殺伐感情戦線短編集「私の死だけが貴女の救い」

御神楽

引火点-40℃

 彼女の髪が燃え盛る炎に透き通る。瞳を瞬かせるその横顔はどこか儚げで、現実感をひどく喪わせる。彼女は舞い散る火の粉と同じ。ふと目を逸らせばたちまちに弾けて消えてしまう。だから私は瞬きひとつせず、じっと彼女を追い続ける。

 彼女は制服の上にパーカーを着て、そのポケットに手を突っ込んだまま、立ち昇る炎をただぼうっと見つめている。

 私はスマホをゆっくりと動かして炎と彼女を俯瞰し、その横顔を動画に収めていた。画面の中で彼女が振り返り、スマホ越しの私に微笑みかけている。

「そろそろ行こっか」

「もういいの?」

「だって、人が来るから」

 私の答えを待たずに、彼女はこちらへ歩き始めた。録画を止める私の隣をすり抜けて、彼女は背後の路地裏へと消えていく。私はスマホをカバンにしまいながらその後を追った。

 路地裏の奥、砂利とゴミが足元で音を立てる。彼女の背を追いながら、私は空を見上げた。建物と建物の隙間に月のない曇り空が一筋、私たちの行く道を象っている。背後に人のざわめきが集まり始めたころ、私たちは暗闇の切れ間を潜り抜けた。開けた空にも、やはり月は居なかった。

 薫流かおる

 私の友だちで、連続放火犯。




 私と比べて、薫流は随分大人しい雰囲気の子だった。

 肩上までのミディアムに、膝丈のスカート、アクセサリの類は無し。髪型はともかく、着こなしその他は私も同級生らと同様、もっと気楽にしていた。

 私にとっての薫流は、遠からず近からず、少なくはない友人たちの一人くらいの距離感。私たちが出会ったのは、記憶も曖昧な幼いころだ。小学校も中学校も同じで、私たち二人はずっと一緒だった。けど私が“本当の薫流”に出会ったのは、半年ほど前のこと、街はずれにある廃工場跡でだった。

 陽が姿を隠す薄暗がりの中、ひと気のない筈の廃工場から、火の弾ける音がした。見れば工場の一角にはうっすらと煙が漂っていて、私は最初、ぼやか何かが起きているのだと思った。

 自転車を置いて駆けつけた私が見たのは、小さく揺らめく炎を見つめる、マスク姿の薫流だった。

「薫流。何してるの?」

 私の声に、彼女は咄嗟にバケツを手にすると、揺れる水を条件反射のように火へとぶちまけた。炎は一瞬にして消え、コンクリートの床を濁った水が流れていく。言葉無くただ茫然と私を見つめ返す彼女の手から滑り落ち、バケツが音を立てて転がる。足元にあるライターオイルの小さな缶が、火が誰によって起こされたかを何よりも雄弁に語っていた。

「あの、私……」

 薫流が俯いて呻く。私は思わず、駆け寄ってその肩を抱いた。

 あるいはそれは、薫流との再会でもあった。

 落ち着いた彼女と私は色んな話をした。将来に立ち込める煙や霧の中の孤独感のような、ともすれば他愛のない、けれど抱え込んだままやり場のないもの。微かにしゃくりあげる彼女の小さな背を抱いて、私は呟いた。またやろう。今度は二人で――その言葉に、私自身驚いた。自らの驚きを誤魔化すようにその背をより強く抱くと、薫流は黙ってうなずいた。

 私たちは文字通り“火遊び”を始めた。

 彼女が火をつけ、火を見つめる彼女を私が見つめる。私は火には特に惹かれなかった。ただ火を放つ彼女が好きだった。何かを燃やし、その炎に照らされる彼女を見るのが好きだった。

 それも、最初は焚火のようなものだった。

 これまでと同様に廃材やゴミを廃工場の裏手で燃やすだけで、一通り燃やしたら消火もした。けれどふた月ほどして、工場跡を囲むフェンスに進入禁止の看板が掲げられた。フェンスは相変わらず補修もされていなかったけれど、それでも私たちはその地を捨てることにした。

「どうしよっか?」

 帰り道、私が問い掛ける。

「もう、やめる?」

 私の問いに薫流は小さく首を振った。街灯の明かりを抜けて暗がりに足を止め、彼女はふいに顔をあげた。

「あっち行ってみるのは、どうかな……河原のほう……」

 ちらりとこちらの反応を伺う彼女に、私は笑顔で頷いた。土手と階段を下りた先、雑木林を背にした河原には乾いた流木もあった。少し屈みがちに流木を物色する彼女の隣で辺りを見回し、私はあっと声を漏らした。

