でしかなかった。
別にその疑問の答えに特別な何かを求めていたわけではなかった。
もしかしたら水瀬くんも私と同じように単なる気の迷いでこの木の上を登ったのかも知れないし、私自身そんな答えが返ってくるのだろうとも思っていた。
人のやることなんて意味のない行為が大半だ。
見栄を張るためだったり、何かから逃避するためだったり、ただ流されているだけであったり、ただ忘れていたりして、そうして人は意味のない行為を繰り返す。
私だってそうだ。その行為の結果が先ほどの騒ぎだったのだから、本当に始末におえないと自分でも感じる。
でももし水瀬くんがしていたそれが、何か意味があっての行為だったのなら。
それはきっと美しいものだったらいいのにな、と。
そう期待してしまったのだ。
本当はどうかなんて分からない。でも、どうしても気になってしまったのだからしょうがない。
私にとってこれは、聞かずにはいられないことだったんだ。
そうして水瀬くんをじっと見つめながら返事を待っていれば、彼は手を顎に当て、うーんと悩む様子を見せた。
そんな様子に、やっぱりそんな大したことじゃなかったんだろうな、と少し自嘲してしまう。
自分の期待を相手にまで押し付けて一体何をしているんだろう、とそんな自分に呆れて、私は水瀬くんの手を離した。
そして水瀬くんへ呼び止めてしまったことを謝ろうと口を開こうとしたら、先に彼の方が言葉を発していた。
「福永さん。この校門の壁の向こうって、何が見えると思う?」
「えっ?」
水瀬くんは言葉と合わせて指を校門の方へ差す。
そちらの方を見ても、当たり前だが、見えるのはレンガでできた校門の壁だけであり、向こう側は見えない。
しかしだからと言って何も分からないと言うことはない。私は水瀬くんの質問の意図が読み取れずも、その答えを言った。
「えっと、この校門の向こうって街が見えますよね。いつも廊下の窓から見えてるし」
水瀬くんも知っている通り、私たち一年生の教室は校舎の3階にある。
教室を出てすぐの窓を見れば欅の木の向こう側にチラと街の景色が見えるのが分かるし、校門の向こうの景色も知らないハズがない。
変なことを聞くんだなと思いながらも私は水瀬くんの質問に答えると、彼は私の答えに頷きつつ、しかし目線はずっと校門の外へと向けていた。
「そうだね。この校門の向こうには街が広がってる。人が住み、水は流れて、風も吹く、そ
んな日常の景色が広がっているんだ」
「随分と詩的なんですね」
同級生のポエミーな一面に気づいて私は少し笑みをこぼしながら呟く。
そんな私の呟きに水瀬くんはそうかな、とだけ返しつつ、言葉を続ける。
「この学校は高台にあるでしょ。だから窓から街の風景が眺めるかなって考えていたんだけ
ど、まさか欅で全部は見えないとは思わなかった。屋上も校則で登れないし」
「え?まさか欅に登ってたのって」
「そう。街の景色を見るため」
水瀬くんは何でもないようにそう言って、私に笑いかけた。
私は私で彼の答えに少し肩を下ろす。
目の前のこの欅は結構高さもあるし、落ちてしまったらただでは済まないだろうに、そんな理由で登ってしまうなんて、結構子供のような人なんだなと目の前で笑う水瀬くんの評価を改めつつ、とりあえず注意だけ施す。
「何でそんな…危ないですよ」
「そうだね。でもどうしても見たかったし。仕方なかったんだよ」
水瀬くんは私の注意をサラッと受け流し、また校門の方、いや校門の向こう側に広がる街の景色へ想いを馳せながらそちらへと顔を向けた。
