天衣の向こうに

しきもとえいき

第1話 弥太は今日も元気な子

 まだ春とは名ばかりで季節は冬の名残で溢れ、雪解け水が苔むした緑色の岩肌に銀色のしぶきを輝かせて、川へと流れ込んでいる。凛とした空気が辺りを覆い、水の流れが清らかさと冷たさを音にのせて、神々しささえ孕みつつ何とも気持ちがいい。

 木々の葉は風に心地よく揺られて、その調べを水音に重ね、清らかさをさらに深めて山合を清め、命を育み冬のまどろみを癒してゆく。


 風に誘われひょいと小枝にとまったモズのつがいが羽をつくろうでもなく、首を右に左に傾げながら囀りあっている。どうやら何かを見つけたらしい。

 二羽の眼下には、川の流れに流されてしまわないよう器用に蔦で躰をまいて、水に揺られている何かの生き物がいる。色は全体的に薄く若葉色で、蛙のようだが何か違う。蛙にしては大きすぎるのだ。

 そもそもこの季節でそんなに大きな蛙がいる筈がない。

 よく目を凝らしてみると、頭には白い皿があり、口は嘴で手足には水掻きがついていて、緑色の蛙のような躰つき。

 河童だ。


 然もこの河童、蛙であれば巨大だが河童としてはかなり小さい。まだまだ幼いようだ。嘴の色は鮮やかな黄色で丸みを帯びていて鋭さがまるで無く、頭に載せている河童の命皿も乳白色だし、甲羅も黄緑色で触ったら凹んでしまいそうな色をしている。顔立ちもあどけなくて幼く、閉じられた大きな目に長いまつ毛が何とも愛らしい。

 この子河童、身を切るような冷たい水にも関わらず実に気持ちよさそうに寝息を立て、何か嬉しそうな顔をしている。

 モズたちも、冷たい水の中に独りが不思議だったのかそれとも好物の蛙に見えたのかわからないが、辺りをはばかることなくさらに高く囀る。


「ふぐわぁぁー」


 と鴨が溺れでもしたような声で子河童はあくびをすると、大きな団栗眼をぼんやりと開き、きょろきょろとあたりを見まわした。そしてようやく頭上のモズたちに気が付くと、


「さっきから何か用事?」


 長いまつ毛をしばたたかせ、丸みを帯びた嘴をとがらせて尋ねた。

 キュイキュイ鳴き声をあげながら更に覗き込むモズに向かって、一際甲高い声で両の拳をぴょこぴょこ振り上げて、


「怒るの? 喋るだけで? ……化けガエル?違うよ。でかい蛙じゃなくて、おいら弥太。え? 名前だよ。他にも弥太っているかおいら知らない。ここの弥太はおいらだけ」


 弥太と名乗るこの子河童は鳥と話ができるようだ。弥太の言葉にモズが交互に「キュピーキュピー」と啼く。


「寝ている頭の上で、大声で食べられるとか死んでいるとか騒ぐのが悪いでしょ」


 と一気に子河童がまくし立てる。

 モズたちは、弥太の叫び声に応え、威嚇をするように尾羽をくるくると回して

「キュチチチ、キュチチチチチ」と鳴くと空へ吸い込まれるように飛んでゆく。


「変な化け蛙じゃないってばー」


 広くどこまでも青く澄み渡る空に向かって飛び立っていった小さな影を見送りながら、これまた小さな拳をさらに振り上げてそう言うと、また川面に横たわり流れにゆられる。

 ここの流れはとてもいい。冷たくて清らかな水が頭の皿を伝い甲羅を抜けて、知らず知らず痒いところやチクチクしたところがじんわりポクポクしてよくなってる。生命の力が溢れる水の流れだ。

 深く潜れるほどではないが、その分川底まで大好きなお日様が輝いて、きらきらしている。生命の水の中にあってお日様のきらきらを身体中に浴びることができるなんて嬉しくてたまらなくて「ほうっ」と声に出るため息をついてしまう程だ。

 だが、昼寝を邪魔されるのはいただけない。ただでさえいい夢だったのだから。


「もうちょっと食べられたのに」


 呟くと弥太は目を閉じる。そしてさっきまで見ていた夢がまた見られないかと期待する。

 夢の中で、目の前に食べきれないほどの大好きな茄子が山とあり、それを頬張っていたのだ。食べても食べても無くならない瑞々しくて艶々した紫色の宝の山。

 そんな幸せな夢を見ていたのに、さっきの鳥たちはでかい化けガエルだの死んでいるだの変なことばかり頭の上でぎゃあぎゃあ言っていてうるさいったらない。お蔭で、すっかり目が覚めてしまった。 