「どうかしたの?」

 薫流の手から取り落された流木が、渇いた音を響かせる。

 私は土手の方、草むらのへこんだ一角を指さした。

「あれはどう?」

 そこに潜んでいたのは、乱雑に積まれた数冊の雑誌だった。私が微笑むと、彼女は吸い寄せられるようにそちらへと近付いていく。

「……うん、これにする」

 ライターオイルを取り出した彼女が、ぱらぱらと振りかける。マッチをこすって放り込むと雑誌は勢いよく燃え上がり、煽情的な裸体の数々は瞬く間に黒い灰と化していく。風に巻き上げられる灰。それを目で追う彼女の頬が朱に染まっていたのは、初冬の寒さのためか、それとも炎のためだったのか。私は思わず、その首に抱き着いた。

「いいじゃん、外も案外悪くないね」

 耳元でそう囁く。彼女は何も答えず、私の腕に手をやりながら、燃える雑誌を見下ろす。ここにはもう、バケツはない。薫流はただじっと、燃え尽きるまで炎を見つめていた。




 薫流に笑顔が増えると共に、彼女を照らす炎はひとつ、またひとつ強くなっていった。

 私たちは変わらず話をした。燃え盛る炎は漠然とした不安を照らし、その姿形を明らかにしてくれた。十年来共に過ごしながら、ずっと秘されてきたもの。お互いの心の中にしまい込まれていたものが、炎に照らされて浮かび上がる。全容がうかがえぬほど暗く大きな感情も、より大きな炎ならくまなく照らすことができた。

 雑誌から廃材、廃材から粗大ごみ、粗大ごみからゴミ捨て場。下校の寄り道感覚で火を付けられなくなってきて、私たちは火遊び後の逃走経路を確認し、日時も調整し、消火が始まる前にはその場を離れたっきり現場には戻らなかった。彼女は炎に、私は彼女にしか興味が無かったからそれでよかった。消防も野次馬も、私たちには邪魔な何かでしかなかったから。

 その日の炎は、ごみから柱へと燃え移り、ごみ捨て場を炎に包んだ。プラスチックと紙の入り混じって焼ける臭いが煙交じりに立ち込め、赤々と輝く炎は強烈な熱気を伴って私たちを照らしていた。

「そろそろ行こっか」

「もういいの?」

「だって、人が来るから」

 そうして私たちはその場を離れた。

 路地裏を抜けた先、連れ立って歩く私たちを照らす月はなく、遠く背後から火事の喧噪だけが響いてくる。

 私たちが離れた後で隣接する塀も一部焼いたらしいけど、それは後から知ったことだし、私たちには関係がなかった。私の記憶にあるのは立ち昇る炎と、炎を前にした薫流の横顔。それから、放火後に頬を上気させた彼女と交わした言葉だけ。

「あの……ね」

 少し遠慮がちな薫流の呼び掛けに、私は足を止めた。

「どうかした?」

「私ね、服飾の学校行きたいなって思うの」

「服飾? デザイナーになりたいの?」

 私が思わず問い返すと、彼女は慌てて首を振った。

「そうじゃないの。ただ、仕立屋さんに……街のスーツ屋さんみたいな、そういう仕事がしたいなって……」

「よくあの両親が許してくれたね」

 当然に出た私の疑問。けれどそれに、彼女は首を振って答えた。

「まだ話してないの。それにたぶん、許してくれないと思う……」

「それじゃ、どうするつもり?」

「ひとり暮らしする」

 彼女は顔をあげた。意を決した、薫流らしからぬ強い意志を感じさせる声。

「当てはあるの。学校の近くで、働きながら通えそうなところ」

「本気なんだ……見つかったんだね。やりたいこと」

「うん」

 私が微笑むと、彼女も柔らかな笑みを見せた。

 薫流は恥ずかしそうに俯き、ポケットに手を入れたまま、その視線は言葉を追い求めさ迷っている。そこに隠されていたものを、私は知っていた。それはとうに炎に照らされ、その姿を私に見せてくれていたものだったから。