注意を流されたことに思うところはないでもないが、私も水瀬くんと同じように衝動的なことを最近してしまったので、人のことが言えず、とりあえず彼と同じ方向を見てみる。
目に映るのはレンガの壁だけ。この先にどんな景色が広がっているかなんて、私は気にしたことがなかった。
水瀬くんはきっと、それが気になって仕方がなかったんだろう。
だから彼はこの壁の向こうの景色をみるために、危険を冒してまで木に登ったのだ。
その一連に、私はなぜかひどく納得してしまい、先ほどまで胸の内にあった疑問はすっきりと解消してしまっていた。
我ながらアッサリとしているなと思いながら、今度こそ引き止めてしまったことを謝るため、水瀬くんの方へ顔を向けると、そこには既に顔を私へ向けて目を輝かせている彼の姿があった。
あれ、なんだろう。何だかまずい予感が………。
「そうだ。福永さんも一緒に見ようよ。きっと気に入ると思うよ」
「は?」
突然、街の景色を一緒に見ようと誘う水瀬くん。
そうして彼は誘われたはずの私の返事を待たずに言うだけ言うと、即座に私の両手を持ち自分の背中に回し、膝を曲げて屈伸運動を一回行った。それによりまったく体に力を入れていなかった私の体は一瞬宙に浮かび、再び体が降りた時には水瀬くんの背中に収まっていたのだった。
「いやいやいやいやいやいや」
何でこうなるの。別に見てみたいなって雰囲気出してなかったし言ってもないよね。このままお開きな感じだったじゃん。
あまりにも急な展開に頭が追いつかず、二進数のように口から「い」と「や」だけ呟いていると、そんな私の心中を察せていない水瀬くんから背中越しから言葉がかかった。
「ごめん、鞄は下に置いてくよ。さすがに担いだまま鞄を持って木登りはきついや」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
気にするところそこじゃないし。と言うか人担いで木登り出来る気でいるのかコヤツは。やめろ。できるとしてもやめて。お願い今日はもうかなりの心労が溜まっているからこれ以上は…!
「じゃあ行くよー!」
「やめてーーー一!」
私の叫びは届くことなく、水瀬くんはまたもお猿のようにどんどんと欅を登っていくのだった。
***
「死んだかと思った…」
「大袈裟だなぁ」
結局水瀬くんは私を担いで欅の木を登り、難なく木のテッペンの枝まで辿り着いてしまった。
私を担いだまま木を登れるその体力と木登りの技術は目を見張るものだったが、何よりすごかったのは、後ろで私が叫び続けていると言うのに、それを気にせず登り続けられた胆力だろう。今もこうして私が嫌味を言っているというのに顔色ひとつ変えずにケロッとしている。将来大物になるだろう。もちろんこれも嫌味である。
そんな恨み節を心中でこぼしている私は今、先ほど申した通り欅の木のテッペン付近にいる。
周りには葉っぱが生い茂りながらも周りを見渡せるぐらいには拓けており、息を吸えば、地上では味わえない自然の香りが肺の中を満たし、私の心を落ち着かせてくれる…ことは特になかった。特に、私が腰掛けている物のせいで。
「あの、木の枝がグラグラと揺れて怖いんですけど」
「まぁ慣れれば大丈夫だって」
私の指摘にのほほんと答える水瀬くん。
この野郎………一人だけ気楽に楽しみやがって………こっちにそんな余裕があるわけないでしょう!
