5.2 ブロワ城の後方支援(2)シャルル七世の祈り

 裕福な商人たちを招いた宴の後、私は木桶を抱えて嘔吐していた。


「うっぷ……、おぇぇぇ……」


 胃液に混ざって、半分とろけたパイや肉の残骸、まだ原型をとどめている葉物の切れはしをびちゃびちゃと吐き出す。


「ごほごほ、うぇぇ……」


 自分の姿は見えないが、胃液混じりのよだれと鼻水を垂らし、涙目になっているのがわかる。口も鼻も、喉越しも胃の中も、すべて吐瀉物の酸っぱい味と匂いと感触で不快極まりないが、胃の中はすっきりして開放的な気分だ。


「ふう……」


 今回、大侍従ラ・トレモイユは来ていない。

 彼は私以上に小心者で、あれこれ理由をつけて戦地に近づくことを避ける。


 夜番の侍従をねぎらって下がらせると、私は用意されていた水差しから、煮沸済みの水を汲んで口をすすぎ、ついでに顔を洗った。熱いお湯もあるが、清めのみそぎには冷たい水がふさわしい。

 海綿に水を含ませて柔らかくしてから、体を順番にぬぐっていく。





 フランスには余裕があると見せつけるため、商人たちに豪勢な食事とよりすぐりの酒を振る舞ったが、私は昔から少食だ。握りこぶし大のパンがひとつ、主菜と副菜が二皿、のどを潤す果実酒があれば十分ごちそうだ。


 しかし、もてなす時はそうもいかない。

 食卓を共にし、同じ樽から酒を飲み交わすことで信頼を得られる。

 主人が同席しない、同席しても手をつけない食卓は、毒が盛られていると疑われる。そういう時代だった。


 少食なのに無理して食べなければならないことにも辟易するが、酒席の余興が好きになれなかったのも一因だ。


 巨大なパイ包みの中に、生きている鳩を仕込んでおき、給仕がナイフを入れると鳩が飛び出すようになっている。この派手な演出が、王侯貴族の間で流行していた。

 鳩は、聖書にも登場する平和のシンボルだ。嫌いではない。

 だが、熱々のパイの中に閉じ込められていた鳩は、大抵ぐったりしていたし、想定通りに飛ばなくて、給仕に急かされたり観客にいじられているのは、とても哀れに見えた。

 何より、鳩を閉じ込めていたパイ包みは羽毛や糞が混ざっていて、腕を振るった料理人には申し訳ないが、とても食べる気になれなかった。


 今、デュノワがオルレアンを守るために戦っている。

 私もまた、フランスを守るためにこうして戦っている。


 戦いとは、武器を交えるだけではない。

 英雄の武勇伝のように楽しい話ばかりではない。


 端から見れば遊んでいるように見えるかもしれないが、少ない食事と静かな生活を好む人間からすれば、かなりのストレスだ。しかし、王位を投げ出すわけにいかない。父のように正気を手放したら楽になれるだろうが、オデットをはじめ、狂王に振り回される人、国、時代——、それらを忘却することはできそうもない。


 自分がしていることが、正しいかどうかわからない。

 善意が不幸を招くこともある。そういう場面をいくつも見てきた。


 正しい誰かが、私に裁きを下すのを待っているのかもしれない。


 私は生成りの羽織りものひとつで外に出た。

 城壁に囲まれているとはいえ、冬の夜風は身を切るように冷たい。だが、今はそれが心地いい。荒涼とした中庭を突っ切り、寒さに震えながら礼拝堂へ向かった。


 最善を尽くしたら、あとは天に運を任せるほかない。


 アンジェ城の礼拝堂は大きな暖炉があった。ヨランド・ダラゴンが子供たちのために、祈りながら凍えてしまわないようにと暖炉をつけた。

 ここにはそういう優しい設備はない。冷たい石造りの礼拝堂だ。

 最低限の松明が灯っているだけで、吐く息が白い。


 オルレアンに程近いこのブロワ城で、命を賭けるつもりで願掛けをするなら、あたたかさはむしろ邪魔だ。


 私は一つ目の祈りを神に捧げた。


「神よ、私がフランス王の後継者にふさわしくないならば、この哀れな王国で多くの血と涙と財産を犠牲にしている戦争を、これ以上続ける力を私から取り上げてください」


 随分前から、私は父シャルル六世の子ではないと噂されてきた。

 真相はわかならいが、血筋であれ能力であれ、ふさわしくない人間が王位についているせいで災いが起きているなら、私は取り除かれるべきだ。


 二つ目の祈り——


「神よ、フランス王国を苦しめている災いの原因が、私が犯した罪のせいならば、どうか哀れな人々を災いから救ってください。身代わりは要りません。すべての罰を私ひとりに振り下ろしてください。永遠の死でも煉獄の炎でも受け入れます」


 私の犯した罪とは何か。

 ソールズベリー伯を砲撃したこと、ブルゴーニュ無怖公の暗殺を止められなかったこと、私を逃すためにアルマニャック伯やその他大勢が犠牲になったこと……、思い当たることがいくつもある。

 そもそも生まれるべきではなかったのかもしれない。私がいなければ、兄が死去した時点で王位継承者は断絶し、揉めることはなかったのだから。


 三つ目の祈り——


「神よ、フランス王国を苦しめている災いの原因が、王国の民が犯した罪のせいならば、どうか王の名に免じて赦していただけないでしょうか。民衆を憐れみ、慈悲を与えてください」


 もし、聖書に書かれている通りに神がいて、この三つの祈りを聞き届けてくれるなら、フランス王国は数十年間におよぶ災いから抜け出すことができるはずだ。






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