 はにかむ彼女が、再び口を開く。

「だからね。その、できれば私と――」

「薫流はきっと大丈夫」

 言葉を割り込ませて、私は視線を落とした。

 続けるべき言葉も私にはわかっている。

「なら、これも終わりにしなきゃ。次で最後にしよ」

「あの……待って。私は……」

「終わりだよ、薫流。次で終わり」

 静かに、けれどきっぱりと告げて、彼女へ視線を投げ掛ける。彼女と目が合って、私は目を細めた。

 薫流は目をぱちくりとさせながら、そっかと小さく呟いた。どこか寂しげで、俯きがちな瞳は微かに震えている。

「次で最後……うん……」

「続けたい?」

 努めて、優しく問い掛ける。

 こちらを見つめ返す薫流に、私は首を振った。学校でも町内会でも、注意喚起は出されるごとにその語気が強められている。いずれどこかで続けられなくなるのは最初から解っていた。解らなかったのは、どれくらいでそうなるかだけだった。

「最後にもう一度、あの工場跡でやろ」

 二人が再会した場所。外の世界から隔絶された、二人だけの大切な場所。そこで、最後にもう一度。

「それで終わり」

 私は笑い、重ねてそう告げた。




 うっすらと月明りの広がる夜だった。

 私は自転車を使わなかった。空を見上げて白い息を吐き、少し重たいバッグを肩にゆっくりと歩いていった。廃工場の壁に囲まれたその奥、街と人々から隔絶されたその空間は変わらず静かで、私が到着した時、薫流はタイヤに腰かけてぼんやりと遠くを眺めていた。

「お待たせ」

 声を掛けても、彼女は暫く横顔を見せたままだった。彼女は視線を膝へと落とし、ゆっくりと時間を取ってから振り返った。

「ううん、今来たところ」

 私はちらりと薫流の傍らに目をやった。すっかり焼け焦げたいつもの場所には既に廃材がぱらぱらと積み重ねられていて、バケツやライターオイルも置かれている。

「うそつき」

 私が笑うと、薫流は慌てて首を振った。

「あの、私、本当に来たばかりで……」

「本当は?」

 悪戯っぽく問い詰めると、彼女は目を逸らして顔を赤くした。

「……だいぶ待ってた」

「だと思った」

 私は薫流の傍まで歩み寄り、肩のバッグをその場に下ろす。大きな音を立てるバッグ。その重量感を前にして、彼女は不思議そうにバッグを一瞥する。私は薫流の反応に満足だった。バッグを見た彼女が、答えを求めるように顔をあげるのを待ち、満を持して切り出した。

「最後だし、特別なものを燃やしてみない?」

「特別なもの……?」

 困ったように私を見つめる彼女に頷き、その頭に手をやった。互いの額を寄せ、私は目を閉じたまま静かに囁きかける。

「人間、焼こ」

 目で見ずとも、彼女の動揺が手に取るように解った。彼女は一瞬、言葉の意味を理解できずに硬直し、続けて反射的に飛びのいた。私はゆっくりと目を開くと、彼女の足先から順繰りに視線を這わせ、青ざめたその顔を覗き込んだ。

「犬や猫も考えたけど、そういうのはやっぱりよくないなって。人間の都合に巻き込んじゃ、可哀そうだもん」

「何言ってるの……」

 呻く薫流を前に私は屈みこみ、カバンに手を伸ばす。

 私が持ってきていたのは、ガソリンの携行缶だった。中身は全部で二リットル弱。親の車から抜きとるのはそう難しいことではなかったが、人ひとりの全身を濡らすならこれくらいで足りる筈だった。

「どうせなら完全に焼き尽くしたかったんだけど、私たちの手にはあまるし、どうせ最後まで見てもいられないから」

「燃やすって……誰を?」

 薫流は唖然としながら、それでもようやく私に問う。

「解ってるでしょ?」

 当然に、そう思った。彼女も解ってて聞いている、そう感じた。

 手にずっしりとくる重み。その栓を開いたら、揮発性の強い臭いがした。

 頭上に掲げた携行缶を、迷うことなく傾けた。目に入らないように、あるいは無駄にしないように、少しずつ、全身に染み込ませるように。泡立つ空気の音が携行缶の中に響く。流れ出すガソリンの音が、心臓の鼓動と同期する錯覚にまでおそわれる。全身を伝い、雫となってしたたり落ちたガソリンはコンクリートに黒い点描画を描き、それらはやがてひとつの大きな染みとなっていく。