私が恨みがめしく水瀬くんを睨んでいると水瀬くんはそれに気づき口を開く。おや謝罪をしてくれる気になったのだろうか。
「福永さん何でこっち見てるの。街の風景を見るならあっちだよ、あっち」
なんでやねん。
思わず関西の芸人がよくするツッコミの定番フレーズが口から飛び出しそうになるがそれを我慢し、代わりに水瀬くんへの不満を込めたため息を一つ吐いた。しかし当の水瀬くん本人は私のため息など気にせず、その目は木の枝の上から見える街の景色に夢中だったようだ。
なので私も諦めてその目を水瀬くんと同じ方向に向け、街の景色を眺めることにした。
「………綺麗ですね」
「でしょ」
ふとこぼれた私の呟きに水瀬くんは言葉少なに返すだけで、それ以降話すことはなかった。
それは語る時間も勿体無いほどに、今眺めている街の景色がとても素敵で美しかったからだろう。
西から差す太陽の光は一望できる街の全てを茜色に染め上げ、普段から見慣れているはずの光景を幻想的な空間へと変貌させていた。
だというのに、そこに歩く人たちはその幻想的な空間の中に閉じ込められていることに気づかず、日常を謳歌し暮らしを続けている。
下校中の生徒、スーパーで今晩のおかずを買って帰る主婦、スーツを着て携帯を耳に当てながら仕事をしているサラリーマン。
彼らは今自分達が幻想の如き風景の一部分として私たちの目に写っていることなんて思いもしていないだろう。
そんな優越感にも似た心持ちであらためて眺めていれば、今度はその幻想的な空間の中で一際異彩を放ち、存在感をあらわすものに私は気づいた。
街の奥で夕日を当てられてキラキラと光を放つ存在、国内で片手の指に入るほど大きいと言われ、この街のトレードマークにもなっている川だった。
それは街と同じく茜色の光に晒されて、普段の青みがかった涼しげな色を忘れたのか暖かな茜を写していた。
川もその色をいたく気に入ったのかまるで茜の光を街々に降り注ぐように波を立たせ、キラキラとした反射を煌めかせる。
その風景に何だかとても心が安らぎ思わず笑みをこぼすと、それに感応したかのように今度は欅の木にスッと小さく風が吹く。
普段なら気にもしない小さな風に、こんな風景を見てしまったせいでもあろう、私はふと気を寄せてしまい、その風が向かう先の空を見てみると、そこにあった光景に目を奪われてしまった。
西の没する日が最後に見せた煌めく茜の色と、東のこれからやってくる夜の静めく黒の色。
それら二つが混ざり合う逢魔が時、それが今この時間だったのか。どのような化学変化を巻き起こしたのか混ざり合った二つの色は筆舌に尽くしがたい鮮やかな群青の色を生み出し、今私たちの直上に出来上がっていたのだった。
「すごい………」
「………そうだね」
思わずこぼれてしまう私の感想の言葉に、隣で水瀬くんが答えてくれるのが耳に入る。
しかしそれに返事ができないほど、私は今眼前に広がる空の色が織りなした魅力に取り込まれていた。
この光景を忘れないようにするためか。あるいは___。
「………」
空の光景を眺めていてどれくらい経っただろうか。
眼前に広がっていた魅惑の空は既に夜の黒が勝ち、茜色の光は山向こうに消え入ろうとしている。
既に街全体は暖かな光に覆われた幻想風景を失い、人工的に作られた白熱の光で染め上げられていた。
変貌していくその風景を他所に、私は先ほどまでの感動の余韻に浸り、まだ顔を上げて空を見入っている。
ふと、こんな体験をさせてくれた水瀬くんは今どうしているのだろうと、目線をそちらへ向けてみると、彼はこちらに顔を向けて優しげな微笑みを見せていたのだった。
「っ! な、なんでこっち見て笑ってるんですか」
こちらを見ている水瀬くんに私は驚いて思わず身を引いてしまう。
それに対して水瀬くんは悪気もなく、笑顔をそのままに話し出す。
「福永さん、すっごく感動してくれたんだなーって思って。見せてよかったなって僕も嬉しくなっちゃったんだ」
「そ、そうですか」
直球で返してきた水瀬くんの言葉に困惑しながら、私は彼から目線を逸らす。
こんなに感動しているところを見られたのが普通に恥ずかしかったのもあったが、その笑顔を見ていたら何だか見惚れてしまいそうで怖かったのもあったからだ。
まぁそれはともかくとして。
私は一つ咳払いをして姿勢を正したら、もう一度水瀬くんへと顔を向ける。
水瀬くんはそんな私の態度に疑問を持ったのだろう。笑顔を引っ込め、キョトンとした顔に変えた。
「水瀬くん、ありがとうございました。こんな綺麗な風景を見せてくれて。とても美しかったです」
