1.3 ヴェルヌイユの戦い(3)王の食卓
1424年時点でフランス王国ヴァロワ王朝の直系男子は、私ことシャルル七世と、1歳になったばかりの長男ルイ、そしてロンドン塔に幽閉中の従兄オルレアン公——シャルル・ドルレアンの三人だ。
対立するイングランド王ヘンリー六世は3歳で、摂政の叔父が二人いる。
シャルル・ドルレアン解放の兆しはない。
私の身に何かあれば、イングランドはフランス王位簒奪を確実に射止めるだろう。
私たち父子はできるだけ危険から遠ざけられ、過保護なくらいに守られていた。
それゆえに、私はヴェルヌイユの戦いへ行かなかった。
若い王が最優先すべき公務は、世継ぎをもうけることだ。
幸い、王妃マリー・ダンジューは初めての出産で男児を産み、すでに二人目を身ごもっている。侍医の見立てによると、今度は双子かもしれないという。
「おめでとうございます!」
「マリー王妃もルイ王太子も健やかで何より!」
「フランス王家はますます安泰でございますなぁ!」
ヴェルヌイユで惨敗してメーヌを奪われたというのに、側近たちは都合の悪い現実に目を背けながら祝いの言葉を口にする。
「……ありがとう」
自分が道化だと知っていながら、私はこの悲喜劇の舞台から降りられない。
***
模範的なキリスト教徒は、1日3回の祈りを日課としている。
深夜、長い祈祷と懺悔を済ませて礼拝堂を出ると、アルテュール・ド・リッシュモン伯が待ち構えていた。訳あって迎え入れたばかりの側近で、彼のことはまだあまり知らない。
「こんな夜更けに何事だ」
休もうと思っていたのに、急ぐ仕事か、それとも小言だろうか。
「急用じゃないなら明日にしてほしい。私はもう休む」
「夕食を用意して待っていました」
「いらない」
「きょうで、何日目ですか」
聖職者たちはたびたび「断食して身を清め、神に許しを乞いましょう」と進言する。
大抵の王侯貴族は飽食ぎみだ。ぜいたくな暮らしを戒め、胃腸を休めるという意味では理にかなっている。勧められるまま、私もしょっちゅう断食していた。
「陛下はやりすぎです。まるで自分を痛めつけるように食事を絶ってしまわれるのですから」
短い付き合いだが、リッシュモン伯はまじめで頑固で融通がきかない。
遠慮知らずで正論を吐くので、まともに話を聞いていると言いくるめられてしまう。
私は無視を決め込むと、まっすぐに寝室へ向かった。
「これ以上はお体に差し障ります。今夜こそは、無理にでも食べていただきます」
厨房から食堂へと続く回廊を通り過ぎるとき、進路を妨害されるかと警戒したが、別にそんなことはなかった。素通りして寝室へ。
「さて、もう着いてしまったぞ」
聖職者も、取り巻きの側近たちも「王のために」と口々に言いたいことを進言してくるが、内容はてんでバラバラ。王のためと言いつつ、それぞれ都合のいい既得権が絡んだ話ばかりだ。
リッシュモン伯の場合は、さしずめブルターニュの権益と地位向上だろうか。
彼の兄はブルターニュ公だ。むやみに冷遇できないが、食事のことまで指図される筋合いはない。
「それではおやすみ、リッシュモン伯」
遣り手の側近たちに言いくるめられてばかりだから、久しぶりに「勝った!」と思ったのだが。
寝室の扉を開けると、いい匂いが漂ってきた。
「な、何だこれは……」
「就寝前に寝室でものを食べるのは行儀が良いとは言えませんが」
リッシュモン伯は「絶食が続くよりましです」と言いながら、私の肩に手を添えて寝室に押し込み、続いて入室してきた。
(寝室の前で追い出すつもりだったのに、油断した……)
夜間でも急用に対応できるように、寝室には書斎と椅子が用意してある。
机上の筆記具は片付けられて、代わりにパンが詰まったバスケットと湯気のたつ皿が並んでいた。
「勝手にこんなことを……!」
「ええ、侍従長はすでにお休みでしたので、勝手にやらせていただきました」
さらに——
「私の独断ですから。控えの侍従と小姓たちの負担にならないよう、私が給仕しましょう」
「貴公はブルターニュ公の弟だろう。給仕の真似ごとをさせるわけにいかない」
「気遣いはご無用です。慣れておりますゆえ」
昔、養父ブルゴーニュ公のもとで小姓をしていたときに、こまごました雑用をあらかた経験しているらしい。半ば強引に食卓につかされた。
先回りされて「してやられた」気がして、私は不機嫌だったが、用意されたものを食べずに捨てるのは神への冒涜だ。キリスト教徒はいつも「日々の糧をお与えください」と祈っているのだから。
