空想と空白、そのままの場所。

@rabbit090

第1話

 もう何遍もめぐっているような気がする。

 一体いつになったら終わりは来るのだろうか、そんなことを頭の中でめぐらし続けているから私はグルグルグルグル、グルグルグルグルとずっと回り続けているようだ。

 長谷川楓はせがわかえでは私だ。

 「長谷川さん。」呼びかけるのは同じ部署の同僚・田無瑠璃たなしるりである。「長谷川さん、いつも仕事が早いよね。だから私結構比較されて部長に怒られちゃうんだよ。はは。」瑠璃は笑いながら私に言う。

 だがその顔には一片の笑みも無く、いや正確に言うならば本質として笑っているのではないような顔だったのだ。

 そして案の定しばらくすると、「ぐすっ」瑠璃は涙を流し始めわたしに抱きついてくる。私はだから瑠璃の肩をポンポンと叩いてあげ慰めてやるのだった。

 私は、瑠璃に恋している。もちろん瑠璃は同性なのに。

 この職場にいる限り、私はずっとその解消できない疑問について頭を巡らせることになるのだ。

 だが実は本当に分からないし不可思議なのは、私はずっと異性に恋していたはずなのに、なぜか瑠璃は同性だったということなのだ。こんな奇妙なことは未体験だったし、小説の中でなら存在してもいいような気もするが現実に起こるとは全く考えもつかないことだと思う。

 私の所属する会社は少し特殊な事業を行っていて、一般的なとらえ方をすると商社なのだが、取り扱っている商材が人の心なのである。

 人の心って一体何か、そもそも商社は何かを仕入れて何かを販売する会社なのだからその理論に乗っ取ると人の心を取り扱い販売するという奇天烈な事業を行っているということになる。

 「ねえ。今日の心は澄んでいたよ。ちょっとびっくりしちゃった。」

 話しかけてきたのは瑠璃で、内容は今日ある会社に販売した人の心についてだ。

 私たちの会社の社長は本当に特殊な人で、人の心を形として取り出すことに成功した研究者である。だからこの会社はそれを欲しがる会社に売りつけて利益を出しているのだ。

 「でもさ、そもそも人の心って勝手に売ったり買ったりしていいのかな。政府にも目を付けられない様に特定のルートでしか販売しないようにして、規制から逃れているという実情があるんだからしょうがないんだけど。」瑠璃は言う。

 瑠璃の言っていることはまっとうだ。

 私たちの会社が行っているのは誰かの心の動きを勝手に盗み取り販売しているにすぎないのだから。

 「じゃあさ、今日飲みに行こうか。」

 私はそう言って会社が終わった後の瑠璃の時間を拘束しようとしていた。

 自分でも醜いくらい瑠璃に執着しているようだ。

 「長谷川さんってさ、何でこの会社に入ったの?」そう瑠璃が聞くから私は、「私は普通に新卒でギリギリ滑り込んだって感じだよ。結構不況だったからさ、全然内定取れなかったんだ。」「ふーん。」と言い瑠璃も私も一杯目のウーロン茶をあおる。私たちはお酒が飲めない。私はただお酒に対して嫌悪感をなんとなく抱いているからなのだけれど、瑠璃はお酒を見ると嫌悪感を飛び越して体調を崩す。この世の中で触れてはいけないものを見たような顔をしながらうずくまってしまうのだ。

 考えてみれば私は瑠璃のそのような側面を同情のような感情から始まり保護欲というか守ってあげたいという所にまで行きついたのだと思う。もしかしたらこれがきっかけで私は瑠璃に恋をしてしまったのかもしれない。

 「でもさ、長谷川さんって恐ろしいほど優秀だよね。私みたいな馬鹿でも分かるもん!」そう言いながら瑠璃は枝豆を口に含む。

 「不況だっていうのも信じられないよ。長谷川さんって国立の大学を出ているんでしょ?」もごもごと咀嚼しながら瑠璃は私に問いかける。

 瑠璃の言っていることは的を射ている。

 私は不況のせいという仮面をかぶり、だが本当はこの会社の内実を知りたくて入社した。

 私は不思議でしょうがなかったのだ。

 人の心を販売するなんて、突飛なことがまかり通っている世界が、ただ単純に心地悪くて解明したかったというだけであるのだが。

 学生時代に就職先を決めるにあたって、実はこの会社しか受けなかったのだ。もちろん落ちるだろうという可能性もしっかりと考慮していたから、ほかの会社について情報を仕入れていたりもしたのだが、なぜか受験一社目、即採用の通知をいただいた。