私が笑顔を乗せてそう言うと、水瀬くんは今度は顔をポカンという擬音がでそうな表情へと変えた。
どうやら私にこんなことを言われるとは思いもしていなかったのだろう。私も水瀬くんのその態度から言わなきゃよかったと悔い始めたが、言ってしまったからには仕方ないので、小っ恥ずかしさを誤魔化すためまた口を動かす。
「で、でも、だからといってこうして木に登るのはダメだと思います。木登りがどれだけ上手でも万が一ってこともありますし、貴方が落ちたら貴方の家族や友達を悲しませてしまうんですよ」
「あ、うん」
私に叱られて今度はシュンとした顔になる水瀬くん。表情豊かだなぁと思いつつ、私はそんな彼の肩に手を置いた。
「だから今度見たくなったら天体観測として学校にお願いしてみましょう。もしかしたらここよりもっと高い屋上から見させてくれるかもしれないですよ」
そう言い、私はもう一度笑顔を水瀬くんへと向ける。
シュンとしていた顔の水瀬くんは、私の言葉を理解し始めたのか今度はパァっとした笑顔に表情を変えた。
いやホントに表情豊かだね、遠藤平吉か貴方は。
「え、それ本当!? 屋上で見れるかな、この景色!」
「できるかどうかは分かりませんけど、お願いせずにこうやって危険を冒すよりは、よっぽど社会的だとは思いますよ」
結果については保証せず、ただ提案だけをする無責任な自分の言い回しに少し罪悪感を感じつつ、それでも彼がこのまま木登りを続けるよりは、と思い直して私は笑顔を見せ続けることに努めた。
そうしているとどうやら水瀬くんの中で納得を得たようで、うん、と彼は私に頷いて見せた。
「分かった。じゃあ今度先生に言ってみる。ダメだったら先生もここに連れてきて同じ景色見てもらえれば大丈夫かな?」
「いえ、それは全然まったくこれっぽっちも大丈夫ではないです」
水瀬くんがまだあまり分かっていないことが分かり、私はまた一つため息を吐いた。
まぁ私の提案を良しとしてくれた以上、今後木に登ることはないだろうと思い、これからは彼の頑張りどころであるのでこれ以上口出しするのはやめようと私は口を紡ぐ。
と、しようとしたが、一つだけ彼にまだ言えていなかったことがあるのを思い出し、私は再度水瀬くんへと口を開いた。
「それと水瀬くん。女の子の体に気軽に触れてはダメですよ。ましてや背中に抱えていきなり木登りするとか、正気の沙汰じゃないですから」
「えっ、でもそうしなきゃ福永さんにこの景色見てもらえなかったし。やっぱり迷惑だったかな」
またもシュンとする水瀬くん。その様子に何だか居た堪れなくなり、強く言いづらくなってしまうけど、言わなければこの人はずっと人とのパーソナルスペースを見誤りそうな気がしたので、なんとかそれとなく伝えてみるべく頑張ろう。
「いや迷惑とは………ただ、女の子を背中で運んだら、その、当たるじゃないですか」
「当たるって何が?」
「え?」
「え?」
「は?」
「え?」
マジかコイツ。
あまりのデリカシーのなさに絶句していると、水瀬くんの方から、とりあえず分かった、という言葉をもらった。
いや絶対わかってないだろうお前、というツッコミを入れることも考えたが、あまりにもな彼の感性にもはや言葉を口から出す気力を失う。
「あー、そしたらどうしようか」
「え? 何がですか?」
実は自分に女としての魅力がないのではと、胸にそっと手を当てながら思い始めたところ、今度は彼からそんな呟きが出たのが聞こえて、問い返してみる。
すると彼は困ったような顔で私を見つめ、言葉を放った。
「降りる時は、どうしよう?」
「………」
水瀬くんの言葉に私は顔を俯かせて無言を貫く。
数秒後、気まずさが最高潮に達したその時、私はギリギリ水瀬くんに聞こえる小さな声で言葉を伝えると、それが聞こえた水瀬くんは満面の笑みで大きく頷いたのだった。
その直後だろう、私の姿は、欅の木をスルスルと降りる水瀬くんの背中に収まっていた。
恥ずかしさで水瀬くんの背に顔を埋める私はなんと滑稽だったことだろう。
(消えて無くなってしまいたい………)
同じ日に二度もそんな思いに満たされることになろうとは思わなかった。
でも今感じているその思いは、先ほどのそれよりも悪くないものだったと感じたのは、私の勘違いだと思いたい。
そうして生まれた、私と彼のこの出会いが。
あんな出来事を引き起こすとは、この時の私は露とも思っていなかったのだった。
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