5.12 別れ際の約束(3)残り香と赤い痕

 居城のシノン城へ帰還する前にブロワ城に立ち寄った。

 シノンとオルレアンの中間地点に位置し、今はヨランド・ダラゴンが管理している。あの賢夫人のことだから、王のお忍び行動を知ったら大いに呆れて、軽率な行動をたしなめるだろうが、それでも話を聞いてくれるだろうし、私の隠密行動をごまかす手伝いをしてくれると思う。


 あと、を見込んで、今後の戦略について頼んでおきたいこともあった。


「陛下!」


 ブロワ城には、予想外の先客がいた。


「どうしてここに?」

「それはわたくしのセリフですわ!」


 振り返ると、大侍従ラ・トレモイユとその妻カトリーヌ・ド・トレーヌに付き添われた王妃マリー・ダンジューがいた。


「今は大事な時期なんだから、遠出を控えないと!」


 今、マリーは身ごもっている。


「陛下こそ、一体どちらに……? ああっ!」


 そう言いかけて、何かに気づいてはっとする。

 両手で口を塞ぎ、両目を見開いてこちらを見つめた。


「まさか、怪我をなさっているの?」

「えっ?」

「腕が……、なんてこと……!」


 利き腕を吊っている私の姿を見て、マリーは「あぁ……」と魂が抜けたようなため息をついて卒倒してしまった。全部、大袈裟な手当てをしたリッシュモンのせいだ。





「うぅ……」

「よかった、気が付いたか」

「あ、陛下……!」


 マリーはがばりと起きあがろうとしたが、ふっくらとせり出したお腹に阻まれて、苦しそうな表情を浮かべた。


「さあ、ゆっくり起きて。苦しかったら横になっていてもいい」

「そういう訳にはまいりません」

「いいから。今はひとりの体ではないのだから安静第一だ」

「ええ。それではお言葉に甘えて……」


 マリーは重ねたクッションに寄りかかり、半身だけ起こした。


「ふう」


 人心地ついたようで、私も安堵した。

 マリーはほっとした表情で、しげしげと私を見つめた。


「夢を見ていたのかもしれません」

「どんな夢?」

「陛下がひどい怪我をして帰ってくる夢……。でも、あれは本当に夢だったのかしら」


 卒倒する前に見た「腕を吊っている私の姿」と混ざっているのだろうか。

 だとしたら、やっぱりリッシュモンのせいだ。


「確かに見たと思ったけれど、気のせいだったみたい」


 マリーが気絶して介抱されている間に、私は侍医の診察を受けた。

 今は大袈裟な手当てから解放されて、利き手の患部は薬剤を塗っているだけだ。負傷してすぐに適切かつ十分な応急処置をしたおかげで、軽症で済んだともいえるが。


「陛下がどこにもいなくて、なんだかとても不安になってしまって……。大侍従に無理を言って、お母様に助言を求めに参りましたの」


 妊娠中から出産後にかけて、母体は不安定になり命を落とすこともある。

 もしかしたら、肉体だけでなく精神的にも不安を感じやすくなるのかもしれない。


「気のせいかしら。部屋の中なのにバラの香りが……」

「そうか?」

「陛下の匂い? バラの香油かしら?」

「ああ、そういえば」


 リッシュモンお手製の薬には、バラの香油が含まれていた。


「ええと、手を少し火傷してしまってね」


 ごまかして、変な疑いをかけられたくないので正直に話した。


「卵白とバラの香油とあともうひとつ、何だったかな……で作った薬だ。たぶんその残り香だろう」

「まぁ、パン焼き釜にでも触れてしまったの?」


 マリーはくすくすと笑い、私は苦笑いした。


「ははは、当たらずとも遠からずってところかな。マリーも熱いものを食べるときにはくれぐれも気をつけて」

「ええ、そうね……」


 不安な心をなだめるように額を優しくなでると、マリーは気持ちよさそうに私にもたれかかってきた。


「王太子を身ごもっていた時よりお腹が大きいんですって」

「じゃあ、双子かな?」

「1年経たずに死んでしまった次男、お腹の中で流れてしまった3人目……。あの子たちが帰ってきたのかしら」


 しばらく、他愛もないことを話した。

 不安の原因は、妊娠による心身の変化だけではないだろう。

 オルレアン包囲戦で敗北を喫すれば、私たちの未来も危うくなり、ロワール流域から南フランスへ退くことになるかもしれない。


「ねえ、陛下。言いづらいのですが……」

「遠慮はいらない。何でも聞いていい」

「首筋の赤いあざは誰がつけたのかしら?」

「えっ……」


 不意を突かれて絶句した。

 マリーはドレスを握りしめ、瞳に涙をためながら私に尋ねた。


「ゆうべは、一体どなたとお楽しみだったの?」


 マリーが想像しているであろう光景とは少し違うが、思い当たることがひとつある。

 詰まった立て襟の下、よほど近づかないと見えないような場所——、右の首筋辺りに手を触れたが自分ではよくわからない。見下ろしても、角度が悪くて赤いあざは見えなかった。


「もしかして、アニエスかしら?」

「馬鹿なことを」

「あの子はとても綺麗だから……」

「そんな訳ないだろう」


 前夜、私の首筋に顔をうずめて、どさくさに紛れて吸っていた奴がいる。

 ああもう、やっぱりリッシュモンが全面的に悪い!

 だが、昨夜の一部始終を話すことはできない。


「考えすぎだよ、マリー」

「そうかしら……」

「後ろめたいことは何もない。ほら、虫刺されだってこんな風になるし」

「そうね……」


 マリーはうつむいて目を閉じ、それ以上詮索しなかった。


 この年、マリー・ダンジューはシノン城で双子の女児を出産した。

 母子ともに健康で、私は、明るい金髪の長女をラドゴンド、褐色の髪色の次女をカトリーヌと名付けた。

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