 入社してみて分かったのだが、この会社は募集を短期間に絞り存在を社会に認識されないように努めてるらしい。まさしくいかがわしいものを販売しているようなあり方だと思った。

 「そろそろ疲れたね。明日も仕事だしもう帰ろうか。」私は瑠璃に問う。だが瑠璃は火照った顔をこちらに向けながら言う。

 「まだいいじゃん…。家には帰りたくないの。」

 瑠璃の家族は変だ。

 客観的に見ておかしいというくらい。

 瑠璃は実家に暮らしていて、家族は父と瑠璃の二人だけ。瑠璃はまともな生活を送ったことがなく、社会に溶け込めずずっと家に籠っていた。らしい。

 だが一念発起して資格を取りその美貌を駆使して面接試験を受けると、この会社から即採用の通知をもらい今に至る、ということだ。

 「うん…。でももう遅くなっちゃうからいったん家に帰った方が良いよ。」私は瑠璃を促し店を出ることにした。もちろん会計はすべて私持ちと行きたいところだが、瑠璃はかたくなに割り勘を押し通す。

 案外頑固でまたそこが可愛いのだけれども。

 瑠璃の中に眠っているものは何なのだろうか。たまにそんなことをぼんやりと思考する。でも私は何でもいいという結論にすぐ達してしまうのだ。だって瑠璃は瑠璃なのだから、私は何でもしてあげたいと思っている。最近になって気付いたのだが、愛ってそういうことなのかもしれない、と。私は瑠璃に無報酬の愛情を注いでいたい。

 「………。」

 ぼんやりと明るい部屋の中で私は眠りにつく。

 隣で寝息を立てているのは私の最愛の人、瑠璃。もう家には帰りたくないとせがむから私の家に泊めてあげた。正直私は瑠璃のためにこんな変な奴の家になんか止まらせないでおうちに帰ってほしいという気持ちと、瑠璃のために苦しい瑠璃のために泊まらせてあげたいという気持ちの両方を抱いていて、もどかしい。

 そのもどかしさから歪んだ顔を洗面室の鏡で見てしまわない様に避けている。

 「お母さん。」

 これはきっと夢だ。

 「楓。」強い口調で子供をねめつけるように睨むのは私の母である。

 「はあー、楓!」大きなため息とともに私を見下すのは死んでしまった母親だ。

 「もう置いていくから!帰ってきたかったら勝手に帰ってくればいいじゃない。」と言いながら家から離れた商業施設に私を置き去りにしたのは、長谷川瑠々はせがわるるという名の女だ。

 これはきっと夢だ。これは絶対に夢なのだと思う。

 私がこのようにぞんざいな扱いを受けているのは、何かしらの理由があってそれは決して悪意などではなくて、私のために存在しているのだと考える。

 ああ、早く覚めてくれないかなぁ。

 私は手を合わせて神に祈る。

 目覚めたら瑠璃はいなかった。

 「え、一体どこへ行ったの?」今日も仕事のはずだし、一緒に出社すると約束というかしゃべっていたのに。

 「瑠璃、どこ?」

 口をついて出たのは今の現状に対するそこはかとない不安。

 …瑠璃、私を置いていかないで。

 私を一人っきりにしないで、捨てないで。

 瑠璃は私の愛する人だ。愛する人に向けるにはいかほども尖っているこのセリフを口にせずにはいられない。

 「捨てないで…。」

 涙を流しながら、私は大人になってもいまだに神に祈ることをやめられない。静寂の中手のひらを合わせ心の中で呟く。

 助けて、と。

 「ねえ、聞いた?田無さん失踪したんだって!長谷川さんも知ってるよね?」そう問いかけられたから私は、「知ってる。私田無さんと親しかったから。一体どうしちゃったのかはごめんなさい、分からないの。」と素早く言い切って、その場を逃れるように去る。

 瑠璃は失踪してしまって、誰も居場所はつかめていない。

 ゴボゴボゴボ…。

 ああ、息苦しい。最近は本当にこんな時間がよくやってくる。

 一人で暮らしていると特にそういう場面に出くわしがちなのかもしれない。と思ったけれど、私は結局どこへ行っても一人なのだから同じことだ。結局、苦しいだけ。家族なんてどこにも存在しないのだから、本当は、本当は消えてしまいたい。