「陛下は、私を疑っておられるのですか」
「何のことだ」
「給仕中に毒を盛られないかと、疑っておられるのかと」
機嫌の悪さがにじみ出ていたらしい。
リッシュモン伯は勘が鋭く、こちらの心の機微をすぐに察知してしまう。
媚びるために権力者の顔色をうかがう人間がいるが、リッシュモン伯の態度はそれとは違う気がする。
「別に、疑っているわけでは……」
リッシュモン伯は、イングランド王家やブルゴーニュ公と縁が深い。
それなのに、なぜ、落ち目の「シャルル七世」に臣従したのか。
彼の本心がわからないから、私は苛立っているのだろうか。
「ご相伴にあずかってもよろしければ、陛下が召し上がる前に私が毒味をいたしましょう」
「毒味? 疑ってないと言っただろう。ともに食事をしたいなら貴公の好きにすればいい」
私は同席を許可した。
食前の祈りを唱えるかたわらで、リッシュモン伯が肉料理を切り分けている。
柔らかい肉の部分と骨を外したときに、赤く滴る血が見えた気がした。
大きな赤い肉の塊を一切れずつ、部位ごとにナイフを入れて、骨を外し、皮を剥ぎ、ばらばらに解体して——
「うっ……!」
「陛下、どうされました」
数日間の断食で、とっくに胃の中は空っぽだというのに、ふいに酸っぱいものが込み上げてきて、私は慌てて席を立とうとした。
大きな音を立てて椅子が倒れ、私はその場でうずくまった。間に合わない。
「……大丈夫だ、毒ではない」
少量だが、床に胃液を吐いた。
手付かずの食事を汚さなかったのは幸いだが、食欲は完全に失われた。
「だから、食べたくなかったのに……」
胃酸の匂いが目に染みて、ほろっと涙がこぼれた。
戦死者の身元を調べるために、ヴェルヌイユで回収した死体をいくつか検分した。
首を切られたもの、四肢を切断されたもの、ふやけきった水死体——いずれも変わり果てた姿だった。
「メーヌ侵攻の報復として『戦う』と決めたのは私だ。私のせいだ……」
以来、食事を受け付けなくなった。
死体を連想させる肉料理はなおさらダメだった。
「また死なせた。私のために死んだ犠牲者はこれで何人目だ。何千、何万人が死んだのだ……!」
うわ言のように自責をつぶやき、ぐすぐすと泣きじゃくる私をベッドに横たえると、リッシュモンは黙ったまま吐瀉物を拭い清め、冷えた水を汲んで戻ってきた。
口内をすすぐように促されて、私は素直に従った。
「何も食べたくない……」
「そうはいきません。人は、何も食べずに生きることはできないのですから」
理屈や正論で納得できるなら、こんなに苦しんだりしない。
きっと私は人より心が弱いのだろう。
王侯貴族は、感情に振り回されてはいけない。
宮廷に来たばかりの新参者に、「軟弱な王」の姿を知られたくなかった。
「こうして人前で醜態を晒して、私に恥をかかせることが貴公の目的なのか……?」
「そんな訳がないでしょう」
吐いた痕跡はきれいに消され、吐瀉物がかかった服も手際良く着替えさせられた。
今夜、王の寝室で起きたハプニングはリッシュモンひとりしか目撃していないのだから、王は恥をかいていないのだと諭された。
「もういい。出ていってくれないか」
「しかし……」
「一人になりたいんだ」
リッシュモン伯は一呼吸ほど考えてから、「仰せのままに」と答えた。
(出て行けと言わなければ、一晩中ここに居座るつもりだったのか?)
さすがに、それは聞かなかった。
きっとリッシュモン伯は「王を見張る」ことを任務だと考えているのだろう。
仕事熱心な家臣には、ふさわしい役目を与えればいい。そうすればきっと——
「おやすみなさいませ。どうか、今宵だけでもあなたの心が休まりますように」
眠りに落ちる直前、不思議なほど心地良いささやきが聞こえた気がした。
***
翌朝の食事は、香草と羊のしっぽを煮込んでとろみを効かせた
不思議と吐き気はしなかった。ちなまぐさい肉料理と違って死体を連想しないせいだろうか。
何日も食べていなかったから、あたたかい汁気がじんわりと身体中に染み渡るようだった。
王の食卓としては地味すぎるメニューだが、めずらしく食が進み、お代わりまでしてしまった。
あとは、少量のパンと果物があれば、私には充分なごちそうなのだ。
(※)敬虔なキリスト教徒は少なくとも1日3回祈祷するそうで、シャルル七世は最初に必ず「犠牲者のための祈り」を取り入れていたとのこと。
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