第一章 鄧家の姉妹
一 とりえのない娘
幸せとはなんなのか。
それゆえ、一族は長年
父は、娘やその子孫に同じ屈辱をあじあわせたくないと言う。わが子は妻の長くつらい不妊治療のすえにできたからと。
おまえを世間のだれからも
それが父の口ぐせだった。
父はなんと盧人の皇族とのツテを得、娘をめとらせると約束させまでした。
それからきびしい花嫁修行がはじまった。
父の言うとおりそれが幸福なのか、わからない。なぜなら……。
正座した
うしろでは、夜糸の母が、じっと娘をながめている。
先生が夜糸の背中を
「ちがう。そうじゃない。なんど言えばわかるの」
まわりの娘たちはくすくす笑った。
母がため息をつく。夜糸はずんと心が重くなった。
「もう一度やりなおし」
切長の目をふせ、琴の弦に指をあてた。
指が動かない。
まちがえるのがこわい。
「どうしたの? 早くして」
夜糸は筆をにぎり、紙に字を書いた。
手は緊張でふるえ、
先生と母がため息をついた。夜糸は自分がいやになり、うつむいた。
先生が書物を読みあげているあいだ、夜糸は正座しながら、くいいるように字をひとつひとつ追いかけた。紙の上の
ほかの子どもたちは退屈そうにしている。
「
声をかけられ、はっとした。書物を読みあげようとする。
読み方があっているのか、どんどん自信がなくなっていく。
怖い。声が出ない。
まちがえないよう、必死で書物の字を追っていたのに。
「わからないの? どうなの?」
「……」
「わからないならそうとお言い。まったく近ごろの子は」
夜糸はいたたまれず、身をちぢませた。
夜もふけたころ、ようやく家に帰った。
食卓を、
夜糸の食べ物だけ量が多く、油っぽく、肉ばかりだ。
油物は苦手だった。ぎとぎとして、はきそうになる。しかもこんなにたくさん食べると、胃もたれする。毎日、食事のあとは気持ち悪くて寝こんでしまう。
でも、食べないと母にしかられる。男の人をよろこばせるため、もっと太りなさいと。
自分はできそこないだから、もっとがんばらなきゃ。
つっかえつっかえ、
「あんたは昔からそうだ。どんくさくてものおぼえが悪い」
母に言われ、のどがつまった。
「
「お姉さまはなんにもできないわよね。なにをやらせてもだめ。本当にあの方にむかえてもらえるの?」
母と日利は、夜糸への
噛んだ肉が、うまくのみこめない。
「どうしたのお姉さま? 本当のことを言っているだけでしょう?」
日利はつんとすましている。
「日利の言うとおりよ。いい加減にしなさい」
母親は日利をしからない。
いつもそうだ。
生まれると予想していなかった次女の日利は、放任されのびのびと育った。
親は日利をしからない。だから日利は夜糸に言いたい放題。
日利は夜糸のやることなすことすべてを否定し、けなした。
夜糸の好きなものもすべて否定した。
将来もさんざんあざわらった。
鄧家で一番夜糸にきびしいのは、日利だと言ってもよい。
そんな妹が、夜糸は大きらいだった。だが強くでれず、いつも日利に言いまかされた。自分がおとっているのはたしかだと思っていたから。
いまも言いかえせない。
呼吸がぜいぜいと、勝手にあらくなった。噛んだものもはきだす。
日利はいやそうに、そでで口元をおおった。
「きたない」
母はあきれたような顔をする。
「なぜ泣くの? あなたのために言っているのよ」
夜糸はうつむき、目元の涙をしきりにぬぐった。
消えてしまいたい。
部屋にもどると、夜糸は寝台の上に寝ころんだ。
胃腸や胸のあたりが、油のせいでむかむかとして、気持ち悪い。
それでも目尻をこすりながら、一生懸命書物を読んだ。眠くてしかたないのを、手をつねってがまんする。
ゆらゆらとゆれる、熱をおびたろうそくの火に、ぎっしりつまった文字がてらされる。
そのあいだ、めしつかいの
春桃は、夜糸にきこえないようにつぶやく。
「私、
「春桃、なにか言った?」
春桃はとりつくろってへらへらと笑う。
「いいえ。ずうっとお勉強でたいへんですね」
「だって明日はとうとうあの人に、
言いかけ、やめた。明日会う皇族の永達のことを思うと、気はずかしくなる。
うつぶせに寝ころび、まくらに顔をうずめた。甘い思い出にしずんでいく。
すらりと背が高く、優雅な物腰。色白のととのった
楽しい会話。それから甘いできごと。
思いだすだけで胸が高なる。
彼を忘れたことは、一日もない。
「そうですよね。ところで、『あれ』は大丈夫ですか?」
「え?」
「
「ええ。そうね」
夜糸は書物に目をもどした。読むふりをしながらじっと考えこむ。
しまった。永達さまに会うことばかり考えて、『あれ』を忘れていた。
やしきじゅうが寝しずまっている。
暗い廊下を、足音をたてないよう、夜糸はしのびあしで歩いた。そろり、そろりと、かわやへむかう。
通りすぎた
「どうだ? 夜糸は」
書斎の椅子に座る父親が問うと、母親は首を横にふった。
「明日が心配ですよ。日利とちがってなにひとつ、とりえがないんですもの」
「そうか。いっそ日利が長女だったらなあ」
書斎の戸の横、ものかげでは、かくれていた日利がきき耳をたてている。にやりとすると、夜糸の歩いたほうへむかった。
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