 それだけなんだ。それだけだったのに…。

 大学生の頃の私はひどく虚しかった。

 虚しいということにも気づいてはいなかった。今にして思うと、恐ろしいことなのかもしれない。だって自分が分かっていないのだから。なぜジリジリと何かが迫ってくるような心地悪さを抱いているのか、知らないのだから。

 「私、田無瑠璃って言うの。よろしくね。」

 だから会社に入社して初めて話しかけてきてくれた同僚は、初めての親友になった。年齢は瑠璃の方が少し下なんだ、だって瑠璃は高卒でしばらく家に閉じこもっていたのだから。だがそんなことを彷彿とさせない純粋な形をしていて、見た目の美しさと相まってキレイだ、と直感した。

 「え…と、私は長谷川楓って言います。よろしくお願いします。」

 「てか、え…同期ですよね?私同期の人とあまり馴染めてないからよく分かっていないんですけど。」

 瑠璃の存在に驚いてしまっていたから、矢継ぎ早に頭に浮かんだことが口をついて出てしまう。そんな少し変な私の様子を全て含むかのような笑顔で、「そうなんだ。私も同期の人とはあんまり仲良くないよ。」と瑠璃は即答する。

 私は何てこの女は懐が深いんだ、まさしく聖母のような全てを受け入れる何かを持っているように感じた。だからその当時の私にとって瑠璃は、ただただ特異な存在でしかなかった。

 知りたくなってしまった。

 この人が抱えているものを、少し。

 そしてその時に気付く、それはただ薄っすらとだったのだけれども。こういう感情が多分積み重なっていって、人は人を好きになるのかもしれない、と。

 実は私は高校生の頃にまあ、熱いと言っていい恋愛をしていて本当に盲目だった。何もかもどうでもよくて、ただ私をまともにしてくれる彼の存在が愛おしかった。だが彼との恋愛は本物ではなかったような気もする。私がどきどきと激しい片思いに落ちていたことがきっかけで付き合いを始めたのだけれど、そのエッセンスにほだされていたのか一緒にいる時間を重ねていく毎にお互い好きではないということに気付いていく。

 これは私の人生の中で、人と関わることのごく少ない私の人生の中でいい経験だったように今は感じている。

 だから恋愛感情というものについては体感として知っているし、瑠璃に対する気持ちも私は次第に認識していった。これは、好きってことなんだって。

 一日中頭を離れず食欲も減衰し、何より私は正気を失っているような浮遊感を感じていた。正直この感覚は初めてだったし、世界が一変するような価値観の変質をもたらした。

 私にはやりたいことがたくさんあって、やるんだっていう自覚。

 なぜ今まで自分にこんなにも多くの欲求があったはずなのに見過ごしてきたのか不思議なくらいだった。

 これを一言で言い表すなら、私は私を自覚する、と言ったところだろうか…。

 「楓。」

 風が吹くようなくすぐったい声で私を呼ぶのは、元カレ野口貫のぐちいずる。身長が私より少し高いくらいで丁度いい。貫のことが好きだからちょうどいいと感じるのかそもそもいいと感じているのかの判別もつかなかった。

 私は貫に盲目だった。

 「ねえ、聞いていい?私、分からないんだよね。貫が何で私と付き合おうとしてくれたのか。」

 「もちろん私は好きだったから告白したんだけれど、何だか貫の気持ちは私を向いていないような気がするの…。気のせいじゃない気がするから、ごめん。思い切って聞いてみた。」

 ずっとため込んでいた思いを打ち明けた。

 ずっと感じていた違和感をどうにかしたかったから。

 私はずっと孤独だった。孤独だった私に毎日語りかけ、相手をしてくれる貫には感謝しかなかった、だからうやむやにはしたくないのだ。この違和感の正体を、絶対に。

 「………。」

 貫は少し黙って、苦笑いを浮かべていたのだが急にスッと締まった顔をして見せた。

 「僕は、楓のことが好きだよ。」そう優しい声で呟く。だから私の胸はいつもより数段まして鼓動を高めていた。

 しかし貫の表情は曇る。私は一気に奈落の底へと堕とされたような底抜けの絶望を覚える。

 「好きなんだ。でもそうやって真剣に考えてみると、僕は女の人を好きになったことがない。楓に対しても、友達より親しい何でも言い合える人間だとしか考えられない。だから、これは楓に対して失礼でやっぱりこの関係は終わらせた方がいいのかな?」

