第2章

第2話 箱庭遊戯①

 鉄格子から射し込む朝陽で、道下透は目を覚ました。

 朝陽は、透の頬を撫でるように、優しく降り注いでいる。清々しい朝ではあったが、透は起き上がる気には全くなれなかった。

 透は仰向けになったまま、ただ天井の一点を見つめた。そうしていれば、今自分が置かれている現実が、何もかも消えてくれるような気がしたからだ。無意味な現実逃避であることは透自身にも分かっていたが、心よりも身体が、現実を受け入れまいと意地を張っているようであった。

 だが――当然の如く、そんな空しい試みは、次第に覚めていく感覚によって無残にも砕かれていった。

 不自然なまでに高い天井。不自然なほどに淡い照明。そして、視界の四隅には、クリーム色のクッション―患者の自殺防止のために壁の全面に張り巡らされているクッションシート―が場違いな風船のように膨らんでいる。非現実的な風景は、透を現実に引き戻すには十分なものであった。

「駄目だ。やっぱり起きよう。」

 意味の無い現実逃避を断ち切ろうと、透はベッドの上で無意味なほどに反動をつけて飛び起きた。仁王立ちのような姿勢で立ち上がった透は、改めて自分がいる居室の全容を見た。

 ここに来て既に1週間ほどの時間が経過していたが、透は未だにこの部屋に慣れなかった。最も、それは当然であると言えた。四方の壁には自殺予防のためのクッション。天井は異様なほど高く、上の方に一つ、鉄格子付きの窓があるだけ。部屋の中には、ベッドと小さな机の他には、剥き出しの便座が一つあるだけ。扉は剥き出しの鉄製で、食事の搬入口の他、上部に鉄格子が嵌め込まれており、内側からは開けることもできない。監獄――最初に移送されて来た時から今まで、透はこの部屋に対してそんな印象しか持てなかった。

 そう。透は今、精神科の病棟に付設された隔離室に入れられていた。

 藤堂と一緒に車で東京湾に飛び込んだ後、一人、車内から脱出した透は、駆け付けた警察に確保され、そのまま現行犯逮捕された。一方の藤堂は、引き上げられた車の中から死体で発見された。藤堂の死体は、正確な死因すらも分からないほど、凄惨な状態であったという。警察の事情聴取に対し、最早何も隠し通せないと悟った透は、闇虚のことも含めて、事件に関する自分の行動を洗いざらい全て打ち明けた。

 結果として、彼は完全な異常者として精神科の病棟に措置入院させられることとなった。

 隔離室に入れられてすぐ、会社からは、解雇の通知が届いた。実家の両親からも手紙が届いた。手紙にはただ一言「今日限りで絶縁する」とだけ書かれていた。

 透は、社会との繋がりを、完全に失った。

 ベッドの上に立った透は、外の世界との数少ない繋がりである鉄格子付きの窓を見た。そして、そこから射し込む朝陽を全身に浴びた。外の世界にいるときはあれ程忌み嫌っていた朝陽が、今の透にははただひたすら恋しかった。今にして思えば「朝陽に呪われてる」など、何と馬鹿げた考えだろうか、と透は心の中で笑った。あの程度の呪いや不幸など、今のこの状況に比べればそれこそ天国のようなものだ。あの程度の呪いならば、いますぐにでも戻りたい――

『都合のいいことばっかり考えてんじゃねーよ、お前。』

 透の中で、闇虚が嗤った。

『大体、本来なら私たち本物の監獄にいて当然じゃん。それが入院で済んだんだから、ラッキーだったと思うべきでしょ?』

「これがラッキーか? 監獄と変わらないだろ。」

 透は他人事のように言い放つ闇虚に立腹し、思わず口に出して反駁した。

「元はと言えば、お前が無茶苦茶やったことが原因なんだからな! 少しは悔い改めろ!」

『そんな私の滅茶苦茶な行動を黙認したのは、どこの誰だっけ?』

 痛いところを突かれて、透は口を噤んだ。確かに闇虚の言う通りであった。藤堂と遭遇して以降の闇虚の行動を、透は積極的には止めようとしなかった。闇虚が藤堂を恫喝し、誘拐した時などは、殆ど何も言わず、闇虚の行動をただ見ていただけだった。事実上、彼女の犯行を黙認したも同然の行動。一体何故あんなことをしてしまったのか、透自身としても、あの時の自分の態度は理解に苦しむものであった。

『さらに言うなら、私が滅茶苦茶したおかげで、私たちは断罪すべき犯罪者じゃなく保護すべき「病人」としてここで生きている。悔い改める必要なんてないよ。むしろ感謝してくれなくちゃ。』

「ハイハイ分かったよ。お前が正しい。お前のおかげだよ、まったく!」

 追い打ちをかけるように畳みかける闇虚に返す言葉を失った透は、投げやりな言葉で会話を断ち切ると、ベッドに転がって不貞寝した。

『アンタが私の行動を黙認したのは間違ってなかったって言いたかったんだけどな。ま、いいや。』

 闇虚は肩を竦めると、そのまま透の心の底へと消えていった。

 一人ぼっちになった透を、朗らかな朝陽が残酷に照らし出していた。

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