第一章 鄧家の姉妹

一 とりえのない娘

 幸せとはなんなのか。

 鄧家とうけ山岳さんがくの異民、蜱蛄族ひせんぞくの子孫。

 それゆえ、一族は長年晋国しんこくでもっとも多い民族、盧人ろじんから差別されてきた。

 父は、娘やその子孫に同じ屈辱をあじあわせたくないと言う。わが子は妻の長くつらい不妊治療のすえにできたからと。

 おまえを世間のだれからも嘲笑ちょうしょうされないようにしてやりたい。だから盧人の有力者と結婚させたい。幸せにしたい。

 それが父の口ぐせだった。

 父はなんと盧人の皇族とのツテを得、娘をめとらせると約束させまでした。

 それからきびしい花嫁修行がはじまった。

 父の言うとおりそれが幸福なのか、わからない。なぜなら……。

 


 ことの先生のやしき。

 正座した夜糸やしは、冷汗をかきながら、琴のげんをはじく。まわりでは、おなじ年ごろの娘たちが同じように正座し、同じ曲をひいていた。

 うしろでは、夜糸の母が、じっと娘をながめている。

 先生が夜糸の背中をむちでたたいた。焼けるような痛みに、ちいさくうめく。

 

「ちがう。そうじゃない。なんど言えばわかるの」

 

 まわりの娘たちはくすくす笑った。

 母がため息をつく。夜糸はずんと心が重くなった。

 

「もう一度やりなおし」

 

 切長の目をふせ、琴の弦に指をあてた。

 指が動かない。

 まちがえるのがこわい。

 

「どうしたの? 早くして」

 



 習字しゅうじの先生のやしき。

 夜糸は筆をにぎり、紙に字を書いた。

 手は緊張でふるえ、すみの字の線はぐにゃぐにゃとゆがんだ。読めたものではない。

 先生と母がため息をついた。夜糸は自分がいやになり、うつむいた。



 

 経典きょうてんの先生のやしき。

 先生が書物を読みあげているあいだ、夜糸は正座しながら、くいいるように字をひとつひとつ追いかけた。紙の上のすみが鼻先につきそうなほど、顔を書物に近づけて。

 ほかの子どもたちは退屈そうにしている。

 

とうさん、次のぶんを読みあげてみて」

 

 声をかけられ、はっとした。書物を読みあげようとする。

 読み方があっているのか、どんどん自信がなくなっていく。

 怖い。声が出ない。

 まちがえないよう、必死で書物の字を追っていたのに。

 

「わからないの? どうなの?」

「……」

「わからないならそうとお言い。まったく近ごろの子は」

 

 夜糸はいたたまれず、身をちぢませた。


 

 

 夜もふけたころ、ようやく家に帰った。

 鄧家とうけのやしきは大きく、歩くたび、めしつかいに頭をさげられる。


 食卓を、夜糸やしと、母、妹の日利ひりの三人でかこんだ。

 夜糸の食べ物だけ量が多く、油っぽく、肉ばかりだ。

 油物は苦手だった。ぎとぎとして、はきそうになる。しかもこんなにたくさん食べると、胃もたれする。毎日、食事のあとは気持ち悪くて寝こんでしまう。

 でも、食べないと母にしかられる。男の人をよろこばせるため、もっと太りなさいと。

 自分はできそこないだから、もっとがんばらなきゃ。

 つっかえつっかえ、はしでむりやり肉をおしこんだ。


「あんたは昔からそうだ。どんくさくてものおぼえが悪い」


 母に言われ、のどがつまった。


器量きりょうも日利におとる。だれに似たのか」

「お姉さまはなんにもできないわよね。なにをやらせてもだめ。本当にあの方にむかえてもらえるの?」

 

 母と日利は、夜糸への雑言ぞうごんをはきだした。食事はぱくぱく食べながら。

 噛んだ肉が、うまくのみこめない。

 