 貫が口に出したのは率直な不安だった。

 貫の顔は不安げで悲しさを醸し出している。私はそれを愛おしく思うと同時になんとも表現できないもどかしさを感じてしまった。

 もどかしい。なぜそう思うのかは全く分からないのだが、ただ何となくこのままではいけないということだけは掴めていて、そのまま貫とはお別れしてしまった。

 私は貫のことが分からなかった。

 私と貫との間にあった事実も関係も全て幻のように溶けて漂っているように感じた。

 だから、私たちとは一体何だったのかって…。

 そうやって解消できない疑問を頭の中で固めていって、経験として私はそれを飲んで、強くなったのかしら弱くなったのかしら、分からなかった。

 「田無さん。」

 カフェの店員、露木ろきつゆみは話を始めた。ここは大通りに面する老舗のカフェでつゆみが父親から受け継いだ店なのだ。つゆみの父は有名な人物で、有能な人だったらしい。だがつゆみは何も知らない。

 つゆみは父と交友のようなものを交えた記憶が一度もなかった。

 だけど死に際なぜか兄弟の中で私、露木つゆみに父の全てと言ってもいいんじゃないかと思っていたカフェを一任すると言い残し、死んでいった。

 心が疑問符で渦巻きでも父の遺言と呼んでいいだろう言葉に縛られて、結局私はこのカフェを毎日続けている。

 「つゆみちゃんさぁ…。」

 トロンとした瞳を私の方へ向けながら田無瑠璃はしゃべりだす。

 瑠璃とは高校時代からの知り合いだ。私は割と派手目で、地味な子を軽蔑していた。なんであの子たちは抑圧してるんだろうって、私から見たら全く尊敬できなかった。同じ学年で、同じクラスなのに。

 私は秘密を抱えている。

 それはきっと誰にも知られてはいけない。誰にも知らせてはいけない。誰かと分かち合うことはできない。永遠に一人で抱え込むしかなかった。

 「つゆみちゃん大人になってだいぶ変わったよね。昔はやんちゃだったじゃん。ギャルだよ。」そう言って小憎らしい笑顔で私に笑いかけるのは愛おしい小動物、のような腐れ縁なのかな、高校時代の同級生だった。

 私は笑いかける。

 そして瑠璃は微笑み返す。

 地味だった瑠璃は高校時代私の軽蔑対象だった。

 だけどどんどん些細な接触を繰り返していく内に私たちは普通の友達とも違う独特な関係を築き上げていった。何て呼べばいいのか見当もつかない。そんな不可思議な間柄、だけど私たちは心地よかった。本当に心地よい風が吹き合っていたと思う。

 「瑠璃こそ大人になっちゃたよ。でもいつまでも幼いままって感じもするしもっとしっかりしなさい!」

 「うへっ…。」

 瑠璃と私の間には忖度というものがない。おもんぱかって通りまわって言葉を変換する、そんなもの要らないのだ。

 私たちは何を言っても傷つかないし、傷つけたりしないらしい。

 私は、私はだから驚愕している。

 というのだろうか、驚嘆という言葉の方が適切なのだろか…、とにかく田無瑠璃はある日突然失踪してしまった。誰にも居場所を報せず、もしくは誰にも居場所を知られず、はたまた誰かに失踪させられたことも考えられる。

 どれをとっても最悪だ。

 なぜ瑠璃は失踪してしまったのだろう。表面上では瑠璃と疎通していたつもりでも私には全く知りようのない何かがあったのかもしれない。そう思うのは瑠璃が失踪した際にメモを残していたからだ。

 「ごめん。」と。

 筆跡がぐにゃぐにゃで誰が書いたんだか判別できない程で、それは瑠璃本人が書いたにしても他の誰かが書き残したとしても違和感を強く残している。

 ただ少し瑠璃の近頃について掴んでいることがあって、瑠璃には会社に親しい女の子がいると聞いていた。

 瑠璃によるとその子は特別な子で、こんなに社会から浮いてしまう私となぜかどんどん惹かれあうようで、まるで引力のようだなんて詩的なことまで口にしていた。

 私は瑠璃に特別な人ができたんだなあ、と思った。それはどのような関係なのかは全く想像もつきにくいのだが、とにかく彼女たちは、瑠璃たちはおかしな関係だったようだ。

 だから、「カランコロンカランコロン…。」あ、店のチャイムだと思い急いで倉庫から表へ向かったら、カウンターの前で立ちすくんでいた人は女性だった。だから私はすぐに気が付く。

