第9話 ある優等生の回想
――side藤澤晴奈
全ての始まりは本当に些細なトラブルだった。
その時の口論で何かがお互いに気に障ってしまったのだろう。
やがて父と母が喧嘩をするのは日常茶飯事になり、ついには一切口も利かないようになっていた。
それでもあの時は父も母もわたしや弟たちのことを気に掛けてくれていただけマシだったのかもしれない。
中学に上がって暫くたったある日、父は家に帰ってこなかった。
それがその日だけなら母も、そしてわたしたちも何とも思わなかっただろう。
だけど父は次の日も家に帰らず、その次の日も、そのまた次の日も、わたしたちと顔を合わせることはなかった。
◇◇◇
「……ふぅ」
オンライン授業が終わり学校から支給されたパソコンを閉じると、わたしはエプロンを着て弟たちの夕飯を作り始める。
父がいなくなり、母がわたしたちへの関心を無くして早1年。家事はもうすっかり手慣れたものだ。
わたしは冷蔵庫の中を確認すると、今日の献立を考える。
その時、ガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
(……最悪)
恐る恐る居間を覗き込むと、そこにはソファーに寝転がりながらビールを飲む女と視線が合う。
「あら~いたの。なら丁度いいや。コンビニに行ってビール買ってきて~」
その女、認めたくないがわたしの母に当たるその人はお酒で真っ赤になった顔でそんなことを言う。
「未成年だから無理。自分で買ってきて」
「あっそ。じゃあおつまみでいいから何か買ってきて~」
母の要求を聞く道理なんてない。
だけどわたしは1分1秒でもこの人と同じ空間にいることに耐えることができなかった。
「……わかった。夕飯の買い出しもあるから帰ってくるのは20分くらい後だから」
「は~い」
わざわざ着替えるのも面倒くさいのでこの格好のまま買いに行くとしよう。
そう考えて財布を取りに行くと、その重さに違和感を感じた。
「……お母さん、お金使った?」
「ごめ~ん。どうしても足りなかったからつい使っちゃったあ~」
(……死ね)
毎月一度、父が置いていく生活費。それが今のわたしと弟たちの生命線だ。
しかし母はそのお金を抜き取ってはお酒や贅沢品のために費やしてしまっている。
おかげで我が家の家計は常に火の車となっていた。
本当に心底腹立たしいし怒りたくてしょうがないのだが、当の本人があの有り様では何を言っても意味がないだろう。
「あ、そうそう。今日も梶原くんが来るからよろしく~」
唐突に母から投げられたその言葉に血の気が引くような感覚を覚える。
「っ!」
わたしはカバンを手に取ると、乱暴に扉を開けて外へ出た。
「……はぁ」
家を出たのはいいけど、これからどうしようか。
友達の家に押し掛けるわけにはいかないし、その間にアルコールが抜けた母がろくでもないことをしでかす可能性があるから家に帰らないとダメなのだろう。
……だけど、あの男が家に来ると考えると。
「……あ」
そんなことを考えている内にスーパーに着いてしまう。
仕方ない。とりあえずここで少し時間を潰そう。
「――藤澤さん」
「あれ、伊織くん?」
声をかけられたので振り返ると、伊織くんが真剣な様子で話しかけてきた。
「えっと、どうしたの?」
「……いや、ただ辛そうな顔をしていてるのが気になって。本当に大丈夫か?」
どうやらわたしの顔はそれほどまでに酷いものだったらしい。
「そんな、本当に大丈夫だよ」
「……そうだ。妹の、佳那の連絡先は知ってる?」
「うん。知ってるけど……」
「なら今日電話してやってくれないかな。あいつ、お前と話したがってたからさ」
佳那ちゃんは道場ではよく仲良くしてたし、機会があればまた会いたいと思っていた相手だ。
だけど電話して思わず弱音を漏らしてしまったらと考えると……。
「もちろん無理にとは言わない。ただ佳那は君に頼られたいと思ってる。だから藤澤さんも変に気にせず頼ってもいいと思う」
「!」
その言葉に肩の重荷が少し減ったような感じがした。
「わかった。それじゃあ電話してみるね」
「ああ。っと、俺はそろそろ行くよ。じゃあまた明日」
「うん、また明日」
そうして伊織くんと別れたわたしは、それから母に頼まれていたおつまみと弟たちの夕飯の食材を買って少し時間を潰してから家に帰る。
「おかえり~。買ってきてくれた~?」
「はい、どうぞ」
わたしはカバンから買ってきた乾物を母に渡し、弟たちの夕飯を作り置きして冷蔵庫に入れると自分の部屋に入った。
そしてここ暫く使っていなかったスマホを取り出すと、電話のアイコンをタップする。
「すぅ、はぁ……」
そして大きく深呼吸をしてから、連絡先の『佳那ちゃん』をタップした。
「……もしもし?」
『え、あ、先輩ですか!?』
「……うん。今大丈夫かな?」
『もちろん大丈夫です! また先輩とお話できるなんて……!』
さっきまでの不安はどこにいったのやら。
わたしは時間を忘れて佳那ちゃんと色々なことを話した。
……そのせいで気づくことができなかったのだろう。
「ダメじゃないか、
「か、梶原先生……」
いつの間にか部屋に入ってきていたその男、毎日オンライン授業で顔を合わせさせられてきた
別の学校で暴行騒ぎを起こしたという噂のある梶原は、母の2番目の男として頻繁に家に上がり込んではわたしに暴力を振るう最低最悪のクズ野郎だ。
そしてわたしはこいつの本命が母ではなくわたしだということを、そして母もわたしが狙われていることに何も思っていないことを知っている。
「仕方がない。教育の時間だ」
「やめっ……!」
いくら剣道で鍛えているとはいっても、体格の差は覆せない。
必死の抵抗も虚しく、わたしは床に押し倒されてしまった。
「なあ委員長、なんで分かってくれないんだ? オレはお前の将来を真剣に考えてやってるんだぞ」
「いやっ……!」
腕を強く掴まれて激痛が体を走る。
もう、嫌だ。誰か、誰か助けて……。
――その時、何処からともなく現れた影が梶原に襲い掛かった。
引き剥がされた梶原は大きな音を立てて壁に激突する。
一体、何が? 突然の事態に放心していると影がわたしに振り向く。
「藤澤さん、逃げろ!」
「伊織くん……?」
影の正体はついさっき出会ったばかりの彼、伊織くんだった。
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