 あぁ……思い出しても腹が、腹が減ってきた。

 白いお腹をさすさすしながら、モズが吸い込まれていった底抜けに青い空を半目で恨めし気に見上げていた。本当はもう少し寝ていようと思ったのだが、お腹が空いてきてもうどうしようもない。


(お腹がすくのは元気な子。ね)


 弥太はふわりと誰かに頭を撫でられた気がして辺りを見回すが誰もいない。


「そうだよぉーお腹すく子はぁ元気な子ー」


 と調子はずれの唄を歌いだす。昔誰かが歌ってくれたような気がする。昔という程年齢を重ねていないのに、何故かとても懐かしい気分になる節回しだ。

 弥太は何か優しくて暖かいものを思い出しかけた。

 何かの拍子に弥太は、褒められたり叱られたり頭を撫でられたりするようなそんな気分になることがある。そんな時いつも懐かしいと思う何かを思い出しかけては、其の度に霧や霞が頭にかかり思い出せないでいる。

 そうあの、あの暖かくて優しくていい匂いのあれを。

 あれって何だっけ?

 今度こそ思い出して見せる。眉間に指で皺をつくり考える事を考えてみる。

 いつも何かを思い出しかけてはそれが何かを思い出せない。

 とても大事で暖かいものであり、忘れてはいけないことのような気がするのだが。いつも忘れる。

 というより弥太がまだ幼くて気忙しく思い出せないだけかも知れないが。


 取り敢えず思い出そうと頭をひねる。

 ゆらゆらと川の流れに揺られながら、水掻きのついた手で頭の皿のふちをぴしゃんと叩く。

 考え込むときの弥太の癖だ。

 ふむふむと難しい顔をして考え込む。そんなに深刻に考えてはいないのだが、何となく考えてみる。

 何を忘れているのか考えてみる。

 いい匂いの優しい何か。いい匂いは嗅ぐのはいい。


 だけどお腹がすく。何でお腹がすくのか?

 美味しい茄子が何故美味しいのか考えてみる。ぐぅと腹が鳴る。

 たちまちにして夢の茄子で頭の中は溢れかえってゆく。瑞々しくて食べても食べても食べられる紫色の大好きなお宝。

 どうしても茄子をたべたい。夏が来ないと実がならないのは知ってるけど、それでも食べたい。


 ほんの少し希望はある。

 千吉だ。

 弥太が相棒と決めつけている千吉は亀だが、ただの亀ではない。なにせ弥太の自慢の相棒だ。

 浮島と間違えられる位大きく、背中の甲羅には樹まで生える程永く生きている。色々な事を知っていて、不思議なことが沢山出来て、怖いものも避けて通る。自慢の相棒なのだ。

 ここに来る前、千吉は大鯉の主様の助けを求める声に応じて乾涸びかけた沼地に透き通ったとてもきれいな水を湧かせて、湖にしていた。その上湖畔に色んな花を咲かせて花々の色彩豊かな畔にした。沼の主様から湖の主様になった主様は、それはそれは喜んで、弥太と一緒に湖になったきれいな水の中をはしゃいで一昼夜泳ぎ回った。その主様が言っていたのが、竜鯉でも水を湧かすなどできないのに千吉は湖にしてしまうほどテンチセツリノジョウが凄いと。


 今度は山神様だ。山神様も千吉に頼みごとしてた。神様から大変そうなお願いをされ、それをほいっと簡単に引き受ける千吉なら、茄子くらいどうとでも出来るはずだ。よしよし何とか茄子が見えてきた。


 いやいや待てよ。

 弥太はまた皿のふちをぴしゃんと叩く。

 あぁそうだ。

 千吉はまだ目を覚ましていない。今まだ寝たままだ。

 一度寝付いてしまうと自分で目を覚まさない限り、岩となってピクリとも動かないし誰も起こせない。相棒の弥太の声すら聞こえないのだから。


「そうかぁ茄子はだめかぁ」


 弥太は少しうなだれた。山神様も頼めば何とかしてくれるかも知れないが、千吉に山神様に無理なお願いはしてはならぬとそれはそれは怖い顔できつく云い付けられているので、そんなことが言えるわけ無い。