 泣きはらした目で不安な顔を浮かべて見つめている、おぼろげな人。

 「瑠璃、どこに行ったかご存じですか?」

 第一声はやはり瑠璃のことだった。

 私たちは今二人で白い息を吐いている。

 ここはすごく寒いところで、彼は私の恋人なのだ。

 「なあ、ずいぶん遠くまで来たって感じするよな。」そう切なそうな表情を作り私に笑いかけている。この寒さと雪の景色と体力の消耗具合も相まってひどくドラマチックにすべてが映る。

 だがこんな状況でさえ私はすぐに冷めていって冷たくなっていく。どんどん、どんどん。彼はそれを察してしまったらしくよかったムードは一気に減衰していた。

 「だから、ごめんね。私はそういう人間なの、ごめんね。」平謝りするしかなかった。失いたくなかった。だって大切なのは事実なのだから。それをうまく表現する力も、正しくまっすぐに受け入れて吐き出す能力も私には欠如していた。

 全く正しくなどなかったのだから、全く正しくない奴らに囲まれて育てられて放棄された。だから私は自分が元々まともじゃなかったのか、まともだったはずなのにまともじゃ無くなってしまったのか全く分からない。

 ただ、「でも、それでも僕は瑠璃が好きだから。」と臭いセリフをかわいい笑みを浮かべながら小動物を慈しむような目で見つめてくるこの男は口にしてしまう。

 そこが好きなのかもしれない、とふと思った。

 とにかく私たちの歯車はかみ合っていて、どんどん速度を増していっていて止まらない。誰にも止めさせはしない。したくない。お願い。

 痛切な思いというのはその思いが抱えている重さのせいだろうか、打ち砕かれると苦しすぎる、恐ろしいほどに。

 「もういいよね。このまま二人でどこへ行こうか。」心の中をくすぶっている不安がつい口をついて出てしまう。「……。」彼は何も言わない。言えないんだろう、とこの沈黙を押し殺すように断定する。そして、「分かった。僕はもう決意したから。きっと周りのみんなには分からない。瑠璃はずっと苦しかったってこと。今もまだ苦しいってこと。そのままでは生きれないってことも、全部。受け止めるよ、僕が全部。」彼は私の求めているセリフをたどたどしくでも一言一言噛みしめるように大事に呟いていた。

 「私は……。」

 気づいたら体は透き通っていて、ああ、そろそろ死に近いのかもしれないと薄っすら思った。

 「私たちはずいぶん遠くまで来てしまったようだね。」何だかくすぐったくて充実した心地を抱きながら私は彼に笑いかける。

 「そうだね、もう僕たちは行けるところまで来てしまったのかもしれない。」

 二人は何だか幸せそうだったけれど、それはきっと幻だったのだろうか。

 後日田無瑠璃とその会社の先輩、水元透みずもととおりは一緒に遺体で発見された。

 車の中で練炭を焚いていた模様で、その状況からは自殺だったことが推測された。

 真っ暗闇の中で気づいた。

 本当にふとした瞬間だったのだけれども、ふっと浮かび上がって消えなかったのだ。

 この世界はいかにも残酷なんだってこと。綺麗なものしか見ず、綺麗なものしか受け入れず、つまり私のような分類は排除されるのだから。当たり前に誰かが誰かを排除するというこの現象を、みんなは感じているのだろうか。感じてしまったらすごく苦しくはないのだろうか、なんてちょっと哲学チックに思考を深めていく。

 「どうして瑠璃は死んでしまったのか。」

 今すごく知りたくて仕方がないのに、体も頭も動かなくなってきていた。

 「楓。何してるのよ、そんなことしちゃダメって言ったでしょ。」強い口調で私に告げるのは母親で、私はただ母を手伝おうと思って洗濯物を干していた。

 私のやることはすべて母の否定に直面していた。

 だからもう何もしない方がいいと悟り、沈黙し、不動を貫く。

 ゴボゴボゴボ…。

 また心の中でおぼれるような苦しさを感じている。一体どうすれば抜け出せるのか見当もつかない。ぼんやりと思い出せるのは、私の意中の人、瑠璃が男と無理心中してしまったということだけだ。