「どうしたのお姉さま? 本当のことを言っているだけでしょう?」


 日利はつんとすましている。

 

「日利の言うとおりよ。いい加減にしなさい」

 

 母親は日利をしからない。

 いつもそうだ。


 鄧家とうけの長女の夜糸は、皇族のいいなずけとなった。以来、朝から晩まで勉強を強制され、おけいこごとをさせられ、きびしく育てられた。両親が多大な期待をかけるからだ。

 生まれると予想していなかった次女の日利は、放任されのびのびと育った。

 親は日利をしからない。だから日利は夜糸に言いたい放題。

 日利は夜糸のやることなすことすべてを否定し、けなした。

 夜糸の好きなものもすべて否定した。

 将来もさんざんあざわらった。

 鄧家で一番夜糸にきびしいのは、日利だと言ってもよい。

 そんな妹が、夜糸は大きらいだった。だが強くでれず、いつも日利に言いまかされた。自分がおとっているのはたしかだと思っていたから。


 いまも言いかえせない。

 呼吸がぜいぜいと、勝手にあらくなった。噛んだものもはきだす。

 日利はいやそうに、そでで口元をおおった。


「きたない」


 母はあきれたような顔をする。


「なぜ泣くの? あなたのために言っているのよ」


 夜糸はうつむき、目元の涙をしきりにぬぐった。

 消えてしまいたい。

 

 


 部屋にもどると、夜糸は寝台の上に寝ころんだ。

 胃腸や胸のあたりが、油のせいでむかむかとして、気持ち悪い。

 それでも目尻をこすりながら、一生懸命書物を読んだ。眠くてしかたないのを、手をつねってがまんする。

 ゆらゆらとゆれる、熱をおびたろうそくの火に、ぎっしりつまった文字がてらされる。


 そのあいだ、めしつかいの春桃しゅんとうは部屋の掃除をした。夜糸と同じくらいの年ごろの娘だ。

 春桃は、夜糸にきこえないようにつぶやく。

 

「私、名家めいかのお嬢さまに生まれなくてよかった」

「春桃、なにか言った?」


 春桃はとりつくろってへらへらと笑う。


「いいえ。ずうっとお勉強でたいへんですね」

「だって明日はとうとうあの人に、永達えいたつさまに会うのよ。なにをきかれても粗相そそうのないよう、勉強しなくちゃ。だってあの人だけは私の……」

 


 言いかけ、やめた。明日会う皇族の永達のことを思うと、気はずかしくなる。

 うつぶせに寝ころび、まくらに顔をうずめた。甘い思い出にしずんでいく。

 すらりと背が高く、優雅な物腰。色白のととのったおもだち。

 楽しい会話。それから甘いできごと。

 思いだすだけで胸が高なる。

 彼を忘れたことは、一日もない。

 

「そうですよね。ところで、『あれ』は大丈夫ですか?」

「え?」

玄鎖げんさお嬢さまは毎月この時期じゃないですか。明日は大丈夫ですか? 今月はまだ『あれ』の洗濯物がないがないですよね」

「ええ。そうね」

 

 夜糸は書物に目をもどした。読むふりをしながらじっと考えこむ。

 しまった。永達さまに会うことばかり考えて、『あれ』を忘れていた。



 

 やしきじゅうが寝しずまっている。

 暗い廊下を、足音をたてないよう、夜糸はしのびあしで歩いた。そろり、そろりと、かわやへむかう。

 通りすぎた書斎しょさいで、両親が話しているのには気づかない。


 

「どうだ? 夜糸は」

 

 書斎の椅子に座る父親が問うと、母親は首を横にふった。

 

「明日が心配ですよ。日利とちがってなにひとつ、とりえがないんですもの」

「そうか。いっそ日利が長女だったらなあ」

 

 書斎の戸の横、ものかげでは、かくれていた日利がきき耳をたてている。にやりとすると、夜糸の歩いたほうへむかった。

 

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