 うっかりと約束までしてしまった。

 いくら茄子の為とは言え約束は破るわけにはいかないのだ。

 だって約束なのだから。


 うんっと独り頷くと弥太は茄子を諦めた。

 それにしてもお腹が空いた。茄子を諦めた途端に更にお腹が空いてきた。

 さすさすくらいでは、もう我慢できない。

 弥太は起きて食べ物を山のみんなに分けてもらいに行くことを一大決心した。

 冷たい雪にどろどろのぬかるみはとても苦手で嫌いだが仕方ない。河童である弥太はどうにも陸が苦手だ。陸では躰が重い。

 水から上がって山深くに行くには相当の決心がいる。


 ただ、ここの山のみんなは優しいし、いつもニコニコしてくれる。

 もしかしたら山神様が、木のうろの中にしまっている白くてカリカリしてそしてトロリとした甘い蜂蜜を分けてくれるかもしれない。

 あれも素晴らしく美味しい。

 思い出しただけでも頬が緩み口の中が甘く美味しくなる。

 よし、そうと決まれば早い方がいい。


 すっかり目を覚まそうと弥太は大きな伸びをした。

 とその拍子に躰に巻き付けていた蔦からするりと抜けてしまった。

 弥太の躰が伸びをしたままの形に細長くなってしまい、するりと抜けてしまったのだ。

 更に間の悪いことに雪解け水に押された大きな雪の塊がザブンと落ちて、追い打ちをかける。大きな波紋が立ち、そのあおりをくらい、勢いがいい流れの方へ流れの方へ、どうにも抗えず持って行かれてどんどん流されてゆく。


 河童なのだからいくら幼くても平気だろうに、弥太は

「はわわわわぁ」と悲鳴をあげた。

 文字通り河童の川流れだ。


 すると不思議なことに先ほど躰に巻き付けていた蔦がするすると生き物のように伸びてきて、弥太を助け上げようとする。

 まだ春浅い季節なのに、冬枯れもせずに青々とした葉をつけたその蔦は、結構な速さで流れてゆく弥太に、迷うことなく真っ直ぐ力強く伸びてゆく。

 伸びてゆく蔦のその葉全てが緑色に輝きはじめた。

 よく見ると葉っぱの一枚一枚に緑色に輝く小人達がいるのだ。

 男や女の小人達が蔦の葉の上に座りあるいは立ち、心配な面持ちで弥太へと手を伸ばしている。各々が透き通った笛の音よりさらに澄んだ音色の声を次々とかけながら。


 弥太の伸ばした手が蔦をつかみかけた。

 が、矢張り流れが速く届かない。

 弥太は激しい本流へと白い水しぶきとともに、どんどん流されていく。

 川の両岸からすごい勢いで蔦が三本四本と伸びてくるが、躰をかすめるだけで矢張り間に合わない。


「ありゃあぁー」


 水の中に潜り込む間もなく急流にのり、おまけに甲羅を下にしたあおむけの状態で手足はバタバタさせるだけ。くるくると回りながらただ流されていくしかない。弥太は目を回しながらも辺りに何とか目を向ける。

 すぐ前に大岩が見える。大岩の先は大きな瀧になっている。


「あれぇー狼の岩、駄目っ」


 千吉とここへ来た時に山神様から言われたことがあった。あの狼の形をした大岩より先は千丈の瀧になっており、更にその先には、ケガレと謂う命に害をなすモノが在る。人里にも通じるところでもあるので、決して越えてはいけないと固く言いつけられた所だ。

 その越えてはならない大岩が目の前に迫り、瀧の轟轟と流れる音が響いてくる。


 まずい。どうしようもない。


 潜って水に掴まろうとしても、誰かが下から甲羅を支えて運んでいるかのように躰の向きすら変えられない。

 弥太はとっておきの最後の手段をとることにした。


 両の手のひらと水掻きをいっぱいに拡げて、お天道様にかざすとその手で目を覆い隠し大声でおまじないを唱える。


「お天道様。おいら悪いことしていません。なんにもしていませんっ。だからー、た・す・け・てぇー」


 葉っぱの上の全ての小人たちが、笛の音のような透き通った声で悲鳴をあげる。

 流される自分を心配する声に気付くと、弥太は精一杯の大声で


「だ、だぁいじょうぶぅ。おいら平気ぃー」


 目を隠したまま震える声だけ残して弥太は瀧の向こうへ消えていった。

 蔦の葉の小人たちは流された方向を呆然と見つめている。

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