 私の現実はそれだけで埋まっていて、それだけで全てだと認識していた。

 「」

 「長谷川さん…?」

 あれ、私の名前を呼ぶ声がする。

 そう思ったら急に、今何時なのか今日は何日なのか全くわかっていないことに気付き、焦る。

 「きょ…なんじ…。」うまく言葉が口から出てこない。私は到底現実にたどり着けないようなもどかしさを感じている。そんな時だった。

 「あ。」

 目の前には見知った顔、露木つゆみの姿があった。そうしたらだんだん喉元まで言葉がせりあがってくる心地があってついに、

 「あ、露木つゆみさんですね。」そう言葉を紡ぐことに成功した。

 目の前には暗闇が広がっていた。

 今は夜なんだとその時はじめて気付く。隣にある窓からふわっとカーテンを揺らすような心地いい風が吹いていた。私はだから少し泣いてしまった。

 「ずっと苦しかったのね。聞いたよ。長谷川さんと瑠璃がすごく仲が良かったって。女の子と女の子同士じゃなかったら親友を超えて恋人になってもおかしくない程親しかったって。お互いがそれぞれって感じじゃなくて、本当に一つの何かって感じだよって瑠璃が話してくれたから。」

 私は涙が止まらない。これは滲むような水滴だ。感情に合わせて増幅ししたたっていく。

 「泣かないでよ。」そう言って目の前の露木つゆみは私にハンカチを差し出す。

 「ありがとう。」私はそういってそれを受け取った。

 後に知るのだが、私達はなぜ一緒にこの病院の中にいるのか、全く関係もない二人なのに、なぜ。

 瑠璃の遺体が見つかった現場から見つかったらしい。私の家の住所と名前が書かれた手紙が、「楓さんをよろしく。」という文面が書き記されていたらしい。

 そしてあいまいだった記憶が鮮明になっていき、私はつゆみさんに名前も告げずにつゆみさんの店を立ち去った後、自殺を図ったらしい。それは実感としてではなく、現実としてあったと自覚しているだけ。死のうとしている時の記憶は本当はほとんど残ってなどいなかった。

 つゆみさんは私を気にかけていてくれたらしく、瑠璃の手紙を読みすぐに私を、家の中で死にかけていた私を発見してくれたという。

 「つゆみ。」

 あれ、私何をしているんだっけ。

 でも誰かが私の名前を呼んでいる。

 「このことは絶対誰にも言っちゃダメ。見てもいないし、知ってもいない。無関心を貫くのよ。」

 そう言うのは、そうだ。

 「お母さん。」

 母だ。

 ずいぶん若いから、そうだ、これは夢で私はまだ幼い年齢なのだった。誰かにすがっていないと生きていけない、弱い存在。

 「………。」

 私は無関心を貫く。いわれた通りに、だって、そうしないと心が壊れてしまうから。目の前で起きているいびつな現実から耳をふさぐ。

 「つゆみってさ、表情が全然ないよね。何考えてるのかいまいち読めない。」

 そう言うのは高校の同級生だ。

 私は確かにそうだなと思ったし同時にそう思わせてしまって申し訳ないのかなとも思っていた。私が変だということはきっと事実で変えようにも変えられない私そのものとして機能している感覚がある。

 私は幼い時の記憶があいまいで、夢の中でふっと思い出すことはあっても嫌な、すごく嫌な肌触りを残してすぐに消え去ってしまう。

 この心もとない空白とともに余生を過ごすのは非常に大変だ。非常に、非常に。

 でも世界はきっとそんなことばかりで、私は友達を失ってしまったし、私の周りでは多くの人が苦しんでいるし、私は多分幸福なのだ。

 たかがこんな得体のしれない空白を抱えていても、その正体すら掴めていないのだから、知らぬが仏。そんな言葉を当てはめてみよう、と思う。

 「私は……。」

 「私は……?」

 私に私を問いかける。

 私は私って?

 ただ空っぽだったことに気付いて、毎日本当は気付いていて、でもどうしようもないから私はただ、ただふけっていく。

 「………。」

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空想と空白、そのままの場所。 @rabbit090

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