 ふっと息を吐き、眼を開ける。

「……やっぱ、本番は緊張するね」

 地面にこつりと携行缶を下ろし、私は薫流へ向き直った。

「さ、いいよ」

 頷き、告げる。それでも薫流は、唖然とした表情で首を左右にしていた。

「……いや、やだ」

「安心して。ちゃんとそれっぽい遺書は書いてあるから」

「そういう問題じゃない……」

 思わず目を逸らす薫流に、私は語気を強める。

「こっち見て!」

 びくりと肩を震わせて、彼女は震えながら私を見た。

 二人の間がしんと静まり返る。私はガソリンが垂れてきそうな髪を掻きあげながら、じっと彼女を見つめた。指の合間にまとわりつくガソリンが、頬や首へと流れていく。

「私ね、何かを燃やしてる薫流が好き。だからどうせなら、人を燃やすところも見たいなって……前からそう思ってたの。いけない?」

 私は手を伸ばした。けれど決して、彼女には触れない。ガソリンが付着すれば、着火するはずの彼女にも燃え広がってしまうから、私はもう、彼女に触れる訳にはいかなかった。ちょっとくらい、頬や髪に触れてからガソリンを被ればよかったと、この時は少しだけ後悔したけれど、それでもやることは変わらなかった。

「いつものマッチがいいな」

 私は彼女のポケットを指さし、悪戯っぽく首を傾げて見せる。

「燃やして、薫流」

 うまく笑えているだろうか。

 私は笑顔だと、思うのだけど。

「私は……」

 薫流の喉から掠れた声が絞り出される。彼女は震える手をポケットに入れると、そこから小さな箱を取り出した。二人で買った、かわいらしいマッチ箱。それをそっと握りしめ、彼女は俯く。

「私は、あなたが喜んでくれるから……」

 そんな彼女にも、私はいつしか気付いていた。あるいはだからこそ、今ここでこうしている。

「そうね。だから見せて。最後に、私を見る薫流がどんな顔をするか」

「違う……そうじゃなくて、私はただ……」

「いいのよ、気にしなくていいの。ただマッチを一本擦って、こちらへ放るだけでいいんだから」

 自分でも不思議なほどに、優しい声が出た。心の底から、薫流のことを想える。その気持ちが、私の声をしてそうさせてくれていると感じた。心よりの想いを込めて、私はもう一度繰り返した。「私を燃やして」と。

 マッチ箱をじっと見つめていた薫流が、ぐっと奥歯を噛み締める。

 彼女の震える指がマッチ箱の内箱を引き出していく。

 吐息ひとつ漏らせずに時が過ぎていく。彼女は暫くそうして微動だにしなかった。ガソリンの滴る音だけが、工場跡に虚しく響いている。火種ひとつで私は死ぬ。それもおそらくは、悶え苦しみながら。そのことを自覚してなおありあまる時間が、私たち二人の間に流れた。

 薫流は意を決したのか、ふいに口を開いた。

「やっぱり、こんなの違う……」

 彼女の掌の中、マッチ箱が握り潰される。投げ出された腕からくしゃくしゃに潰れたマッチ箱が転がると共に、彼女は涙を湛えた瞳をこちらへ向けた。

「私はただ、あなたの友達でいたかっただけ。あなたに見つめられたかっただけ。喜んでほしかったのは、私を好きでいて欲しかっただけ……全部そのためだったの! 火なんか、どうだってよかったの! 違う! ぜんぶ違う!」

 堪えきれなくなって、薫流は泣き始めた。一筋涙がこぼれると、もうどうやっても押し留められない。彼女はまくし立てるにつれ涙をあふれさせた。頬を伝う涙を拭いもせず伝うに任せ、私を正面に目を逸らさなかった。

 私は、答えられなかった。答える言葉を持っていなかった。今となっては答えることそのものが不誠実でさえあった。だからただ黙って彼女の声を受け止め、その場に佇む他に何もできなかった。

 薫流は肩で息をしながら、とうとう手で涙を拭った。

「ごめんなさい」

 それが最後。彼女は踵を返し、私を残して駆け出す。

 止める間もなくその背が遠ざかっていく。私は無言で立ち尽くしている。そうして彼女の背中が壁の向こうに消えた時、私は溜息交じりに屈みこんだ。

 水道はまだ通っているだろうか。前はまだ水が出たけれど――そんな事を考える。ガソリンまみれのままって訳にはいかないだろうから。

 滑稽だろうか。そうかもしれない。けれど別に、死にたかった訳じゃない。私は彼女に火を掛けられたかった。燃え盛る私を見てほしかった。その視線を独り占めにして私たちの関係を締めくくりたかった。けれど彼女はマッチを捨てて、私の前から去っていった。だから私たちの火遊びも、ここでおしまい。

 握りつぶされたマッチ箱に手を伸ばし、そっと振ってみる。箱からなんの音もせず、内箱を覗き込む。

 マッチは最初から、一本も残されてはいなかった。

 炎に照らされた日々は終わりを告げた。全ては失われてしまったのだ。もしマッチが残っていたら――その答えを得る機会と共に。

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